第50話 夜の嵐

 室内の明かりは消えていたが、窓から差し込む月光で明るかった。

 俺は玄関の上がり口に鞄を置くと、聡美の部屋に向かった。もう寝ているだろうが、寝顔を見るだけでも充分だ。

 そのとき、うめき声が聞こえてきた。聡美の声。


「聡美! どうした?」


 聞こえないとわかっていても、声を出さずにいられない。発作が起きたのだろうか? 癌の骨転移は、激しい痛みを伴うことがある。あるいは、先日行った左肘の手術の予後が悪いのかもしれない。

 途中、寝室のドアの隙間から明かりが漏れているような気がしたが、聡美が心配だった。リビングまで行き、聡美の部屋のドアを開ける。

 誰もいなかった。

 驚いてリビングに飛び出す。キッチンにもいない。トイレも浴室も明かりが消えている。そこでようやく、寝室のドアから漏れる光に気づいた。ドアを開ける。


「聡美……」


 俺は言葉を失った。脳みそがショートでもしたかのように、何も考えられなくなった。目の前で起こっていることが理解できない。いや、理解することを放棄してしまったのだ。


 聡美は、俺のベッドの上に横たわり、激しく身悶えしていた。よほど苦しいのか、ぎゅっと硬く目をつぶり、激しい息遣いとともに、うめき声を上げている。

 だが……。

 パジャマの胸をはだけているのはなぜなんだろう。ズボンの方が下着と一緒に、左の足首に絡み付いているのはどういうことだ?

 左手が胸のふくらみを掴み、指先が乳首をまさぐっている。そのたびに聡美は苦しげなうめき声を上げている。

 右手は股間に伸び、波打つようにリズミカルに動いていた。それにあわせるように、聡美ははぁはぁと喘いでいた。


「あぐぅ……うあぁ!」


 悲鳴のような声を上げ、硬く閉じた両目から涙を流しつつ、聡美は身体を激しくそらした。何度か手足に痙攣が走る。耐え切れなくなったのか、寝返りを打ってうつ伏せになる。

 だが、右手の動きは止まらなかった。さらに執拗に股間を責める。うつ伏せのまま、腰が高く突き出され、シーツの上についた両膝がじりじりと広がり、右手がさらに自由にうごめきだす。

 頬をシーツにこすりつけ、とめどなく涙を流しながら、聡美は再びうめいた……いや、今度は意味のある言葉だった。

「おとう……さん」

 しかし、俺には意味がわからない。

「おと……うさん、おとうさん!」

 わかりたくない。

「おとうさん……さとし」

 ちがう。これは聡美じゃない。聡美なら俺を名前で呼ばない。

 聡美が、父親のベッドで、こんなことをするはずがない。

 必死に否定する。現実を否定する。目の前の聡美の痴態を否定し、自分の中で荒れ狂う情念の嵐を否定する。

 目を閉じ、耳をふさぎ、俺はその場にうずくまった。だが、聡美の嬌声は止まらない。耳が聞こえないから、声の大きさがわからないのだ。家中に響く声で俺の名を叫び、満たされぬ気持ちを声にして吐き出しているのだ。


 ……ここにいてはだめだ。

 このままでは気が狂ってしまう。

 狂った俺は、何をするかわからない……。


 脚が震えて立ち上がれない。惨めな姿で、戸口まで這って行く。靴を履く余力などない。とにかく掴んで、ドアを開け、外に転がり出る。背後から、聡美のあえぎ声が追いかけてくる。

 やめてくれ。もうやめてくれ。

 ドアを閉じ、ドアを背にして靴を履く。新築だけあって、中でどんなに叫んでも声は漏れてこない。だが、それで俺の動揺がおさまるわけではなかった。アパートの階段を下りようとして脚がもつれ、下まで転がり落ちてしまった。

 体中が痛い。しかし、それ以上に心が痛い。


 俺だった。聡美が恋焦がれていた相手は、俺だったのだ。父親である、この俺だったのだ。


 探しても見つからないはずだ。

 誰が聞いても答えないはずだ。

 一体どれだけの日々、聡美はその気持ちを胸に抱えてきたのだろう。どこにもはけ口のない思いは、聡美の小さな胸の中で高まりつづけ、あんなふうに、自ら慰めずにはいられなくさせてしまったのだ。


 一体、いつから?


 思いつくのは、あのテープだ。俺達に血縁のないことを、聡美はあの時知った。父親への愛情が、あの時からさまよい始め、禁断の想いへと迷いこんでしまったのだろうか。

 あの自殺未遂から湖で溺れた時まで、聡美は俺に触れられるのを怖れていた。あれは、俺に対する自分の気持ちに気づき、それを怖れていたのだろうか。


 のろのろと身体を起こす。ここにいてもしかたがない。しかし、聡美の所へは帰れない。一体、俺はどこへ行けばいいのだろう。

 生暖かい液体が、右耳の手前を伝う。手で拭うと赤かった。血だ。落ちたときに、どこかを切ったらしい。

 手当てをしないと……だが、どこで?


