第48話 オフラインミーティング
新宿という街は、一種独特の雰囲気がある。
人が多いのは東京一帯どこへ行っても同じだが、ここでは男も女も猛烈な勢いで歩いていく。人の波というより、濁流だった。
聡美は流れにさらわれまいとするかのように、俺の腕にかじりついていた。
耳が聞こえないというのが、場合によってはうらやましくなる。
この街は音の洪水でもあった。向こうでは屋外特設スタジオで大音量のロックががなり、こちらでは右翼がバリバリに音の割れたスピーカーで軍歌を撒き散らしている。
この中を通り抜けて、小学生の時、聡美は同窓会の会場まで一人でやってきたのだ。今思うと、良くぞ来れたものだと思う。今、隣で震えているのが同一人物とは思えない。
……などと言ってはかわいそうだ。成長することで、聡美は恐れを知ったのだから。
おそらく、あのテープで母親の身に起こったことを知り、この街に漂っている猥雑な雰囲気への嫌悪感を学んだのだろう。年頃の少女にとって、それは身を守ることにもつながる。無垢のままでは生きてはいけないのだ。
電子メールに記されていたカフェバーは、新宿東口から歌舞伎町に向かって少し入ったところにあった。店の前で、聡美は俺に向かって紡いだ。
『お兄さん、と呼んでもいい?』
俺はびっくりした。
『なんでまた?』
ちょっと赤くなってうつむく聡美。
『お父さんだと、ちょっと面倒でしょ?』
まあ……これから人に会うたびに、沙希との出会いから死別までを話していたんじゃ身が持たない。しかたがないか。
それに、嘘ではない。聡美は沙希の妹でもあるのだから。
『わかった』
俺が紡ぐと、聡美はもじもじしている。
『どうした?』
『……練習していい?』
俺は腹をすえた。
『よし、来い』
おずおずと聡美は紡いだ。
『お兄さん』
『なんだ、妹』
二人でクスクス笑い、店のドアを開けた。
店内は薄暗く、照明がどことなく淫靡なムードをかもし出している。大人の領域だ。
なのに、聡美とそう変わらない年齢の少女があちこちに男といるので、俺はショックを隠せなかった。最近、話題になっている援助交際というやつだろうか。少女達は皆、髪を染めて異様に日焼けしている。手にしているグラスには琥珀色の液体。ウーロン茶だと信じたい……。
その中の一人と思わず目が合ってしまった。
俺の視線に非難の気持ちを感じ取ったのだろう。露骨に嫌な顔をされてしまった。慌てて目をそらす。表情の豊かさといっても、こういうのはありがたくない。
ふと考えてしまう。意外と、俺と聡美も同じように見られているのかもしれない。聡美は色白だが、確かに茶髪でパーマのように見えなくはないし。……気にしないでおこう。
とにかく、女子中学生を招待する場所ではないな。ちょっと良識を疑ってしまう。
聡美が、俺の袖をつんつんと引っ張る。指差す方を見る。パンダ柄のトレーナーを着た大男が、こちらに背を向けて立っていた。なるほど、こいつがパンダマンか。
その一角だけは、他とは雰囲気が違っていた。打ち解けた仲間同士、という感覚。中にはカップルもいて、肩を抱いたりしている。しかし、ざっくばらんに周囲と話しているようだった。
俺たちはその一群に近づいていった。声をかけてみる。
「えーと、パンダマンさんですか?」
男が振り返る。人の良さそうな髭面の男だった。
「はいそうです。……ええと、どちらさん?」
「霧島聡といいます。霧島聡美の……」
うっかり父親と言いそうになったが、最後まで言う必要がなかった。
「あ、サトミさんのお兄さん?」
言うなり、俺の手をがっしり握った。みんなの視線がいっぺんに集まってきた。
「いや、どうもどうも、妹さんにはいつもお世話になってます」
話が逆では……と思ったが、ちゃんと挨拶はしないと。
「いえ、こちらこそいつも、むす……妹がお世話になっているようで」
聞いてなかった。髭の男、パンダマンは、仲間を振り返ると大声で言った。
「諸君! こちらがサトミさんの兄上だ。拍手!」
いきなり盛り上がっている。うーむ、酔ってもいないみたいなのに、奇妙な集団だ。
「おや、こちらは?」
パンダマン氏、俺の背中に隠れている聡美に気づく。
「下の妹さんですか?」
下の? なんだそりゃ?
「む……妹の聡美です」
一気に沈黙。
「……この子が、サトミさん?」
あっけに取られているパンダマン氏。
「……本人に聞いてみては?」
俺が言うと、大きな身体をかがめて、聡美に向かって聞いた。
「サトミさんですか?」
口の動きが読めたのだろう。聡美はこくんとうなづいた。
パンダマン氏、唖然とする。
聡美も戸惑っている様子。
俺は、なにがなんだかわからなかった。
コーヒーの苦味と落ち着いた音楽が、気持ちを和ませてくれる。
「じゃあ、聡美のやつ、自分の年齢をごまかしてたんですか?」
俺の質問に、パンダマンこと大野氏は、髭をしごきながら苦笑いした。
「いや、ごまかしてなんていなかったはずです。みんなが勝手に勘違いしたんです」
隣のテーブルで、女子大生やOLらしい女性陣に取り巻かれ、聡美はチョコレートパフェを賞味していた。あんなに食べきれるのだろうか?
