ch.3 トゥトゥ、生死不明

 その夜、珍しくトゥトゥはカヌーで寝なかった。

 初体験のセムタム式ホテルに宿をとったアムの横で

「一人追加」

 と言って、宿の女将の手に鮫の歯を握らせた。

 老婆は、浜辺に作られたいくつものテントのようなブースが立ち並ぶ間をすいすいと歩いてふたりを導く。

 緑色の布で建てられた一人部屋をアムは見せてもらった。

 いくつもの斜めの柱がテントの頂点で重なる三角錐型の構造になっており、それらの柱の間にハンモックが吊るされている。

 柱の合わせ目には防水布が貼られており、寝ている間にスコールが来ても濡れないようになっていた。

 床部分の直径はだいたい二メートルほどで、植物で編んだ敷物がある。

 敷物は完全に乾燥していて、かといって風で砂が舞い上がることもなく、まず清潔そうだ。

 あと部屋の中にあるのはハンモックに上がるステップ、兼、荷物置きの木製の台がひとつきり。

「ここで寝られそうか?」

「大丈夫。ありがとうトゥトゥ」

 女将は首にかけていた木製の札を二枚外して、それぞれアムとトゥトゥに渡した。

 使用中の証なのだろう。

 お代は完全な前金制で、宿を引き払う時はこの木製の札を返せばおしまい。

 アムはそっとその腕に手をかけて挨拶する。

「また明日、ね」

「おうドク」

 目を細めて、トゥトゥが言った。


 ◆


 鋭い曙光がテントに射し込んでくる。

 賛歌のような波の音と、海へと向かう鳥たちの声が、目覚まし代わりにアムの耳をくすぐる。

 ゆらゆら揺れるハンモックに抱かれて、もう少しだけ眠っていたいなと思った。

 でも今日は大事な日だから、ちゃんと起きなくてはね。

 トゥトゥと新造カヌーの対面。

 それからアムの学術的探究心にとっても大事な経験となるだろう、カヌーを造る職人たちへのインタビュー。

 アムは不安定なハンモックから恐る恐る足を突き出し、全身で伸びをする。

 カヌーよりはゆったり寝られるけれど、本当はしっかりしたベッドで横になりたい。

 まだまだセムタムにはなり切れていない。

 買い換えた真新しいケープを羽織る。

 染みひとつない、美しい緑色の、この島の密林そのもののような色。

 まとめ買いした星柄の寝具布を畳んで、背負い籠に入れる。

 重みがずっしりと背中にかかって、これは一度カヌーに積んできた方が良いかも、とアムは思った。

 入り口の布を押し分けると、海の匂いがいっそう鮮烈に際立った。

 鼻の隅々、肺の隅々、体のてっぺんからつま先まで海の匂いがチャージされる。

 セムタム族はいつも海の香りをさせている。

 きっとそのうち、アムからも海の香りがするようになるだろう。

「トゥトゥ、起きてる?」

 隣のテントに向かって声をかけた。

 返事は無い。

 彼は早起きだから、もしかしたらもう起きだして何かしているのかもしれなかった。

 例えば釣りとか。

 あるいはトレーニングとか。

 海の上で熟睡するのは危険なので、セムタム族の睡眠時間は一様に短い。

 それでも出先でアムに声もかけず出かけてしまうのは珍しかったから、

「トゥトゥ、いないの? 入るわよ」

 そう言ってアムはテントの入り口をそっと開いた。

 テントの内部に光がざあっと射し込んで、明度が上がる。

 アムは、その時の光景を一生忘れないだろう。

 驚き過ぎて悲鳴すら出てこなかった。

 トゥトゥのテントの中は血だらけだったのだ。

 アムは半狂乱の面持ちで、開き始めていた市場に駆け込んだ。

 その尋常ならざる取り乱しように、なんだなんだと店主たちが顔を出す。

おはようエンダ皆様、トゥトゥを見てない!?」

 昨日ポテポテをおごってれた若い料理人がかまどの向こうから

「見てないぞ。ドクター、慌ててどうした」

 それが、とアムはテントの中身のことを説明する。

 集まってきたセムタムたちは一様に首を捻って、トゥトゥの姿は見ていないと言った。

 テント宿の女将は、宿泊証の木片は返却されてないとぶつぶつ文句を垂れる。

 だからあいつを泊めるのは嫌だったのさ、問題ごとばっかり起こす、と。

 アムは自分で説明しながら少しだけ冷静になってきて、というよりも感覚の一部がシャットダウンされたようになって負荷がリリースされたがために頭が回りだして、やっと今朝の状況に不審な点がいくつもあるのに気づく。

