Ⅱ 心の疼き-1


  この世界に生を受け初めて目を見開いた時、そこには慈愛に満ちた顔をしたあなたが居た。

 大きな掌で頭を撫でられるだけで安心できて、微笑みかけられるだけで嬉しくて。 

 私だけに向けられた愛は、その満ち足りた幸福な時は深く深く私に刻み込まれた。

 

  私のお父様は温和で寛大でなんて素敵な人なのだろうと誇らしかった。対して共に生まれたアレスは思いついたことをすぐに行動に起こす落ち着きのない子だった。

やがてお父様は私達二人に役目について説きつつも愛情を注ぐと長い眠りについてしまった。

 まだ幼い私達を迎えてくれたのは先に生まれていたウラノス兄様。彼はお父様に似て穏やかで優しい人だった。自然についての知識や魔力の扱いを丁寧に教えてくださって三人での生活も不自由なく充実していた。いつかお父様が目覚められた時に喜んでもらえるよう私は学びに励み、務めにも精を出した。

  時折、ウラノス兄様は寂しそうなお顔をなさる。後に知った、私達にはもう一人家族が居るのだと。私にアレスが居るように、ウラノス兄様にも対の子がいらっしゃった。


  もう一人のお兄様に出会ったのは私が海に溺れた時だった。空を飛びながらアレスと遊んでいたら不注意で海へと落ちてしまった。未熟な私は翼の自由がきかない水中で混乱し沈む一方に。そんな私を救ってくれたのが底より現れた暗闇だった。

  闇の靄に包まれたと思い驚き戸惑った。しかし靄をよく見れば人の形があり背には白い翼が垣間見える、私達と同じ姿だ。少しずつ明瞭になり確認できた救い主は光のない暗い瞳、感情が読めない無表情、温もりのない冷たい肌をしていた。彼は壊れないように私を抱えてくれているのに、私の身体の震えは止まらない。どうしてなのか分からなかったが私の本能が未知を恐れていたのかもしれない。


「レイア!」

  海面を飛び出し浜辺に辿り着くとそっと降ろされる。アレスは私達を見つけると駆け寄ってきた。煩い鼓動に急かされるように私はその人から離れアレスの後ろに隠れた。怯える私の様子を見てアレスは男に敵意を向ける。

 あの人は悪い事など何一つしていない、私はお礼を述べなくてはならないのに口が上手く動かない。私達二人を見て彼は哀しそうに笑うと背を向け海へと歩き出す。

「――待ってください!タナトス!」 

  ウラノス兄様が慌てた様子で飛んで来て私達の傍に降り立つとすぐに私とアレスをそれぞれ片手で抱き寄せた。兄様は自室から世界中を見渡せる、私達の異常に気付き急いで駆けつけてくれたのだろう。それにしても兄様の大きな声を初めて聞いた。

  私とアレスは縋るようにウラノス兄様の服にぎゅっとしがみついた。けれどウラノス兄様の瞳は私達ではなく同じ翼を持つあの人を見つめていた。呼び止められた彼は少し立ち止まったが振り返ることはなく海へと帰って行ってしまった。そんな彼をウラノス兄様は泣きそうな顔で見送っていた。


「ウラノス兄様…?」

「…ああ、すみません。二人とも怪我はありませんか?」

「俺は大丈夫だけど…」

「レイア、怖かったですか?」

  二人からの視線が集まろうと私は未だに言葉を発することができず、ただ頷いた。あの人はもう居なくなったというのに冷たさが消えない。

  あんなに虚ろな人は初めて。動いているのに意思なんてないような。でも底無しの寂しさが痛いほど伝わってきて…思い出すだけで胸が苦しくなる。

「…そうですか」

  私を安心させようとウラノス兄様は抱き上げあやしてくれた。あの人と同じ行為なのに感じ方がまるで違う。伝わる熱は温かくて心がざわつかない。だけど、哀しそうに笑うウラノス兄様の顔はタナトスと呼ばれたあの人と同じ表情をしていた。

