第49話 黄昏に輝く

 病院勤務も三年目になって、俺が任される仕事も幅が広がり、責任も重くなってきた。

 この春からは、聡美以外にも何人かの患者を診るようになっている。総合腫瘍病棟なので、患者の病気はすべて悪性新生物……いわゆる癌だ。


 実際には、癌といっても種類は多い。早期発見かどうかでも、治療の進め方は大きく変わる。

 発見が早くて、他の部位への転移が認められなければ、積極的な攻めの治療を行うことになる。具体的には、病巣を外科的に切除することが有効な手段だ。また、再発を防ぐためにその周囲の健康な組織も念のため切除することも多い。これに放射線などの手段を加えて、まとめて局部治療と呼ばれる。再発さえなければ、快癒する率が非常に高い。

 発見が遅れて転移したり、再発した場合、全身治療が行われ、制癌剤やホルモン剤を使った化学療法が中心となる。こちらは根治が困難なので、癌の進行を遅らせ、症状を軽減して、患者が少しでも長く普通の生活を送れるように努力する、どちらかといえば守りの治療が中心になる。


 俺が副担当医として受け持っていた患者の一人、高橋氏は後者のケースだった。当然、俺は守りの治療を行うことを提案した。しかし、主担当医の山崎医師は頑迷な外科治療主義者だった。彼はベテランだが、ここに配属されて間もなかったのだ。

 欧米に比べて、日本の医者は癌と見ると闇雲に切りたがる傾向がある。沙希の胃癌を執刀した医師もそうだったが、再発を恐れてやたら多くの部分を切除しようとするのだ。しかし、それが必ずしも再発防止に最善ではないことが、ここ数年来の研究で明らかになっている。

 俺は様々なデータを駆使して山崎医師を説得したが、だめだった。こんな若造の言うことなど聞けない、というわけだ。日本の癌治療は、まだまだ科学的データを無視した経験主義が横行しがちなのだ。


 結局、手術は行われてしまった。俺は、自分の無力さに腹が立った。放射線や制癌剤をうまく使えば、入院せずにあと半年は普通の生活が送れたのに。三十代の高橋氏は、病院のベッドで術後の痛みに耐えている間に、他への転移が見つかってしまったのだ。

 インフォームドコンセントも、充分に行われたかは疑問だった。山崎医師は、本人より先に家族へ告知したのだ。日本では、家族が本人への告知を望む例は非常に少ない。結局、この男性は癌の再発を知ることなく、生涯を閉じようとしている。人生の最後を自分の意志で生き抜く権利を奪われたまま。


 俺はつらかった。

 患者に嘘をつきつづけることが。患者の家族が、偽りの希望を口にするのが。そして、自分の無力さが。その結果、俺は山崎医師と何度も衝突してしまった。一度など、殴り合いの喧嘩にまでなりそうになった。あの時、香川が止めてくれなければ、どんなことになっていたか。


 そして、六月のその日。梅雨に入ってから降り続いていた雨が、久しぶりに上がった夕方。患者の高橋氏は危篤になった。


 今夜は病院で過ごすことになりそうだった。俺は聡美にその旨を伝えるため、一旦アパートに戻った。こういうとき、電話が使えないのは不便だ。

 聡美はすでに帰宅していた。玄関で話す。

『お父さん、今夜は病院に泊まる』

 残念そうな、寂しそうな顔。見るのがつらい。

『淳子ちゃん、来てくれる?』

 俺は首を振った。香川も当直で、看護しなければいけないのだ。

『淳子ちゃんも仕事で来れない。聡美、一人で大丈夫?』

 俺が病院に泊まるのは初めてではない。しかし、聡美がいつになく寂しげなので、心配になった。

『大丈夫。抱きしめてくれたら』

 お願いの目だ。逆らえないし、逆らう気もなかった。俺は聡美を抱きしめた。いつもより強く、いつもより長く。心を込めて。聡美は俺の肩に頭を預け、震えていた。沙希がいつもそうしていたように……。