 例えばトゥトゥが何者かに襲われたと仮定する。

 その場合、あれだけ血の出る大立ち回りだったなら、相当な物音がしたはずだ。

 ただでさえトゥトゥの声は太鼓を打ち鳴らしたようによく響く。

 アムは朝まで一度も寝覚めなかった。

 深く眠っていたとしても、流石に気づくはずだ。

「ドクター、桟橋には行ったかね。カヌーが出ておるかどうか」

 昨日トゥトゥに真水壺を売ったという商店主が前掛けを揉みながら言う。

 はっとして、アムは駆けだした。

ありがとうエポー、おじさま!」

どういたしましてアエラニ。きっとその辺にいるよ」

 市場を駆け抜けて、桟橋への一本道を全力疾走する。

 トゥトゥはそこにいるだろう。

 たぶんトゥトゥは、夜中に何がしかの大物でも獲ってきて、テントの中で解体しようとして、きっと失敗して、あんなことになったに違いない。

 でなかったら、大量の血はどこから来たというの。

 アムは自分に言い聞かせた。

 あれは決してトゥトゥの血なんかじゃない。

 道から見える今朝の海は、やけにごみごみと物が浮いていた。

 桟橋のたもとでは見張り番が柱に背をもたせかけてうたた寝している。

 もう、とアムは憤慨した。

 しっかり仕事してよ、あなたが見落としてたら絶対に許さないんだから。

 アムは走り寄って

おはようエンダ! ちょっとお兄さん起きてもらえます!?」

 と怒鳴るようにして叫んだ。

「ちょっと、ねえ……」

 アムの声は半ばでしぼんで消える。

 桟橋の見張り番は、明らかに呼吸していなかった。

 こわごわ覗き込むと、両耳から出血しているのが確認できる。

 あとはきれいなものだ。

 何処にも損傷はない。

 ただ眠るように、こと切れている。

「何なの」

 と、アムは自失して後ずさった。

 足に力が入らなくなって、膝が笑う。

 しっかりしなさいとアムは自分を叱咤した。

 せめてふたりで乗ってきたカヌーがあるのかないのかを確認するのよ、と体に命令する。

 もしかしたら、そうもしかしたら、ハンモックが気に入らなくてカヌーで寝ているのかも。

 よたよたと桟橋を歩く。

 希望的観測があまりにも希望的であることをアムの理性は確信していたが、信じたくは無かった。

 島に集った色とりどりのカヌー。

 到着順に並んでいるというから、昨日着いたばかりのアムのカヌーは端っこだ。

 進んでいくにつれ、胸がむかつくような光景が広がる。

 いくつかのカヌーが圧壊したように胴をぐしゃぐしゃに割られていた。

 その破壊度は、進めば進むほどひどくなっていく。

 道すがら見た海に何か浮かんでいると思ったのは、壊れたカヌーの破片だ。

 凄まじい力がここで振るわれたのだろう。

 昨日はスコールがあったが、その程度ではカヌーは壊れない。

 カヌーの船体は龍骨でできていて、それすなわちアルマナイマ星で最も丈夫な素材のひとつでできていることになる。

 龍骨をいとも容易く割る力。

 考えられるのは、この暴威が龍自身によるものだということだ。

 ラシ柱の飾られた桟橋の先端まで来た。

 ぷつん、と思考回路のどこかがショートする。

 ついに足に力が入らなくなって、へなへなと座り込む。

 アムのカヌーは、たちの悪い風刺画のように、ラシ柱に逆さまに引っかけられていた。

「トゥトゥ、あなた何処に行ったの?」

 かすれた声を潮風がさらって消していく。

 沖合の方は昨日より荒れていて、時折白い波頭が盛り上がるのが見えた。

 どれだけそこでへたり込んでいたのだろう。

 遠くの方から

「こりゃひどい」

「あすこにドクターがいなさる」

 という、セムタムたちの小さな声が聞こえてきた。

 それから軽い足音。

 まるで猫のそれのように、かそけき音。

 誰かが近づいてくる。

 アムは振り返りたくなかった。

 トゥトゥは何処に行ったの?

