ナチズムの権化
そしてこの日の夜、前日の核実験に参加した親衛隊高官や各国首脳のために用意されたモスクワ中心部にあるホテルの一室でヒムラーは何か独り言を呟き、それを部屋に備え付けられているメモ用紙に書き込んでいた。
「今現在、親衛隊によるユダヤ狩りは親衛隊やドイツ本国の経済に大きなコストが発生している……鉄道に用いる電機や燃料もそうだが、処理用の銃弾や毒ガス、そして死体の処理費用。戦後長続きする不況により親衛隊の予算が削減される中でそれに対応できるようにするために……一度殺戮政策を止めるのはどうだろうか……戦前のようにユダヤ移民省を再設立してマダガスカルやらイスラエル近辺にでも土地を買ってそこに追放してやればいいのかもしれない……そこ近辺はイギリスからの独立運動で悩まされているはずだ。彼らは喜んで土地を売り渡してくれるかもしれない……それに絶滅収容所自体に疑念を抱きつつある……この政策が倫理観の伴わない野蛮で残酷な行為であると……」
直後、ドアがノックされた。
「失礼します。少し面白い話が聞こえたものでしてね……」
そう言いながら彼の部屋に入ってきたのは国家公安本部長官、ナチズムの権化たる男、ラインハルト・ハイドリヒ。
「げっ……ハイドリヒ長官……」
「お久しぶりですね、ヒムラー長官」
「そ、そうだな……実験の時は見なかったが、いつここに来たんだ?」
「核実験開始直後くらいにモスクワ駅に着きましたね。駅舎から出た時に光が見えました。いやあ残念だった、インド人どもの処理でアルハンゲリスクまで行けなかったのが少々悔やまれますね……」
薄ら笑いを浮かべながら彼は眉間に手を置いて天を仰ぐ。
「あ、インド人というのはロマの事です。今私が管轄しているクリミアで奴らは散々同情した市民の家を隠れ家にして逃げていましたが、ロマの犯行と装った無差別テロを頻繁に起こしたら向こうから次々に突き出してきてくれました。これで私管轄の戸籍に登録されていたユダヤとロマはゼロ人になりましたよ。いやあ、ものすごい達成感ですね。こんなことは戦後初めてですよ」
ケタケタと息を引くように笑う彼はにやりと薄気味悪い笑顔を見せ、それにヒムラーは身震いした。彼は狂気に支配されていると、そう確信した。支配されていると言っても、理性を保ったままで。
「ゼロ人……全員殺したのか……?」
「残っていた奴らは全てやったはずです。雑種民族は共にいるだけで我々のような高貴なアーリア人と混血になり血色が穢れるリスクがあるのでやはり根絶やしにするのが一番でしょうに」
「そ、それもそうだな……」
彼が話す内容一つ一つに闇の深い狂気が宿り、その言霊はヒムラーの心をどんどん彼への恐怖で支配していく。彼の頸に冷や汗が垂れた。
「何故こうもインド人といい日本人といい、アジア民族は劣っているのだろうでしょう? まるでアーリア文化に寄生する虫ですね。」
「はは、やはりアーリアの純血が一番だな……」
ヒムラーがそう軽く返事すると、途端にハイドリヒが目の色を変える。
「それにしても、今気になる話をされていましたね。あとこのメモも」
そう言って彼は彼が来る前にヒムラーが描いていたメモ用紙を取り上げて内容を読み上げた。
「図的なので本来の意図はヒムラー長官自身にしかわかりませんが、私なりの解釈で行くと……ユダヤ人の虐殺は財政的にも厳しくなってきている。ユダヤ移民省を再設してアフリカの奥地やパレスチナに追放する……と、言うことでしょうか。私は賛成ですよ?
「ただ?」
一瞬の間に少しの期待を抱いたヒムラーだったが、それも束の間。ハイドリヒの冷徹で奥に深い闇が広がる強い視線に押しつぶされた。
「結果的には殺した方が手間も少なくて楽なんですよ」
そしてそう言った彼は手元にあるヒムラーが熟考した
「移住した人間は全てその土地に順応して生きていきます。それは我々アーリア人でも、ユダヤ人でも。マダガスカル……すなわちフランスであるならばなんとかなりそうですが、ましてやイギリスなんてアフリカに第二のイスラエルを作るだけの徒労に終わるだけです。まさかあなた本当にこのようなユダヤ的思考をお持ちなのですか?」
「いやまさか、ユダヤ人を処分するためのコストに関して考えていただけだよ。ただの机上の空論に過ぎないし、本気で考えているわけないじゃないか」
「……そうですか」
胸の内を見透かすかのような君の悪い目の色を見せながら彼は小さく呟き
「それでは、このくらいで失礼させていただきます。あ、そうだ。"誰が聞いているかわからない"ので、不用意な独り言は注意してくださいね。災いのもとになりかねませんから……ね」
そう言ってヒムラーの部屋を後にしようとした。その時
「失礼します! ヒムラー長官、ハイドリヒ長官!」
そう叫ぶ隊員が勢いよくドアを開け放った。
「おい! 部屋に入る時はノックをするのが常識だろう!」
そうヒムラーが注意したが彼は聞く耳を持たず
「そのような状況ではございません!」
そう動揺したような表情を浮かべながら叫ぶように話し続ける。
「総統閣下が、弁務官庁舎内で意識不明の状態に陥りました!」
そして続けざまに隊員はその衝撃的な一言を言った。
「……何……? 総統閣下が?」
ハイドリヒは大きく目を見開き絶句している。それはヒムラーも同じであり、彼もハイドリヒのように目を見開いて言葉を失っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます