ch.5 勝負の海に帆を上げて

 ◆


 トゥトゥはその頃、名も知らぬ浜の木陰で伸びていた。

 ぎざぎざに入った胸の傷は痛むし、何より大音量を浴びたのが原因と思われる頭痛が酷い。

 頭痛で死にそうなんて、トゥトゥの人生では初めての経験である。

 トゥトゥの石頭は頑丈この上なく、少々の高さから落ちようが、頭突きで相手のセムタムの肋骨を折ろうが屁でもなかったのだが。

 足元には腐りかけた魚が、市場の棚の上のように陳列されていた。

 風向きが変わった途端に吐きそうな臭いが押し寄せたので、トゥトゥは嫌々ながら、ずきずきと脈打つように痛む胸を押さえながら立ち上がって、魚の尾を掴み海まで投げ捨てる。

 白い大きな背に当たって、魚龍が顔を上げる。

 そして、ぷひゅー、と鳴いた。

 魚龍は四つの目を回して腐った魚とトゥトゥを同時に見比べ、何かを納得したような感じで体をずりずり動かして海に潜る。

「ぜってえ喰わねえからな!」

 トゥトゥは叫んだ。

 この一日、トゥトゥが口にしたものは浜の上空を通過したスコールの雨水だけである。

 まだ大丈夫だとトゥトゥは自分に言い聞かせていた。

 失血はひどいが、恐らくは黄金色の剣の神通力により、傷は既に塞がれつつある。

 無理に動かなければ体力を温存し、龍がセムタムを襲う場合のタイムリミットには全力を尽くして相手を叩くことが出来るだろう。

 セムタムひとりの力では及ばないことは承知の上、それでも無為に死を待つつもりは無かった。

 死ぬなら全力でもがいてから。

 それにしても、とトゥトゥは疑問に思う。

 この白い魚龍は本気でそんなことを考えているのだろうか。

 魚を獲ってくるのは本当に贈り物のつもりなのだろうか。

 本心なのだったら?

