第五章 頂上葉佩は恋をした

第25話 彼の理由

 ぱちっと目を開くと、なんだか見知らぬ天井でした。


 といっても殺風景ではありません。首を傾けると、自分がどこか豪華なホテルの一室にいるということがわかりました。


 お高いホテルのスイートルームというやつなのでしょう。


 寝かされていたベッドはかなり広く、私のような体格なら三回は寝返りが打てそうです。


 シーツもいいものを使っていますね。さらさらで肌触りがいいです。


 うーん快適。現状は大変まずいですが。


「ご主人様……」


 小さく呟かれた言葉に、私は起き上がってそちらを見ます。


 ベッド脇にはしょぼくれた顔でポチが座っていました。


 まるで悪さをしてしまった大型犬のような表情です。実際、きっと叱られるのを待っているのでしょう。


 私は大きくため息をつきました。


『会社のためか?』


 ポチはびくりと肩を震わせます。


 図星ですね。


 この馬鹿犬が自分から、私に危害を加えることは考えづらい。いくらこいつが愛だとか恋だとかのよくわからない感情で動いているとしても、それぐらいはわかります。


 これでも、こいつのご主人様は私なので。


 とすれば考えられる理由は一つです。


 私より優先順位の高いものが人質にとられた。そして、八神さんが頂上側の人間であることはほぼ確定済み。


 つまり、八神さんはポチの会社を盾に、私をさらうように指示したのでしょう。


「……俺は」


 ポチは一度言葉を切り、唇をぐっと引き絞って叫びました。


「俺はただ浮気をしただけです! ご主人様への愛を疑っただけです! 許してもらおうとも思いません!」


 ポチの大声が広い部屋に響き渡ります。


 浮気、というとあの八神さんの妹さん関連ですか。


 妹さんにそそのかされたと。ポチはそう言っているのですね。


 多分、それだけではないでしょう。妹さんになにかを言われたにしても、ポチがそう簡単に従うとは思えません。ましてやご主人様を危険にさらすなんて重大な罪を犯すなんて。


 ですが、ポチはそれを隠そうとしている。


 ……言い訳をしたくないのでしょうね。私を危険な場所につれてきてしまったことへの。


 だったら私が返すべき言葉はありません。


『そうか』


 それだけを言うと、ポチはほっとしたような、ショックを受けたような、複雑な顔になりました。


 もしかしたらポチがほしかった言葉は、他にあったのかもしれません。


 私には思い付きませんでしたし、きっと彼にも思い付いていないのでしょうが。


 その後、私たちは沈黙しました。


 だだっ広いスイートルームを、痛いほどの静寂が支配します。


 これからどうしたものですかね。


 ポチはおそらく私の見張りでしょうが、どうせドアの外にも見張りがいるに決まっています。


 八神さんの部下ということは、かなりの人数がいることも想定できますし、正攻法ではとても脱出できないでしょう。


 そもそも彼はどうして私をつれてこさせたのでしょうか。


 まずはその目的を把握しないことには、対処のしようがありません。


「……ご主人様」


『なんだ』


「俺、恋をしたんです」


 うつむき、消え入りそうな声でポチはそう言います。


「あの子に微笑まれて、俺は変わってしまったんです」


 膝に置いた手をぎゅっと握りしめ、ポチは続けました。


「何を言われても、何を代償にしても、俺は全て捨ててご主人様に尽くすべきだったんです。でも、あの子に言われて、あの子のためならって、気の迷いで、いえ、そんなのは言い訳ですっ。だから、全部、全部っ俺のせいなんですっ……」


 声は震えていました。もうほとんど泣いているように聞こえます。


 私は、いまいち彼の言っていることに実感が持てませんでした。


『すまん。理解できない』


 一応謝ると、ポチはがくりと肩を落としました。


「……そうでしょうね。貴女は昔からそういう機微に乏しかったですし」


 諦めたようにポチは笑っています。


 私は言葉を挟めませんでした。


「だから多分、許せなかったんだと思います。あの水無瀬という男と一緒にいる貴女を、俺はきっと、本当の意味で愛せなかったんです」


 ポチはうつむき、縮こまります。


「見返りがほしいと思ってしまったんです。貴女を愛しきれなかったんです」


 うつむいた彼の目から、ぽたぽたと涙が落ちていきます。


 本当に思い悩んでいるのでしょう。


 でも、私にはかけるべき言葉がやっぱり思いつきませんでした。


『……そうか。それは大変だな』


 愛だとか恋だとか、私にはとんと縁のないものだと思っていましたが、実際にこうして向けられてみると、どうにも大変そうだなという感想しか出ません。


 そして、自分自身がそんな感情に振り回されたら面倒だっただろうな、とも思ってしまうのです。


 こういうのは、ご主人様失格なのでしょうかね……。


 いえ、大変そうなので自分は持ちたくない衝動だという認識は変わっていないのですが。


 ポチは大きく鼻をすすると、ごしごしと目元をぬぐい、ばっと顔を上げました。


「必ず貴女はここから帰します。それだけは絶対です。信じてください」


 目の端はすっかり赤くなっていました。でも、強い眼差しです。


 本心でしょう。


 ポチは心の底から、私を逃がしたいと思っている。


 私は、信じることにしました。


 しかし私がそれに答えようと口を開きかけたそのとき、スイートルームのドアが控えめにノックされました。


 返事をする前に、ドアは開けられ入ってきたのは八神さんの妹さんです。


 ポチが苦しそうに彼女から顔をそむけています。


 ……やっぱり、爆弾騒ぎのときのあの声はアナタでしたか。


「小鹿ひばなさん、一緒に来ていただきます」


 有無を言わせぬ口調で妹さんは言いました。


 妹さんの向こう側には、案の定見張りの男が立っています。


 逃げ出せる見込みは低いです。……ここは行くしかないでしょう。


 私は立ち上がり、部屋を出ていく直前にちらりとポチに視線をやりました。


 任せましたよポチ。


 今はアナタだけが頼りなんですから。

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