第47話 再手術
五月半ば。聡美はまだ入院していた。
聡美は免疫力がもともと弱い。五月の水の事故で湖水をかなり飲んでいたので、感染症の心配があったのだ。それに、心臓マッサージのせいで、肋骨にもひびが入っていた。そこでしばらくの間、湖から運ばれた地元の病院に滞在し、様子を見たのだ。大学病院に転院できた時には、月が変わっていた。
ようやく体力が戻っても、聡美の退院はさらに伸びてしまった。事故のせいで先送りになっていたが、肘の人工骨を取り替える時期がきてしまったのだ。去年の冬に入れた人工骨が成長した骨を圧迫し、聡美は止むことのない痛みに四六時中悩まされるようになっていた。
そのせいだろうか。聡美は時折、以前のように俺に抱きついて来るようになった。そうすると、痛みが和らぐのだろう。それとも、水の事故で死にかけたからだろうか。
どちらでもいい。俺たちの間の溝がそれで埋まるのなら。
その日も、俺が病室に入ると聡美の顔がぱっと輝いた。ベッドの上で、膝の上にノートパソコンを置いたまま、右腕を俺に伸ばし抱擁をせがむ。左腕は痛むので動かせないのだ。やさしく抱きしめてやると、聡美は右手だけを俺の背中に回し、しがみつく。そのまま、しばらく放してくれない。
たっぷり一分はそうしていただろうか。ようやく解放してくれたので、聡美の左側に椅子を持っていき座った。左腕を取り、肘のあたりをやさしくなでてやる。聡美は顔を赤らめたまま、右手だけで紡いだ。
『痛みが消えた』
俺は口をはっきりあけて言った。手を離したくない。
「よかったな」
ずっとなでていてやりたいが、やはり手話ができないと不便だ。伝えないといけないことがある。俺は左手を放して紡いだ。
『明日、手術がある』
聡美の顔が曇る。自分の肘をなで、何度かそっと曲げ伸ばしをしてみる。あの後、ずっとリハビリを続けてきたので、もう少しで肩に手が届くところまで回復したのだ。だが、この手術でまたやり直しになってしまう。
「うっ」
聡美はうめいて顔をしかめた。
『痛む?』
俺の手話に、聡美はうなづいた。
『今度の手術では、靭帯を切り取らないでいい。後遺症は少ない』
黙ってうなづく。気休めだとわかっているのだ。靭帯を切り開いて縫い合わせれば、それだけ伸び縮みしにくくなる。手術痕が治るまで、リハビリも休まなければならない。
俺はもう一度、聡美の左肘をなでてやる。少しでも痛みが和らぐように。
聡美は右手を俺の手の上に重ね、そっと目を閉じた。涙が頬を伝う。
不憫でならない。聡美の体中に残る小さな手術痕。自由に曲がらない腕。そればかりか、出生の秘密は今も聡美の心を苦しめている。そして片想い。
聡美は手を放した。再び、ノートパソコンのキーボードを叩きだす。
『また日記?』
俺が聞くと、聡美は短く答えた。
『メール』
今度の入院から、病院の電話回線を使ってインターネットにつなげるようにしておいたのだ。
『誰に?』
聡美はにっこり笑った。
『友達。沢山いるの』
そういえば、一日に三十通以上を送っていたっけ。
『何人?』
聡美はちょっと考え込んだ。
『五十人……くらい』
すごい。
『毎日、何通出してる?』
『四十か五十通くらい。読むのは百通以上』
驚いた。もし俺に手紙がそんなに来たら、とてもでないが読みきれない。そういえば、電子メールを駆使しているビジネスマンはそのくらいを毎日こなしていると聞く。聡美は中二でそこまで到達しているのか。
『どんなことを書くの?』
ちょっと眉をよせて、聡美は考え込んだ。人差し指をあごに当てて。このポーズもかわいいもんだ。
『いろいろ。読んだ本の話や、学校のことや、友達のことや』
クスッと笑って続ける。
『人生相談みたい』
そうか。聡美は、こんなに沢山の友人をもてたのだ。そして、メールを介して支えられている。決して孤独ではない。
気がつくと、聡美が俺の顔を見ていた。真面目な表情だ。
『どうした?』
聡美は、パソコンの画面を指差している。
『読んでみて』
『いいの?』
聡美がうなづくので、おずおずと画面をのぞき込む。
なんでも相談メーリングリストの皆様へ。
来る五月二十八日、午後六時より、
恒例のオフラインミーティングを行います。
ふるってご参加ください。
目印は、パンダのトレーナーを着た大男です。
パンダマン
会場は新宿のカフェバーになっていた。携帯の電話番号も出ている。この、パンダマンってのはあだ名だろうか?
