Ⅳ 転変の訪れ-1


  青く澄み渡った空を翼いっぱい広げて飛ぶ。私は空の散歩が大好きだ。

 広大な自然や海を見渡す景色も風を切る感覚もぽかぽかと暖かい太陽の温もりを感じるのも、心地よく心を穏やかにしてくれる。今日も世界は美しい。


 岸辺で鳥たちと心通わせる少年を見つけ、私は彼に気づかれぬようにそっと背後に降り立つ。音を立てないように近づき背を軽く叩く。

「わっ!」

「うわああああ!…もー!驚かさないでよ、リオス!」

  セレネの吃驚した顔が面白くもあり拗ねた顔が可愛くもあり笑いが止まらない私を彼は怒った。鳥たちもセレネの声に驚いて音を立てて飛んで行ってしまった。

 何度驚かそうがセレネは良い反応をしてくれる。兄弟の中で一番親しく仲の良い弟だ。私を睨んでいるであろう瞳は大きく愛らしくてちっとも怖くない。

「ごめんごめん。やっぱりセレネは楽しいね」

「僕が揶揄われているだけじゃないか」

「そんなことないよ。空や森の散歩も一人よりセレネと一緒のほうが楽しいもの」

  そう、一人よりも二人、二人よりも大勢。誰かと過ごす時間は楽しい。けれどこの世界には七人しか言葉が交わせない。

 寂しいと感じたことはないけれど、多くの生命が居ればもっと楽しい時間や出来事が増えるのではないかと最近思う。

「そりゃ僕もリオスと一緒は楽しいけど…声を掛ける時に驚かすのは止めてよ」

「えへへ、次は気を付けるよ」

「もう何度もそうやって嘘を吐かれた」

  弟には申し訳ないけれど、この楽しみは止められそうにない。

 それだけ私にとってセレネの反応は好きで堪らないのだ。


  私達双子は昼夜転換の度に顔を合わせる。昼夜の転換は一人でも可能だから直接会う必要はないのだけど、初めからそうしていたのでお互いの確認を取ってから変えるのが当たり前になっていた。

『静寂の訪れ、月夜よ安穏の時に導き優しく包みたまえ』

  セレネが詠うと空はたちまち暗くなり太陽は沈み、代わりに月が空へ浮かび上がり辺りを星が瞬いた。陽の光を受けてキラキラと輝いていた海が途端に暗く沈んだように見える。

「タナトスお兄様はお元気かな」

  海を見るとタナトス兄様を思い出す。

 私達兄弟は皆同じ宮殿に暮らしている。大抵そこで顔を合わせるのだけど二番目の兄、タナトス兄様は宮殿に帰って来るどころか空や陸地にすら滅多に姿を現さない。長い時間を海の底で過ごしているそうだ。

  兄弟にはそれぞれお父様から与えられた役目がある。

 私は太陽を司り、セレネは月を司る。私達二人は昼と夜、時間の管理を任されている。だから顔を合わせる事も多いし行動もよく共にする。

  タナトス兄様は地底や海を守護し生命の終焉を司り、一番上のウラノス兄様は地上や空を守護し生命の安寧を司る。二人で生命の循環を任されている。

 二人は守護地からあまり離れない。責任感からかそれとも興味がないのか分からないけれど。ウラノス兄様は宮殿に居るから会おうと思えばすぐに会えるけど、海の底に居るタナトス兄様に至っては数度お見かけした程度だ。

  兄弟の中で自由に動き回っているのは私とセレネ、あとはレイア姉様とアレス兄様くらいだろうか。暗い暗い海の底でタナトス兄様は一人きりで寂しくはないのかな。


「元気、じゃないかな。最近地上へ出てきていたし」

「え!?私はお会いしてない!」

  私とセレネにはパワーバランスがあり昼は私、夜はセレネが力をより発揮できる。夜も好きだけど、昼より力が出ないので私は夜になると大人しく宮殿で休んだり、森でじっとしていることが多い。反対にセレネは夜に空を飛んだり歌ったり、動物たちと会話したりと昼に比べて活発だ。

 私はもう随分と長いことタナトス兄様の姿すらお見かけしていないのに。

「僕だって偶然お姿を見ただけで…そういえばかなり前にお見かけした時も夜だったかな…」

  もしセレネの言う通りタナトス兄様は夜にしか海から出てこないと言うのであれば私がお会いできる確率はより下がる。夜の時間は私を含め他の兄弟も活動を休めるが、夜を司るセレネは唯一行動している。

 タナトス兄様も夜のほうが過ごしやすいのかもしれないけど…まるで兄弟を避けるようなタイミングで地上へ来ているみたいだ。

「…私、嫌われてるのかな」

「そんなことはないと思うけど…そもそもタナトス兄様は僕らに興味があるのかな」

  たしかにタナトス兄様は兄弟の中で一番口数が少なく誰かと親しくしている様子もない。対であるウラノス兄様にさえどこか距離を置いているようにも見えた。…だけどずっと一人は寂しいよ。