 不意に怖くなった。俺は、沙希の姿を聡美に重ねてしまったのだ。二人は別人なのに。聡美は娘なのに。

 身体を離すと、聡美は俺の頬にキスした。お願いの目で、手話を紡いでくる。

『お返しをちょうだい』

 逆らいようがない。俺は聡美の額にキスを返した。

『お父さん、病院に戻るから。朝には戻る』

 聡美は、潤んだ目でうなづいた。

 後ろ髪を引かれる、というのはこういう気持ちなのだろう。何度も振り返りながら、アパートを後にした。聡美は、俺が角を曲がるまでずっと、玄関で見送っていた。


 夕焼けの中を病院へ急ぐ。聡美がどんなに大事でも、患者が待っているのだ。おそらく今夜、この世を去ってしまう患者が。俺には、その苦痛を和らげ、人間らしく最期を迎えさせてやる義務がある。

 病室に戻ると、患者の容体は悪化していた。香川がモルヒネの点滴を交換している。

「香川、それの単位は?」

「三千です」

 三千ミリグラム。健康な人間に投与したら急性中毒になりかねない量だが、ことごとく消費され消滅してしまう。それだけ苦痛が強まっているのだ。

 しかし、これでは体力の衰えが早すぎる。

「家族への連絡は?」

「山崎先生が」

 主担当の医師だ。くそ、不用意なことを言って、相手を刺激しなければいいんだが。


 俺は、持ち場を離れたことを後悔した。古いタイプの医者に多いのだが、山崎医師は患者や家族への心理面のケアを軽視しがちだ。家族の人たちは俺のほうを信頼している。

 心配はあたった。高橋氏の奥さんがひどく取り乱したまま子供を連れてきたのだ。

「あなた! ああ……あなた!」

 髪を振り乱して涙を流す姿に、俺は胸が詰まりそうになった。

 同じなのだ。沙希を看取ったときと。

 これだけは、何度体験しても慣れることはできない。小学校一年の息子は、何が起こっているかわからず、ただ怯えて泣いていた。

 このままでは、高橋氏が苦しむばかりだった。すでに指一本すら動かせない状況だが、意識はある。そして、聴覚は最後の瞬間まで残っているものなのだ。夫人の嘆きは、高橋氏の心を動揺させているに違いない。


 山崎医師が入ってきた。高橋夫人の姿を見て、うんざりしたように首を振る。そう。こういう医者もいるのだ。患者の苦痛や家族の苦悩に無関心な医者が。

「山崎先生、ここをお願いします」

 俺は泣き喚く夫人と子供を連れて病室を出た。

 面談室がいい。あそこならゆっくり話せる。部屋について夫人を座らせ、男の子を膝に乗せてやる。夫人は息子を抱きかかえてうつむいた。これでいい。家族と肌を触れ合わすことで、気持ちは静まっていくものだ。


 しばらくして、高橋夫人はぽつりと言った。

「……いよいよなんですね」

 俺には、慰める言葉などない。だが、黙っているわけにも行かない。

「いよいよです」

 夫人は、きっと顔を上げて言った。

「冷静なんですね」

 怒りに頬を染めている。

「当然ですよね、他人事なんですから。先生はお若いから、私の気持ちなんてわからないんでしょう」

 一体、山崎医師は何を言ったのだろう。……知りたくもないが。

 夫人は、悲しみを怒りにすり替えることで、苦悩に押しつぶされそうな心を守ろうとしているのだ。しかし、それでは現実を乗り越えられない。

 俺は悩んだ。自分のプライベートなことは、患者やその家族にあまり話したくない。だがこのままでは、夫人は夫の最期を看取ってやれないだろう。時間がなさすぎるのだ。

「私はわかりますよ、奥さんの気持ち」

 夫人は怪訝そうな顔をした。俺は、さぞかし暗い顔をしているのだろう。

「私の女房も、おととし死にました。癌で」


 沙希、ごめん。おまえの思い出を、こんな形で利用するなんて。でも、おまえならわかってくれる。……そう信じてる。


 夫人は、口元に手を当てて黙り込んだ。さぞかし意外だったのだろう。

「女房は、自分が癌だと知ってました。残り少ない命だということも。でも、とり残される私と娘がちゃんとやっていけると信じることで、自分の死を受け入れることができたんだと思います」