 振り仰ぐと、さっきは心を清めてくれた月の光が、今度は俺の心に狂気を注ぎ込もうとしていた。ゆっくりと、俺は狂っていく。

 ハンカチをこめかみに当てながら歩く。狂った頭に浮かんだ場所は、一箇所だけだった。


 暖かいベッドに横たわれるというのは、すばらしいものだ。隣に温かい体温を感じられるのも。まるで、沙希が生きていた頃のようだ。

 ……偽りの安らぎ。

 ここは三人で暮らしたアパートではない。隣に寝ている女性は沙希ではない。涙に濡れた頬が、その証拠だ。

 沙希の名前を叫びながら別な女性を抱いてしまったのは、これで二度目だった。俺は、同じ罪を何度くり返せば気が済むのだろう。そのたびに、こんな俺を誠実に愛してくれていた人を、こんなにひどく傷つけてしまうのだ。


 安堂由香。そして香川淳子。


 二人とも、こんな俺を愛したばかりに、こんな理不尽な仕打ちを受けてしまったのだ。どんな気持ちなのだろう。愛した男から、単なる欲望の処理手段として扱われるというのは。人格を否定され、物として扱われるというのは。

 俺は人でなしだ。中学生の娘の自慰を見て欲情し、愛してもいない別の女性を抱いてしまったのだ。こんな人間は、さっさと首でもつって死んでしまった方がいい。このまま生きつづけて、さらに罪を重ねるよりは、よっぽどましだ……。


 できもしないことを考えつづける。

 堂々巡り。しかも、心地よい温もりに包まれたまま。すべて偽善だ。まやかし。

 涙すら出ない絶望。絶対に安全なところで、静かに絶望を味わう。そんな自分のふがいなさが、さらに絶望を深める。

 隣で、香川が身動きした。こちらを見ている。俺は視線を合わせる勇気がない。


 見つめないでくれ。

 頼むからそんな、慈愛のこもった目で見ないでくれ。

 俺を赦さないでくれ。憎しみをぶつけ、俺の罪深さを糾弾してくれ。

 それだけの仕打ちを、俺は君にしてしまったのだから……。


 香川の手が、俺の頬をなでた。柔らかな声が、俺の耳元で囁きかける。

「泣いていいんですよ。先生は、そうおっしゃったじゃないですか。聡美ちゃんが癌になったとき、あたしに。今夜の事だってそうでしょう?」

 香川は、俺の苦悩は患者が死んだことが原因だと思っているようだ。しかし、わざわざ訂正する気にはなれない。

 香川の顔が近づいてくる。そっと俺にくちづけをした。約束違反。しかし、先に違反したのは俺だった。

「俺を……責めないのか?」

「責めるだなんて」

 香川は俺の裸の胸に頬擦りした。

「ずっと欲しかったものを、ようやくもらえたのに」

「俺は……愛してないんだぞ」

「構いません」

 両腕が俺の背中に回される。次第に、香川の身体に絡め取られていく。

「あたしは、沙希さんのことを忘れられない先生を、愛してしまったんですから」

 それでいいのか?

 そんな、男にとって、あまりにも都合が良すぎる愛し方で。

「おまえの幸せはどうなる?」

「あたしは、幸せなんです」

 嘘だ。嘘でないというのなら、俺の胸に滴り落ちてくる、この熱い液体は何なのだ。

 香川は嘘をついている。俺が自責の念で潰れてしまわないように。見返りを一切求めることなく、身も心もささげようとしている。

 一方的な愛。与えるだけの愛。無償の愛。

 愛のぬくもりを肌に感じる。愛の重みを胸に感じる。

 そして、愛の苦しさを、俺の心は感じる。

 愛される苦しさ。報いるすべのない、受けるだけの愛が、こんなに苦しいものだとは。


 沙希。おまえを苦しめたのは、これと同じものなんだろうか。俺のいたわりは、こんなふうにおまえの心を掻きむしったのか。

 ようやく、涙があふれてきた。しかし、それは香川のための涙ではない。沙希の苦しみを知ったためのもの。どこまでも俺は、自分本位だ。こんなに尽くしてくれている香川のために、涙すら流せないなんて。


 赦してくれ。赦してくれ、香川。

 赦さないでくれ。赦さないでくれ、香川。


 相反する想いが、胸の中でぐるぐる回りつづける。

 香川は、何があったのか一切尋ねなかった。ただ、俺の苦悶する姿を見て、部屋に招き入れ、傷を手当てし、抱きしめてくれたのだ。

 そんな彼女を、俺は犯した。香川の気持ちがどうあれ、あれはレイプと変わらなかった。

 赦して欲しくない。だが、赦されたい。

 俺の両腕が、香川の身体を抱きしめる。そのまま身体を回して、ふくよかな胸に顔をうずめた。子供のように泣きじゃくる。苦しみぬいた沙希のために。不憫な聡美のために。そして……今度こそは、香川のために。


 夜明けまで、俺は泣きつづけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る