 その問い、答えのない問いだけが延々とリピートして、神経がショートしそう。

 ぽんと肩を叩かれた。

 アムは反射的に顔を上げる。

 女性に覗き込まれていた。

「座ってる場合じゃないわよ、ドクター・アム=セパア」

 挨拶も抜きにフルネームを切り出されて、アムはびくっと身を震わせる。

「あなたがぼやぼやしてると手遅れになるの。わかってる?」

 艶やかにカッティングされた宝石のような緑色の瞳。

 瑞々しく張り詰めた褐色の肌。

 ざらりと揺れる黒髪の束。

 綺麗なひと、とアムは素直に思った。

「ええと初めまして(エンダ・ロー)。あなたは」

「初めまして(エンダ・ロー)。意外とまどろっこしいのね? 私はヌーナ。そうね、トゥトゥの姉みたいなもんと言っときましょ。ほら」

 ヌーナはアムの手を握って、否応なしに引っ張り上げる。

「みたいなもん?」

「あらあら」

 ヌーナはアムを急かしながら笑う。

「似てないでしょ、全然。私はトゥトゥのお世話をしているだけ」

「……お世話」

「夜のね」

 目を丸くしたアムに、ヌーナは噴き出して、弾けるようにのけぞった。

「うそうそ」

 ヌーナが走り出す。

 アムは懸命について行く。

 走ると、少しだけ気持ちがしゃんとした。

 悪戯っぽい顔でヌーナが耳打ちする。

「夜以外のお世話もするのよ」

 けほっ、と咳き込んだアムの姿に、またまたヌーナが笑った。

 ヌーナのペースに巻き込まれたまま市場に向かう。

 トゥトゥの行方不明に加え、桟橋の番人の死、カヌーの破壊という最早疑う余地のない重大な事件が発生したために、その第一報を伝えたアムは注目の的になった。

 わっと群がってこようとするセムタムたちに、ヌーナが腕を振り回し大声を張り上げる。

 そうしてようやく突っ切った。

 昨日探索しきれていなかった市場の端には、桟橋にある物と同じデザインのラシ柱を小ぶりにした柱が立っている。

 そこから先は島の奥に続く、密林の中の小路だ。

 ラシ柱に目を走らせたのがわかったのだろう、ヌーナはアムの手を放して振り返り

「ここからは神聖な領域だよ。商人は売り物を持って入れない」

 と言う。

「奥には何が?」

「あら、島暮らしは初めて見るの? あいつ、意外とつまんないことばっか教えるわね」

 ヌーナは大袈裟に顔をしかめて舌打ちひとつ。

 あいつとはトゥトゥのことだろう。

「島の奥は、<島々の主>様と職人たちのものさ。あたしは、あたしの体を売る職人」

「ええと……その、男の人と」

「それだけじゃないわ」

 まあ、ついておいでよ、とヌーナは手をひらひらと舞うように振りながら小路へと足を踏み入れた。

 慌ててアムも続く。

 ヌーナは同性から見ても美しかった。

 引き締まったボディラインは、そこらのファッションモデルでは太刀打ちできない。

 所作のひとつひとつに品がある。

 スリットの入ったスカート(海上放浪生活をするセムタム女性は穿かないものである)から、すっ、すっ、と伸びる足さばきは、それだけで芸術と言える。

 この人を買う?

 トゥトゥが?