 俺は目を閉じた。今でも、思い起こすと胸が詰まる。

「最後に入院する前日には、こう言ってました。充分生きたから、幸せだって」

 沙希のことになると、どうしても涙腺が緩んでしまう。目を開けた拍子に、一粒こぼれてしまった。それが呼び水となったのか、高橋夫人の目からも、涙があふれてきた。

 だが、それはさっきと同じ涙ではない。同じ苦しみを知る者への、共感の涙だ。

 俺は、そっと夫人の肩に手を置いた。

 患者やその家族に触れるときには、注意が必要だ。相手が親しみを感じてくれていないと、かえって不安や不快感を与えてしまう。だが、今なら大丈夫。

「ご主人にも、悔いのないような人生の最後を迎えさせてあげましょう」

 高橋夫人は、何度もうなづいた。


 病室に戻った。

 高橋氏の容態は安定していたが、香川の報告する数値によれば思ったより早くそのときが来そうだとわかる。ぎりぎりだったのだ。

 夫人の手を取り、夫の病床のそばに導く。夫人は高橋氏の手を取った。高橋氏は、うっすらと目を開けた。

「あなた」

 夫人が語りかける。かすかに震えているが、穏やかな声だ。

「私は、ここにいます。信明も」

 幼い息子を父親に見えるように引き寄せ、あいているほうの手で抱きかかえる。

「いつも一緒にいるから。いつまでも……」

 微笑みながらも、涙が頬を伝う。高橋氏も涙を浮かべたが、微笑み返した。

「ありがとう」

 しわがれた声だが、はっきりとそう囁き、高橋氏は目を閉じた。一息、深く吸い、ゆっくりと吐き出す。そのままずっと。

 心拍音の表示が停まった。ブザーが鳴り始めるが、すぐに香川が止めた。涙を拭こうともしない。こういうとき、ストレートに気持ちを表せるのは香川の長所だろう。そっと夫人のそばに立ち、肩に手を置く。夫人は、香川に向かって一礼した。


 日付が変わるまでにかなり時間を残して、高橋氏は夫人と息子に看取られて逝った。

 俺は、満足な治療ができずに心残りばかりだったが、ようやく最後の最後で、意味のあることができたと感じた。

 夫人に挨拶をして、病室を出る。夫人は何度も感謝の言葉を口にした。この人も、お子さんも、きっと大丈夫だろう。そう信じた。

 廊下には、山崎医師いた。壁を睨みつけている。拳で壁を殴り、一言つぶやいた。

「畜生……」

 その目には涙が浮かんでいた。悔し涙。

 ようやく、俺にもわかった。

 彼は癌を敵視し、あくまでも根絶しようとする、いささか古いタイプの医者だ。しかし、人間らしい心がないわけではない。患者や家族の気持ちを汲み取るすべを知らないので、自分の心が押しつぶされないようにそれらを排除してしまうのだ。

 俺が、そうしたすべを身に付けているとしたら、それは沙希のおかげだろう。自慢できることではない。同様に、山崎医師をさげずむこともできない。沙希と再会していなければ、俺は山崎医師とまったく同じことを今していたはずなのだ。

 俺は声をかけようか迷った。そんな俺に気づくと、山崎医師は背を向けて歩み去った。

 いつか、酒でも酌み交わしながら、今夜のことを話せれば。そんなことを考えながら、事務局に向かう。後のことを引き継いでもらうために。


 家路をたどる。香川とは病院の前で別れた。あいつも、今夜はさぞかし疲れたろう。だが、早い時間にすべてが済んだのはありがたかった。聡美を一人ぼっちにしないですむ。

 振り仰ぐと、雲の切れ目から月が顔を出していた。その光を浴びていると、苦しみも悲しみも洗い流されていくようだった。

 穏やかな気持ちだった。


 アパートのドアを開けるまでは。

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