聡美に聞いてみたところ、オフラインミーティングというのは、普段インターネットのメールやチャットで話している人達と、直接会って親睦を深めることだという。ちなみに、メーリングリストというのはメールでやるチャットだそうだ。混乱してきたので、あとは考えるのをやめた。
『行きたいの?』
聡美は、こくんとうなづくと、聡美は俺の顔をじっと見る。久しぶりの、『お願い』光線だ。困った。これには逆らっても無駄だった。
『なら、保護者同伴だ』
聡美の顔が輝く。ぎゅっと俺に抱きつく。俺も聡美をやさしく抱きしめる。
まあ、しかたないか。ようやく、以前の二人に戻れたんだからな。
聡美の病室を出ると、香川がうなだれていた。このところずっと、ボートの事故のことでひどく落ち込んでいる。もう半月以上もたつのに。
香川の身体は、小さく弱々しく見えた。やさしい言葉の一つでも、かけてやりたくなる。
「もう、気にするな」
香川はうなずいた。
「事故はおまえのせいじゃない」
「でも、あたし……看護婦なのに、聡美ちゃんの心停止になにもできなかった……」
「聡美は死ななかった。それに……」
香川の肩に手を置く。
「もしそうでなくても、おまえを責めたりなんてしないから」
香川は肩を震わせて泣き出した。
「怖かったんです……もし聡美ちゃんが死んでたら……絶対、自分が赦せないから」
困った。俺は、こういうのに弱い。放っておけないのだ。
そっと香川の肩を抱いて言う。
「もう怖くないから。聡美は生きてるんだから」
香川は俺の肩に顔をうずめて泣いた。
こら、約束違反じゃないか。そういうのは自粛するんじゃなかったのか? ……なんて言う気にはなれなかった。どうしても。
認めざるをえなかった。聡美との仲は以前に戻れたが、香川との関係は何か変わってしまったのだ、と。
人工骨の交換手術は成功した。左の肘は再びギプスで固定された。またしばらく、聡美は不自由な生活を強いられることになる。そしてリハビリ。だが、ある程度腕が曲がるようになれば、再び交換となる。……賽の河原だ。
飯島少年と田原涼子は、相変わらず毎日見舞いに来てくれていた。すっかり、聡美への見舞いがデートの代わりになっているようだ。
二人に聞いたことがある。
「聡美はお邪魔虫じゃないのかい?」
田原は笑って答えた。
「聡美ちゃんがいると、ずっと楽しいんです」
飯島も照れながら言った。
「霧島がいないと、二人っきりじゃなに話していいかわからなくって」
……そういえば、あのころの俺も沙希と面と向かって話すのは苦手だったな。中学生の恋愛は、それが歳相応なのだろう。
急いで大人になっても、いいことなどない。
あの時、もし奇跡が起こって沙希の癌が治り、あのまま暮らしていられたら。そして、聡美がほんとに俺たちの子供として産まれていたら……どんなに良かっただろう。
考えても、しかたのないことだが。
退院祝いは、いつものメンバーが揃った。
香川は、もう全身全霊を込めて料理をしてくれた。なんだか、鬼気迫るものがあった。食べるのが恐れ多いほど。
田原と飯島少年は、それぞれノートパソコンの布製カバーとマイクをプレゼントしてくれた。聡美のパソコンを学校に持ち込むことが、ようやく認められたのだ。
布製カバーは、カバーをつけたままパネルを開いて使えるように工夫されていた。マイクの方は、そのまま端子に差し込んで使えるタイプで、音声認識専用にノイズのカットなどができるものだった。邪魔にならないサイズなので、差したままでも持ち運べる。
聡美は大喜びだった。さっそくマイクを差し、カバーをつけてみた。左手のギプスのせいでうまくいかない。俺は手伝ってやった。カバーはデニムの生地で、かわいらしいウサギのアップリケがついていた。
カバーはマイクも覆ってくれるようになっていた。顔の方に向きを変えれば、そのまま使えるようになっている。これは便利そうだ。
『よかったな、聡美』
聡美はうなづいた。涙を浮かべている。二人の方に向き直り、ぎゅっと抱きしめた。
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