 アムには全然想像できなかった。

 が、同時に自分が男であったなら、ヌーナには無条件降伏するだろうなというのも納得できる。

 例えトゥトゥとヌーナの間に本当に関係があるのだとしても、アムは嫉妬心を掻き立てられることは無いだろう。

 立つステージが違い過ぎる。

 月とスッポンという太古のスラングを思い出しながら、アムは自分の足を見た。

 サンダル履きの、なまっちろいつま先。

 右の親指の爪が少々欠けている。

 もうちょっとお手入れした方が良いかもしれない。

「ドクター注意散漫よ。この辺ね、人食い花が出るの。出たらあたしは逃げるからね」

 ぎゃっ、とアムは叫んだ。

 また例の、のけ反るポーズでヌーナが大笑いした。

「そうよ。それくらい前を見ててよ」

 スカートの裾に入った細かい房飾りが、持ち主の笑いと同じようにゆらゆらと揺れている。

 帰る前に私もスカート買おう、とアムは思った。

 そうやって不安に蓋をする。

「どこまで行くの」

「ハクツイラのところ」

 ヌーナが工房だと指し示した場所は木々に隠された洞窟だった。

 看板も何もない。

 案内してもらわなければ、そこに洞窟があるということすら気づかないだろう。

 洞窟の内部をアムはスケッチに残したかったが、そんな暇は無かった。

 壁はところどころ四角にくりぬかれ、灯りが置かれている。

 正面のひときわ大きな穴の中には龍の彫像が鎮座していた。

 巡り龍という形式のもので、自分がメインで信奉する創世の龍を中央に、その周りに残り二柱の龍を配する。

 ハクツイラの工房にある彫像の場合は<島々の主>アラチョファルの丸っこい姿が真ん中に、<黄金の王>アララファルが上から下に駆け下り(これは落雷を表す)、<海龍の長>アラコファルは下から上に伸びあがっている(こちらは波の立つ様子だ)。

 その穴の下から階段が始まっている。

 長い階段を下り終えると、神秘的な光景が広がっていた。

 乱反射する青い光が空間に満ちている。

 最下層は海につながっていたのだ。

 洞窟内の入り江では沢山のセムタムが立ち働いている。

 アムはやはりメモを取りたくなった。

 白砂の上では、カヌーのあらゆるパーツを仕上げるための、アムには魔法のようにしか思われない様々な工程が同時進行で展開している。

 船大工たちの顔は一様に輝いていた。

 今まさに、一艘のカヌーが仕立て上がろうとしているからだ。

 大きなカヌーが入り江の浅瀬に浮かんでいる。

 アムのものよりも一回り、いや二回り大きいか。

 堂々たる大型船であるが、青い光に照らされて水面に揺れているその様は、どこか妖精という言葉が似合うような、可憐さと幻想性を備えていた。

 あちらでは、真新しい龍骨製の真っ白な胴に職人たちが筆を入れている。

 こちらでは、船首飾りをまさに取り付けようと儀式が行われているところ。

 船首飾りは赤い目をした黄金の龍が四方を睥睨する意匠。

 <黄金の王>である。

 白砂の上に下りていいものかまごついているアムを残して、

「エンダ、ハクツイラ!」

 ヌーナは一段飛ばしで階段から跳ねて、軽々と入り江に着地した。

 奥の方で何か話し合っていた職人たちのうちの、ひと際ガタイの良い男性が振り向く。

 棟梁ハクツイラ。

 岩から削り出したと言っても疑わないだろう。

 洞窟の中に古くから住んでいるおとぎ話のドワーフと言われても、やはり疑わないだろう。

 身長はトゥトゥより低いが、横幅の貫禄は段違いである。

 ヌーナに倣って、アムはおずおずと入り江の作業場に足を踏み入れた。

 言語学者としていくつもの文化に触れる中で、こういう職人の場に立ち入って怒られたことは一度や二度ではない。

「エンダ・ロー。私は……」

 ハクツイラが茶化すように顔の前で手を振った。

 セムタム族のジェスチャーでは<静かに>を意味する。

 アムが面食らっていると、ハクツイラは目じりに笑い皺を刻み、

「ドクターだな。トゥトゥからようく聞いとるよ。いつもあれが厄介になっている」

 と言った。

「厄介だなんて。それは私の方です。トゥトゥがいなければ、私は皆さんとお話しすることもできなかったんですから」

 アムが、とんでもない、と首を横に振ると(このジェスチャーはセムタム族でも<否定>の意味である)、棟梁ハクツイラは近所の悪ガキの成長を見守るおじさんのような面持ちで、

「ドクターに会って、あれも随分と丸くなってきたからな」

 そして組んでいた腕を解いて、坊主頭をぴしゃりと叩いた。

「さていかん、あれの生死がかかっとるんだった」

「そうよハクツイラ」

 ヌーナが、この島の頂点に立つハクツイラに対してそんな言葉づかいをすると思わなかったので、アムは密かに目を白黒させる。

 セムタム語には敬語の概念があるのだ。

 年上に対しては必ず敬語で喋るのがマナー。

 では、棟梁ハクツイラに対して対等以上の言葉遣いをするこの女性は何者なのだろう。



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