第11話 馬鹿犬の正体

 腰を折って目の前でにこにこ笑う馬鹿犬に、私はくらりとよろめきました。


『なんでお前がここにいる……』


「え? だって俺、ここの系列会社の跡取り息子ですよ?」


『は?』


 いや、は?


 ポチが跡取り息子? ということは大金持ち? 御曹司?


 いやいやいや、妙度さんとこのマゾ犬志願者でしょうこの男!


 大金持ちの坊ちゃんが、わざわざ、マゾ犬志願を!?


 世も末ですか!? 世の中は狂ってしまったのですか!?


「本当は他の奴が行く予定だったんですが、ご主人様のために無理を言って変わってもらいました!」


 いや知らんがな。本当に知らんがな!


「さあご主人様! どうぞ俺を使ってください! 俺は役に立ちますよ!」


 目を輝かせて言わないでほしい。


 腕を広げて待たないでほしい。


 撫でて撫でてとオーラを出さないでほしい。


 くっ、周囲の目が痛い! この男、私の目の前から消滅してくれませんかね!?


「えっ、バンビさんポチちゃん撫でるの? 僕も撫でる!」


「だーれがお前に撫でられるか馬鹿男! お前なんてその辺ですやすやしておけ!」


「馬鹿じゃないもん!」


 水無瀬がせっかくのおきれいな顔を膨らませて憤慨しています。


 あーもう、警察の皆さんに整えてもらってある程度大人の男としての体裁を保てていたのに台無しです。


「だってポチちゃん犬なんでしょ? わんちゃん撫でたい!」


「お前に触らせる頭などない!」


「じゃあおなか?」


「余計触らせるか、馬鹿!」


「馬鹿じゃないもん!」


『あーーーうるさいうるさい騒ぐな馬鹿ども!!』


「えーん! 馬鹿じゃないもんー!」


 わーわーぎゃーぎゃー。


 二人から距離を取ろうと私は歩き始めましたが、二人は二人とも高身長で足が長いのです。余裕で追いつかれてしまいました。


「ご主人様待ってください! ほら、どんなことでもおっしゃってください! 俺にできることならなんでもします!」


「ねーねーバンビさん、ごはんまだかな?」


「お前! 今ご主人様は俺と話しているだろう!」


「え? バンビさん返事してないよ?」


「しているんだ! そうですよねご主人様! ……ご主人様? ご主人様ー?」


「無視されてるね!」


「うううううるさい!」


「ごはんまだかなー」


「ご主人様そんなことないですよね? 俺、なんだってしますよ? 部下でも人脈でもなんでも使いますから!」


 ぴくっと耳が動き、私は立ち止まります。


 そうか。この馬鹿犬はこんなんでも御曹司。よくよく考えれば権力も人脈も使いたい放題でしょう。


 しかもこの通り、私の言うことなら何でも聞く調教済みです。


 合理的に考えればこの男を使わない理由はありません。


 私は深く深くため息をつきました。


『……わかった。同行を許可する』


「ご主人様!」


『だが、この馬鹿犬!』


 振り向くと、そこには案の定きらきらと目を輝かせるポチの顔面がありました。


 ぐぎぎぎぎ! あほ面!


『とりあえずその恋する乙女みたいな目をやめろ……!』


 するとポチは急にキリっとした男の表情になりました。


「違いますよ、ご主人様。恋ではありません。俺たちの関係は、そのような一瞬の輝きではないのです」


『は?』


「貴女と俺の間にあるのは愛です。深い、信頼と愛!」


『あるかそんなもん!』


 朗々と言うポチを普通に右手で殴ります。


 結構いい音がして、拳が腹にめり込みました。


「ああっ、ご褒美をありがとうございます!」


『心底気持ち悪い』


「ひぃん」


 変な声を上げてポチは身もだえします。本当に気持ち悪い。


「それでご主人様、俺は何をすればいいんでしょう」


 ボールをくわえてやってきた犬のようにうれしそうに、ポチは尋ねてきます。


 私は日程表を思い浮かべました。


『そうだな……。八神節夫というのが誰かわかるか』


「えっ」


 ポチは目を丸くしました。


 知らないのか、という顔です。


「八神節夫といったら、八神グループの若きエースですよ。血筋もよくて、将来を約束されている超大物です」


『そうだったのか……』


 下手に調べると大見さんの地雷を踏みかねないのであえて何も知らない状態で来ましたが……そんなヤバい奴が相手とは。


「彼がどうかしたんですか」


『仕事でな。彼と会話をしなければならないんだ』


「会話? どんな会話です?」


『わからん』


「へ?」


 ポチは間抜けな声を上げました。


『何を話せという指示はない。おそらく、私が彼と会話するという行為が重要なんだろう』


「そ、そうなんですか……?」


 いまいちわかっていない顔でしたが、私が軽くにらみつけるとすぐに真面目な表情に戻りました。こういう素直さは評価できます。


「しかし相手は八神節夫です。ボディーガードもいますし、俺のような傍流が易々と話しかけられる相手ではありませんよ」


『そうか……せめてなんとかして接触のきっかけを作りたいところだが……』


「うん、わかった!」


『は?』


 突然響いた声に、私はバッとそちらを見ました。


 そこには、どこかにぴゅーっと走っていってしまう水無瀬の姿が。


『は!?』


 何やってるんですかあいつ! 一体どこに……!


「ご主人様! あっちには八神家の重鎮が集まってます!」


 私は背筋に寒いものが走りました。


 ヤバい、まさかまさかまさかまさか……!


『ポチ、走れ! あの馬鹿を止めろ!』


「はいご主人様!」


 ロケットのようにすっ飛んでいくポチの後ろを、私も走ってついていきます。


 人混みの向こうでは、水無瀬がとある若者に声をかけたところでした。


「あのねこんにちは! 僕、水無瀬片と、もがぐっ!」


 間一髪。ギリギリセーフのところで、ポチが水無瀬を捕まえて口をふさぎました。


 よ、よかった……取り返しのつかないことをされるところでした……。


 アイツは何をしても何を言っても最悪なことをしでかすというのに……。


 しかし目の前で口を塞がれた水無瀬を見て、若い男はきょとんと目を丸くしていました。


 周囲の偉そうな方々の視線も完全に集中してしまっています。


 ぎ、ギリギリアウトー!!! 最悪です!

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