 それでも俺はこいつを殺す、とトゥトゥは思った。

 さらわれたときのことを思い出そうとする。

 勝率が一でも上がるなら、それにこしたことはない。

 昨日の夜―――。

 トゥトゥは寝なかった。

 アムの横のテントに決めたのは、トゥトゥのポケットに鈴を入れた何者かが、もしかしたらアムまでも害そうとする可能性があったからである。

 横にいれば駆け付けられるから。

 一緒のテントにしなかったのは、もちろん巻き込まないためだ。

 夜半。

 急に辺りから物音が消え、風の音や波の音までもふっつりと聞こえなくなり、トゥトゥは襲撃者が現れたのを知る。

 黄金色の剣を静かに抜いた。

 腰かけていた踏み台の上で、いつでも動けるように身構える。

 ずるりずるりと、重いものが無理やり浜を這いずっている音が聞こえ始めた。

 動かないでいたというのにポケットの中で鈴が鳴る。

 トゥトゥは咄嗟に鈴のある位置を押さえたが、それでもなお鈴は鳴り続けた。

 鈴の音が止まったと同時に、テントの入り口から何者かがずるりと入ってくる。

 白い塊に見えた。

 それは人の姿を模しているようだったが、余りにも擬態が下手くそだったのだ。

 トゥトゥは躊躇いなく台を蹴り、吠え、突進する。

 白い塊の中の頭らしきところに四つの目がぽこんと浮かび上がった。

 そこを目掛けて剣を突き出す。

 血がしゅうっ、と噴き出して真っ赤な染料のようにテントの内部に散らばった。

 トゥトゥにとって計算違いだったのは、間違いなく頭を斬ったつもりだったのに、彼が斬り落としたのは白い塊の手であったことであろう。

 白い塊は悲鳴を上げて、もう片方の手を振り回した。

 避けた、とトゥトゥは思ったが避け切れず、胸にぱっくりと傷が開いた。

 よろりと後退して、それでもなお第二撃をいれようとして、トゥトゥは気づいたのである。

 自分の感覚がおかしいことに。

 平衡感覚がどんどん怪しくなってくる。

 これは傷のせいだけではない。

 ついに、前を睨み据えるつもりが首は横に曲がるようになって、おかしいおかしいと思う間に手足の感覚も失われたトゥトゥは地面に倒れ伏した。

 こんなところに波が来るわけもないのに、テントの床でぷつぷつと細かい泡が立っている。

 白い塊はトゥトゥの顔を覗き込んだ。

 斬られた腕を伸ばした白い塊は、トゥトゥの胸の傷口にそれを押し当てる。

 セムタムと龍が相争って怪我を負った時、その傷は相手の血によって癒されるという。

 それは事実なのだが、いざ自分にやられると非常に不愉快だった。

 知らないうちに目の下に口が開いている。

 にっと笑った(ように見えた)口から、ふわふわと泡が吐き出された。

 泡が耳元ではじけた時、大音量の奔流が押し寄せてトゥトゥの思考を根こそぎ流し去る。

 その爆音は言葉だった。

 泡は言った。

 <トゥトゥ、結婚して>

 そこまで思い出して、吐き気を催したのでトゥトゥは寝返りを打つ。

 胸の傷が痛い。

(夢かもしれない、って思ったら、私は頬っぺたをつねるの。痛かったら夢じゃないでしょ)

