ノイローゼ
1933年のミュンヘン、ある通りの地下にある酒場でハイドリヒは友人と酒を嗜んでいた。周りには娼婦と共に酒を飲み、彼女の腰に手を回そうとしている男や、完全に酔いつぶれてウエイターによって外に運び出される者、愛人に別れ話を切り出され涙ながらに縋りつく男と様々な人間がいる。
そして彼、ハイドリヒはその酒場の奥にあるテーブルで酔った勢いからか何かを熱く語っている。
「……だから我々は奴らを絶滅させなければならない。なぜかって? 社会の『癌』だからさ。正常な細胞たる我々を汚染し、蝕んでゆく。それが奴らだからだ」
「奴らって、ユダヤの事か?」
「それ以外に誰がいるってんだ」
友人の質問に間髪入れずに返答したハイドリヒはまた一度カクテルを流し込み、はぁと大きく息を吐く。
「ここには上司もいないんだし本音で……」
「何を言ってるんだシャルン、本音に決まっているだろう? 私が生まれてから嘘を吐いたことがあったか?」
呆れたように言うシャルンの言葉を遮りながら彼は鋭い目を向けそう返した。
「『仕事だから』ユダヤ人を追いかけているが、ユダヤの絶滅なんて俺としちゃあどうでもいい話かな。それよりいつからそんなにナチズムに熱心になったんだ?」
ラム酒ベースであろうカクテルの入ったグラスをからからと揺らしながら彼は「聞いたはいいが正直無関心です」と言わんばかりの表情を向けてハイドリヒに訊いた。
「こいつはな、小さいころにユダヤ人関連でいろいろと酷い目に合ってるんだよ」
「またその話をするのか?」
そうハイドリヒが遠回しに話すのを止めようとすると横からシャルンが割り込み
「ブルクハルト、詳しく聞かせてくれ」
そう言ってくる。ハイドリヒは「あまり喋るな」と牽制をかけるが全く意味をなさず
「ハイドリヒの父親にユダヤ人疑惑ってのがあってな……」
そう意気揚々と語り出すが
「それは単なる悪質な嘘だ」
そうハイドリヒが割って入り話を止めようとする。
「ああ、俺もそう思いたいよ。だが、社会的には悪印象でな」
「まあ、去年にヒトラーが政権を取ったくらいだからな。『背後からの一突き』が言われるこのドイツじゃユダヤ人の疑惑があるだけで息苦しくなる」
しかし話を止めようとしたものの、それは止まるどころかどんどんと大きくなっていく。
「で、こいつは虐められてたんだよ」
「学生の時の話か?」
ちらとハイドリヒの方を見たシャルンは彼に問いかける。
「いや、嫌がらせは幼少期から今に至るまでずっと続けられているように感じるよ」
「で、ハイドリヒはどうしてたんだ? 抵抗の一つや二つは案外やってのけてそうだが……」
「弟のハインツは学生時代に虐めてきたやつらをナイフで切りつけようとした。だが自分は特に抵抗しなかった。抵抗するだけ無駄だと子供心に感じ取ったからだ。まあ、抵抗した分評判が落ちるわけだからな」
「ははは、策略家のお前らしいと言えばお前らしいな」
「だけど昔のハイドリヒはそんなにユダヤ人を敵視してなかったんだぜ? 変わっちまったのはリナと結婚してからだ」
「私の妻を悪く言わないでもらえるかな? だが、いろいろ教えて貰ったのも事実だ。彼女は熱心なナチズム信仰家で、ヒトラー総統のことも詳しく教えてくれた」
「反ユダヤ主義についても、だろ?」
「その女がハイドリヒにナチズムを教えて、自身の境遇をユダヤ人のせいだとしたんだな」
うんうんと頷き納得したような表情を浮かべシャルンは言い、モヒートを勢いよく体に注ぐ。
「勝手に人の人生を決めつけるのはやめろ。ユダヤ人は絶対に全員始末してやる。私の境遇関係なく。それがドイツ民族の為なんだからな!」
拳を上に突き上げて彼は熱く語る。その目は一時の狂気に捉われたような目になっている。
「……なぁに大声を出してるんだか。まあ、せいぜい"大義の為に"頑張るんだな」
「顔色悪いぞ、飲みすぎたんじゃないか?」
「確かに、少し飲みすぎたのかもしれないな……少し手洗いに行ってくる……」
ハイドリヒはそう言うと立ち上がり、人込みをかき分けてトイレへと向かった。
「私はユダヤ人なんかではない……絶対にユダヤ人なんかではない……それを証明しなくちゃならないのだ……」
トイレのドアを閉めたハイドリヒは自身の顔が映る大きな鏡に向かって腰元のホルスターから抜き出した拳銃を指向し
「死ね!
そう叫びながら引き金を引いた。
ダァン、ダァンという二度の銃声と鏡が砕ける音が響き、店内でそれを聞いた客が悲鳴を上げる。ブルクハルトは「ちょっと待ってろ」とシャルンに言ってから大急ぎでその場から離れハイドリヒがいるであろうトイレへと向かった。
「おいどうした! 銃声が聞こえたが何をやって……」
トイレのドアを開けながらそう言い中を見ると、そこには砕けた鏡とそれを見ながら奇妙な笑い声をあげているハイドリヒがいた。
「やった! とうとうやったぞ! クソ野郎め! ユダヤ人を殺してやったぞ!」
「ハイドリヒ……お前が撃ったのは"ただの鏡"だぞ……?」
「いいや、確かに私は私に偽装したユダヤ人を始末した! そこでバラバラになってるじゃないか!」
砕けて床に散らばった鏡だったものに指を指して笑うハイドリヒを見たブルクハルトはその"あり得なさすぎる"状況を見て口すら開かない。
「ハハハッ! ユダヤ人の私など嘘っぱちだ! 私は誇り高きアーリアの血統に生まれし者なのだ!」
少しの間待っていると、酒場の店主らしき男がトイレにやってきてその状況に絶句する。
「……親衛隊の兄さんたち、これはいったいどういう?」
「申し訳ない、こいつ少し心を病んでいるみたいで、なるべく大事にはしたくないから明日にでも弁償代をもってここに来る。だから本部には黙っておいてくれないか?」
状況を尋ねてくる店主にブルクハルトは丁寧に腰を折りそう説明する。どうやら店主も後ろで憔悴しきっているハイドリヒを見て状況を察したらしく、二つ返事で了解される。そして彼はハイドリヒに肩を貸し、シャルンを呼んでから酒代を払い、酒場を後にした。
――ハイドリヒ、彼の持つ狂気の奥底にはかつての深い闇が関わっているのだろう
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