「よし、タナトス兄様に会って来る!」

「今から!?リオスは力が弱まっているんだからせめて昼に――!!」

  身体を軽く動かし海の底へ行く意志を固める。私はセレネの言葉を最後まで聞かずに海へと潜った。初めて訪れる夜の海は思っていたよりもずっと暗く冷たかった。

 翼が使えない海中では魔力を頼りに進むしかない。空なら翼の力だけで軽々と何処へでも行けるのに不便だ。でも、海や湖など水中の景色は幻想的で胸が高鳴る。

  底へ近づくにつれて魚や海藻は減り、次第に生き物も植物もなくなっていく。

 地上の光が一切届かない暗闇、まるで闇の世界にでも迷い込んだのかと錯覚してしまいそう。そんな虚無の闇に独りで佇むタナトス兄様の姿を見つけた。


「タナトス兄様!」

  私の声に反応してゆっくりと上を見上げたタナトス兄様は不思議そうに首を傾げた。隣に降り立つと兄様は少し身構えた。私の来訪が異常に感じるのだろうか…。

「…何の用だ?」

「特別用はないのですけど」

「用件もなしにこんな所までわざわざ降りてきたのか?」

「はい。タナトス兄様にお会いしたかったから」

  正直に答えると眉を顰められ視線を外されてしまう。そんな兄様の様子に怒られるのかと思ったけど、違った。

「変わり者だな」

  ぽつりと呟いたが声のトーンは変わらない。私が海底に潜って来たことが心底不思議でたまらないのだろう。

「そうですか?」

「ああ。ここに来たことがあるのはお父様とウラノスだけだ」

「何だ、お二人とも来てるじゃないですか」

「頻繁に来るわけではない。こんな…息苦しい場所」

「兄弟に会うのに特別な理由が必要ですか?それに"こんな所"って言いますけどここはタナトス兄様の大切な守護地でしょう?」

 私にはタナトス兄様の言っていることのほうが段々不思議に思えてきた。

「大切だ。しかし他の者は訪れる必要がないだろう」

「ありますよ。タナトス兄様が居ますから」

「…周りをよく見てみるといい、それでも同じことが言えるか?」


  言われた通り今一度周囲を見回すと闇に紛れて動物の亡骸や地上から沈んできた魔力の粒子たちが見えた。初めて死を目の当たりにして心臓が止まる。この異様な暗さはこれらを隠す為なのだろうか。なんて苦しくて、悲しくて、寂しい場所なのか。私は自分の楽観的な思考を恥じた。

「ここは生命の終着地、星へ還す場所だ。分かっただろう、早く帰るといい」

  私達兄弟にはぞれぞれに与えられた星を守る役目がある。

 だけど、こんな…全ての痛みを抱えるようなことをたった一人でさせられるなんて…。想像だけで気が狂いそう。何も知らずに地上で笑って過ごしていた自分が愚かしくさえ思える。

  お父様のお言葉は絶対だ。けれど、私はもう…知らない自分には戻れない。

 何ができるかなんて分からない、でもタナトス兄様を独りにすることだけはできなかった。


  意を決してタナトス兄様を改めて見ると彼は驚いていた。私が怯えてすぐにでも帰るとでも思っていたのか。

 星を守ることは大切な役目だ。でもそれは兄弟を蔑ろにしていい理由になんてならない。

「タナトス兄様はお話は嫌いですか?」

「…嫌いではないが」

「でしたら私とお話してください!」

「君が俺と話す必要も面白みもないだろう」

「それを決めるのは私です!」

  あまり表情を変えなかった兄様が明らかに困った顔をした。感情がないなんてことはない、タナトス兄様にだって私達と同じ心がある筈だ。

「私はもっとタナトス兄様を知りたいです。ですからお話をしましょう!」



  こうしてタナトス兄様とお話をする機会が増えた。

 私が海底へ会いに行き一方的に話をすることが多かったけれど、兄様はどんな話も親身になって聞いてくれた。疑問に思うことを話せば丁寧に分かりやすく教えてくれた。それに時折覗かせる兄様の笑みを見ると嬉しくて、私はいっぱい話をした。

  無表情で冷たい印象の彼は誤解だった。

 感情表現が乏しいだけで、本当はとても優しくてちょっぴり天然だ。遠慮ばかりする人で自分よりも私のことばかり気に掛けてくれる。「ここまで来るのは大変だろう」とか「俺と居ても面白くないだろう」とか。その度に私は「楽しいから会いに来ている」と言い続けていた。

 だけど一度だけ、嫌がられているのかと心配になり「迷惑ならもう来ません」と言った。すると彼は悩んだ様子だったが「…迷惑ではない」と躊躇いつつも明言してくれた。受け入れてもらえたことがとにかく嬉しくて。敬愛すべき兄を人として愛しく思った。

  二人の時間は穏やかで心地良くて。でも時が経つのはあっという間で。

 いつしか何よりも待ち遠しく楽しみな時間になっていた。

 最初は恐怖に思えた暗くて冷たい海底へと何度も何度も足を運んだ。


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