 アムの言葉を思い出してトゥトゥは頬っぺたをつねってみた。

 てきめんに痛かった。

 足元にまた魚が投げ出される。

 死んだ方がましだろうか、とトゥトゥは思った。


 ◆


 トゥトゥの新造カヌー・稲妻号はアムを乗せて順調に外洋へと滑り出す。

 アムは祈らずにはいられなかった。

 ハクツイラとその弟子たち、それからヌーナのもたらした四ツ目真珠の情報がアムの切れる札のすべて。

 作戦はただひとつしかないし、おまけに他力本願である。

 挑みの儀において他の龍の助けを借りたり、性質を利用することは反則ではなかったが、言葉は通じれど思考構造が違う相手に対しぶっつけ本番の勝負を挑まなければならない。

 アムは、トゥトゥに教わったように海へと手を入れた。

 波、うねり、潮の匂い、温度、色、水の肌触り、雲の影、太陽光の角度。

 ただでさえ初めての海域であるし、自分のカヌーから見た海に慣れていたアムにとっては、より舷側の高い、速度も出るカヌーからの観測は不安でしかなかった。

 海の上でトゥトゥが横にいないということが、どれほど落ち着かないものか嫌というほどつきつけられる。

 それでも進まなければ。

 私はセムタム。

 成人したセムタムはひとりで海を何処までも行く。

 彼らは、決して臆するなとは言わない。

 セムタム族の言葉にはこうある―――臆せ、しかして知れ。

 アムは海面から手を引き上げて、決然と舵を切った。

 潮の変わり目まで一時間程度は余裕があると思われたので、アムは腰を下ろして水筒に口をつける。

 それからノートを開き、四ツ目真珠の情報について箇条書きに記した。

 書いた方が落ち着くのである。

 四ツ目真珠の本名は、イムサプルパ。

 その意味は<数え切れぬ音を持つ泡>だ。

 御年、百五十七歳。

 龍の世界ではまだまだ若造であるが、音を支配するという新機軸の能力を発明したがゆえに、群島域に暮らす海龍の中では将来有望な若手と目されていた。

 トゥトゥへの襲撃に誰も気づかなかったのも、その能力が発揮されていたからに違いない。

 ただし彼女は、その傲慢さから特に同性からは齧っても齧り足りないほど毛嫌いされているという。

 ヌーナが拾ってきた情報によると、イムサプルパが取り巻きにつれ歩いている鮫は、他の雌海龍から奪ったものであるらしい。

 鮫を奪われた雌海龍は虎視眈々とイムサプルパへの復讐を狙っている。

 その雌海龍は名前を明かさなかったそうなので、仮に<鮫女王>と呼ぶとしよう。

 アムがイムサプルパに一矢報いる方法があるとすれば、鮫女王と手を組むしかない。

 他の龍は、雄海龍も含めて首を縦に振らなかったという。

 イムサプルパの能力は年長の龍たちを尻込みさせるほどのものなのだろう。

 鮫女王はひとつ条件を出した。

 指定の場所までイムサプルパを連れて来い、というのである。

 古ぶるしい表現を使うならば、体育館裏まで呼んで来いというやつ。

 ヌーナがそっくりそのまま再現した口調によれば

「わらわは空の眷属は好かぬ。空の眷属にはべる者はもっと好かぬ。じゃがイムサプルパの阿呆はさらに好かぬ!」

 と怒り散らし、海底の辺りで体をくねらせて、うだうだとのたうち回っていたという。

 アムは鮫女王との待ち合わせの海域を見つけ出し、さらにそこまでイムサプルパを誘導しなくてはならない。

 舵が擦れて、ここここっ、と音を立てた。

 アムが計算したよりも潮の流れの動きが速い。

 もう一度、海を見て、空を読む。

 やや東に流されているか。

 帆の張り方を変え、舵を切る。

 ハクツイラに見せてもらった海流チャートからは、少々の誤差があるようだ。

 近くで龍が動いたからだろう。

 その時、波間に白い巨体が見えたように思われた。

 アムは己が目を疑ったが、磨かれた真珠のような美しい白色はイムサプルパのもので間違いなかった。

 咄嗟にカヌーの底に身を隠す。

 挑みの儀により、イムサプルパのもとへアムが向かっていることは、相手も知っているはずだ。

 鮫を斬った―――斬らされたあの時に、イムサプルパはアムの顔をしっかり見ている。

 その時、泡になって発された憎悪はすさまじかった。

 今でもイムサプルパの言葉を思い出すと震えが来る。

 アムではなくトゥトゥを襲ったのが信じられないくらいだった。

 想定よりも早い出会い。

 だが、こちらにとっては好都合だ。

 ヌーナ情報によれば、イムサプルパのテリトリーはこの先にある島を中心とした半径三十キロほどの海域である。

 今、イムサプルパが泳いでいるのはその端っこだ。

 もはや鮫女王のテリトリーを侵犯するような位置まで出てきている。

 何かを探しているのではないか、とアムは感じた。

 根拠はないが、こちらのカヌーに気づく様子もなく、一心不乱に波間を見ては時折潜る。

 船底をそろりそろりと移動して、木製の筒を取り上げた。

 アムは腹に力を入れる。

 ここが勝負所。

 流れがイムサプルパの方向に向かっているのを確認し、深呼吸。

 筒を口に当てたアムは、筒の反対側を海中に入れて吹き込んだ。

「イムサプルパ、勝負しなさい。私、アム=セパアはトゥトゥを探し求める者なり!」

 アムの呼気によって泡が立ち、それは海面を伝ってイムサプルパに到達する。

 泡に音声を封じる魚龍の真似をしたのだ。

 こうすれば、イムサプルパに言葉が伝わるまでのタイムラグが稼げるだろうと思って。

 白い巨体が振り向いた。

 その時にはもう、カヌーは帆を反対側に張りなおして全速で後退を始めている。

 イムサプルパが矢のように唸って海中を進んできた。

 泡が風に乗り、彼女の軌跡の後を追って空中に漂い始める。

 あれに追い付かれたらおしまいだわ、とアムは必死に舵を切った。

 鮫女王を信じるしかない。

 イムサプルパがその接近に気づかないように、全力で逃げ回らなくてはならない。

 だがアムの努力もむなしく、イムサプルパはあっという間に差を詰めた。

 カヌーの前に巨体が回り込む。

 イムサプルパが憤怒を燃やした四つの目でアムを睨んで、海を震わせ吼えた。

 アムも負けじと睨み返した。

 こうなったら虚勢を張るくらいしかできない。

 泡が漂ってきて、カヌーの船尾にぶち当たる。

 はじけた後には恐ろしい衝撃波が襲ってきて、カヌーが斜めに傾ぐ。

 イムサプルパが嘲笑したように見えた。

 そして、その顔が一変する。

 鮫女王がイムサプルパの真下から急浮上し、彼女をボールのように突き上げ、宙に放り投げたのだ。

 巨龍同士の格闘が始まる。

 海が湧き立ち、カヌーは木の葉のように揺さぶられた。

 アムは必死に帆桁を手繰り寄せ、再度、帆を付け替えて針路を転換する。

 鮫女王は、その異名通りに異常成長した鮫そのものといった姿の龍であった。

 上から見た限りではイムサプルパより一回り大きいサイズに見える。

 ただ、海龍が他の海洋生物と同じように音波を敏感に感じることで生活しているのだとすれば、イムサプルパの能力の前に体格の差はアドバンテージにならないかもしれなかった。

 アムに出来ることはひとつ。

 鮫女王が勝とうが負けようが、全速力で島を目指すことだ。

 テリトリー内にある唯一の島。

 トゥトゥを生かしたまま監禁するならば、恐らくそこを選ぶはず。

 島にたどり着きトゥトゥを見つけ出し、カヌーに乗って逃げる。

 アムの脳裏に、何かそれってちょっと卑怯なような、という気持ちも浮かんだが、トゥトゥを助けるためには手段は問えない。

 後で自責でもなんでもすればいい。

 命あっての物種だから。

 ごうっ、と重さまで感じられるような風が吹いた。

 カヌーはつんのめるように前傾して速さを増し、信じられないような速度で先へ先へと導かれる。

 どこからこんな風が吹いてくるのだろう。

 訝しく感じたアムは空を見上げた。

「あっ」

 と、アムは思わず声を上げる。

 金色の龍が空の遥か高みを飛んで、悠々とカヌーを追い越すところだった。


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