未成年者がいるからというので、一同は場所を喫茶店に移してくれたのだ。遅れてくるメンバーはどうするのかと聞いたら、大野氏は携帯を見せて笑った。なるほど。心配無用か。
「書き込みの文章がすごくしっかりしているので、てっきり大人の女性だと思い込んでしまいましてね」
パンダマン大野氏は、なにやら面白がっているようだった。
「いやー、中学生の女の子に、転職の相談をしちゃったのか……」
感慨深げに言う。
「あの……なんの話ですか?」
俺が聞くと、髭をこすりながら答えた。
「この集まりは、私が主催している『なんでも相談室』というメーリングリストのメンバなんですよ。文字どおり、恋の悩みから哲学的命題まで、なんでもかんでも相談しちゃおうという」
なるほど。
「聡美ちゃんは、今年の初めくらいから参加してたんです。最初は、たしか片想いをしている親友のことで相談を持ちかけてきたんです。てっきり大学生だと思ってたんですが、その子も中学生だったんですねぇ」
田原涼子のことだ。
「そうです、相手の男の子もクラスメイトです」
うーむ、とうなりながら、髭をごしごしこする。
「ほら、聡美ちゃんの隣の女性、OLなんですが、上司と喧嘩したことを書き込んで、相手をぼろくそにけなしてたんです」
ちょっと小声で大野氏は言った。
「そうしたら、聡美ちゃんに叱られちゃいましてね」
「大人を……叱りつけたんですか?」
あっけにとられた。
「叱るというより質問なんですが。あなたが上司の代わりにやれば、うまくいったんですか? って。言われた本人は叱られたと思ったみたいですけどね」
聡美がねぇ……田原が言ったとおりだ。俺が思うよりずっと、聡美は大人なんだ。ひょっとすると、俺自身よりも。
「それからあっちのカップルも、聡美ちゃんが結び付けてくれたんです」
今度は縁結びか。
「あの女の子、女子大生なんですけど、彼氏との仲で悩んでたんです。でも聡美ちゃんのアドバイスで、思い切って自分の気持ちを素直に伝えたら、誤解が解けてうまくいったんです」
聡美、八面六臂だな。
「あっちの物静かな青年は、突然自殺したいなんて言い出してみんなを驚かしたんですが、あの時の書き込みはすごかったですねぇ」
俺は、おもわずつぶやいていた。
「……天国は心の中にあるのだから」
髭面がびっくりした。
「ご存知だったんですか?」
「あの子の口癖なんです。母親を思い出した時の」
なるほど、と言って大野氏はうなづいた。
「そういえば、ご両親はどんな方ですか?」
「死にました」
とっさに、父親の自分まで殺してしまった。いや、父親は浜田氏の方にしておこう。
「あの子が小学五年生の時に。……それからは、私が親代わりです」
大野氏はうなづきながら髭をこすった。
「そうだったんですか。だからあれだけしっかりしてるんですねぇ」
再び、聡美のほうを見る。ノートパソコンが大活躍していた。飯島少年のくれたマイクは、相当感度がいいらしい。かなり離れているのに、画面にはスムーズに文字が出ている。
「それに、聾唖者だったなんて。ちっともわかりませんでしたよ」
大野氏、聡美のことが相当気に入ったらしい。
「実は、今私は手話のパソコンソフトを作らされてるんですよ」
「コンピュータ技術者でしたか?」
「ええ、とあるソフトハウスに勤務してます。以前は家電メーカーにいたんですが、ここに転職するときに聡美ちゃんにいろいろ相談に乗ってもらいましてね」
浜田氏の同業者だったのか。
「奇遇ですね。あの子の……父親もそうでした」
一世代、飛ばしたことになるんだろうか。言葉を続ける。
「で、その手話のソフトって?」
聞いて欲しかったらしい。大野氏はにっこりした。
「キーボードから文章を入れると、手話が画面上に動画で表示されるんです」
「そりゃすごい」
俺はそのソフトのことをいろいろ聞いた。またしてもパソコンというものの可能性を見せ付けられた気がした。どうりでIT、ITと大騒ぎするわけだ。
「それでですね、この動画の収録が大変で。もしよろしかったら聡美ちゃんに手伝ってもらえませんかねぇ? アルバイト料はちゃんと出しますので」
「そうですねぇ……本人次第ですね」
世の中に役立つことだし、それほどハードな仕事でもないらしい。反対する理由もない。
「ところで……」
俺は気になっていることを口にした。
「皆さん、ずいぶんとプライベートな相談をなさるんですね。驚きました」
大野氏はにっこり笑って答えた。
「メーリングリストは匿名で参加できますからね」
ほとんど全員が本名を使わず、趣向を凝らしたあだ名を使っているのだそうだ。このあだ名のことをハンドルネームとも言うのだという。聡美はサトミがハンドルネームだった。芸が無いというか、素直というか。
「それで、今日はサトミちゃんが来てくれるというので、集まったのはほとんど今まで相談に乗ってもらったメンバばかりなんです」
「へえ……」
改めて見回した。十人以上いる。
「こんなに沢山の相談を……」
大野氏は首を振った。
「とんでもない。今日集まったのは半分にも満たないですよ。それに、他のメーリングリストや掲示板でも見かけたという人がいますし」
驚いた。一体、なにが聡美にそこまでさせているのだろう。
もう一度、聡美の方を振り返る。パフェを食べる仕草は、まだまだ子供に感じられた。だが、その瞳に宿っている知性は、やはり俺よりもよっぽど大人なのに違いない。
……しかし、それは果たしていいことなのだろうか。聡美はまだまだ、子供らしい甘えが許される年頃のはず。なのに、母の死についで自らも同じ癌という病を背負わされ、いやおうなく大人になるように仕向けられているのだ。
もっと甘えていいんだよ、聡美。俺だって、ちっとは大人になったはずなんだから。
……そうだよな、沙希。
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