 死と孤独の匂いを纏うもう一人のお兄様は怖かった、私は恐怖を知った。


  水は豊穣を司る私にとって近しいものだというのに、私は海に怯えるようになってしまった。あれ以来、海の中へは一切近づこうとはしなかった。またあの寂しさに侵されるのかと思うと身体が竦んだ。




  時が経ち、私にも妹と弟ができた。新たな生命は小さく無垢で綺麗だった。

 昔も自分はこうだったのかと思うと不思議な気持ちだった。

 ウラノス兄様がしてくださったように私も二人を教え導き、守ろうと努めた。

 二人とも素直で聞き分けもよく、愛情を抱くには時間など掛からなかった。

 自分の行いに健気に応えてくれることは純粋に嬉しかった。

 私は二人を大切な家族として、守るべき存在として迎え入れていた。


「セレネ」

「!…レイアお姉様…何の、御用でしょうか…」

  末の弟、セレネは気弱ですぐに緊張した様子になる。怖がらせるようなことはしていないのだけど、リオス以外の兄姉が話しかけると身体を強張らせているのが分かる。

「最近リオスの姿を見る機会が減ったから、あの子は元気にしている?」

  リオスは気ままな性格をしていて一人で何処へでも散歩に出てしまうことが多いがそれ以外は常にセレネと共に行動していた。それなのに最近はすっかりセレネが独りぼっちで居る姿が目立つ。

「はい、とても元気ですよ」

「そう…最近二人で居る姿を見ないから…喧嘩をしたわけではないのね?」

「喧嘩はしていません…リオスの…出掛ける時間が長くなっただけです」

  リオスは無責任な子ではないから役目はきちんと果たしているので大きな問題はないだろう。けれど私やアレスのもとに意味もなく遊びに来るような人懐こい彼女の姿をあまり見ないのが少し気にかかった。仲の良いセレネを置いて彼女は一人で何処へ出掛けているのかしら。セレネならば彼女の動向を知っているかと思ったのだけど…喧嘩をしたわけでもないのにセレネの歯切れが悪い。


「寂しくはない?」

  私は純粋に弟が心配になった。彼の傍に寄り、話をしっかり聞こうと試みる。

 リオスもセレネもどちらも可愛いと感じるのだけど、特に繊細なセレネは気になってしまう。あまり他の兄弟と話そうともせず、閉じ籠るような性格で放っておけない。自分が姉だからなのか、どうにか力になってやりたいと思ってしまう。

「大丈夫です、話し相手になってくれる動物達が居ますから。それに一人の時間は嫌いじゃないです」

  彼の言うことに私は共感できた。私も一人の時間は苦痛ではない。一人で花々や緑を育む時間は私にとって最大の癒しだ。美しいものは見るだけで心を穏やかにさせてくれる。自分が手に掛けた分だけ花や植物は綺麗に咲き誇り応えてくれる。それが愛おしくて堪らない。

「…だけど」

「だけど?」

「リオスを遠くに感じます…それが嫌だという訳ではないのです。ただ、変わっていく彼女が…少し怖いです。彼女が幸せならば悪い事など何もないのに…何故だか…寂しいのではなく怖くて…」

  そうポツりポツりと上手く言葉に出来ない思いをセレネは吐露した。彼が自ら不安を口にすることは珍しい。それだけリオスがセレネから離れていることを意味しているのかもしれない。


「リオスは何処へ出掛けているの?」

  彼女が変わっているというならばその原因がある筈だ。私からすればリオスは散歩であろうとセレネを連れ回している様子が記憶に新しいのだけど。

「タナトス兄様のところです」

「…どうして、急に…」

  予想もしなかった兄の名が出て少し思考が止まってしまう。私の中の彼は恐怖のイメージで固まっている、思わず声が震えてしまう。長い時を独りで過ごし、兄弟との接触を断っている兄のもとへなんて…。

「最初はリオスのいつもの気まぐれだったように思います。ですが、リオスは日に日に海の底に居る時間が長くなりました。まるで熱に冒されているみたいで…リオスは幸せな表情をするから楽しい時間を過ごせているのでしょう。だけど、分け隔てなく光を照らしてくれる昔の彼女はもう居ない…きっと"特別"を見つけたんだと思います」

  セレネの言う"特別"の意味を私はよく理解ができなかった。だけどそれはリオスを変えてしまうような大きな何かだということは察することができた。


「強い想いを抱くと僕らは変わってしまう…僕は変化に上手く順応できないみたいです」

  膝を抱えて落ち込むセレネはどうやら本当にリオスに対しては一切負の感情を抱いていないようだ。恐怖を感じる自分を責めている。どうしてそんなに自分を傷つけてしまうのだろう。もっと自分を甘やかしたっていいのに。他者を責めたって不思議ではないのに。すぐにセレネは自分に非があると考えてしまうようだった。

「変わろうとしなくてもいいんじゃないかしら」

  少しでもセレネを安心させてあげたい。その一心で彼の小さな背に手を当てる。

 兄弟の誰よりも繊細な彼は他者の感情を敏感に察し、抱え込み過ぎている。

「リオスが変わったからってセレネまで無理に変わる必要はないわ。あなたは今のままでも大丈夫。誰もあなたを責めたりなんてしないわ」

「…はい」

  セレネはようやく笑みを見せてくれた。妹が幸せだというならば、弟も幸せになってもらわなくては。セレネにもリオスと同じ位、その可愛い笑顔を見せてほしい。


「お、珍しい組み合わせだな」

  偶然通りがかったアレスが場の空気を壊すような明るい調子で話しかけてくる。

 間が悪い…まったく兄弟一、無神経な男だ。

「私とセレネが二人で話していたっていいでしょう」

「いいけどよ、リオスが居ないんだなと思ってさ」

  私は一瞬言葉を失う。思わず手が出そうになったのをため息を吐いて堪える。

 話の流れを知らない彼に悪気がないのは理解できるが、それにしたって蒸し返すようなことを言うなんて…!心配りが下手、空気が読めない。この人が自分の対であることが恥ずかしくなる。

「…リオスは今もタナトス兄様のところに居ると思いますよ」

「ええっ!?そうなのか!?タナトス兄様って誰も寄せ付けないから俺達に興味ないのかと思ってたよ」

「リオスが言うにはそんなことは全くないそうですよ」

「へえー…さすがはリオス、気難しいタナトス兄様の心も解いたか、すごいな」

「タナトス兄様を振り回してご迷惑をお掛けしていなければいいのですが」

「あはは、あり得るな!あいつ結構強引だもんなー」

  アレスに話を合わせてあげるなんて…優しい子ね。セレネは私が思っているよりも冷静に物事を考えられる知的な子なのかもしれない。

「でも…いいのかしらタナトス兄様に会いに行って」

「いいだろ、兄妹が仲良いことは良いことだ」

「…本当に、あなたって能天気な人ね」

「レイアこそ、また難しいこと考えてるだろ」

「アレスは考えなさ過ぎなのよ」

「そうですかー」

  拗ねたみたいに私の言葉を聞き流したアレスはすぐに別の話題に移しセレネと世間話を始めていた。私だけがリオスとタナトス兄様の逢瀬に不安を感じているみたいだった。


  タナトス兄様が海底に閉じ籠り、兄弟との接触を避けている本当の理由を私達は知らない。会いに行くこと自体が禁じられているわけではない。だけどお父様もウラノス兄様も、タナトス兄様は独りで居ることが当然といった態度をとる。触れてはいけないものみたいに。だから私達もタナトス兄様は独りがいいのだと思い込んだ。

  思えば兄弟だというのにどうしてタナトス兄様だけに孤独を強いるのだろうか。

 何故だろう、今まで気にも留めなかった事実に気づいてしまった自分が少し怖くなった。途端にセレネとは違う、言葉に出来ない恐怖が少しずつ私の心を蝕んでいた。


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