第46話 再び湖上にて

 それからすぐに、またゴールデンウィークが来た。ここ何年か恒例になっているドライブだが、どこに行くかが問題だった。


『山中湖に行ってみようか』

 夕食の席で俺が提案すると、飯島少年が頭を抱えた。

「……ボートだけは、勘弁してください」

 田原一人を除いて、全員が笑い転げた。聡美は「ボート」を口話で読み取ったらしい。

 一緒に下校してくるので、最近は彼女もうちの食卓の一員だった。

 きょとんとする田原が尋ねた。聡美のために手話も交えて。

『ボート、嫌いなの?』

「え、いや、その……」

 田原の質問に、ドギマギする少年。

 しかし、香川がばらしてしまう。

「ひどかったのよー、車に酔ってボートに酔って」

「へー、乗り物に酔いやすいんだ」

「そーそー、おかげで去年は大変だったんだから。湖の真中で立ち往生しちゃって、あたしが先生に助けを求めて」

 ……多少脚色があるな。

「え? 先生と乗ってたんじゃないんですか?」

 田原はびっくりしたらしい。俺のほうを見る。

「いや……聡美がどうしても一緒に乗りたいって言うから」

 まじまじと俺を見ている。

「だって、ほら……飯島君とだと、緊張しちゃうからって」

 なんか、少年の立場がどんどん悪くなるな。

 聡美のほうを見る。みんなが手話を交えて喋っているので、面白がって聞いているようだ。

『聡美、おまえはどこに行きたい?』

 ちょっと考えている。

『また、ボート乗りたい』

 よし、決まりだ。……ん? 少年の顔色が良くないな。

「飯島君、心配するなって。今度は最初から酔い止めの薬をやるから」

「本物……ですよね?」

「本物だ」

「……わかりました」

 決定。


 去年ドライブに行ったときは、車を買うつもりだった。だが、その後で聡美の病状が悪化してしまったため、まだ買えずにいる。

 だから今回もレンタカーになってしまった。まあ、用途に合った車を選んで借りられるから、この方があっているのかもしれない。

 今回はメンバーが増えたので、後部座席に三人が余裕で座れる車を借りた。聡美を挟んで、田原涼子と飯島少年が仲良く座っている。

 どう考えても、これだと聡美がお邪魔虫なはずなんだが、さっきから楽しそうに話が弾んでいる。今日はあらかじめ酔い止めの薬を飲ませてあるので、少年も心から楽しんでいるようだ。

 助手席には香川が座っている。こいつもさっきからひっきりなしに喋っている。俺は運転をしながらなので、適当に「うん」とか「ああ」とか言ってるだけだが、気にしていない。


 残念ながら、高速道路はえらい渋滞だった。渋滞二十キロという表示をくぐり、うんざりしてしまう。

 去年は雨続きだったので、旅行を断念した人が多くてすいていたのだろう。今年は好天が見込まれていて、実際にそのとおりだったのでこのありさまだ。

 そんなこんなで、山中湖についたときは昼をかなり過ぎてしまっていた。すぐに芝生の上にシートを敷き、弁当を広げる。

 飯島少年は目を丸くしていた。

「うわ……」

 俺も唖然としてしまった。

「こりゃすごい」

 女性軍に田原が加わった結果、戦力のバランスは大きく崩れてしまった。三人とも張り切って作ってくれたので、弁当の総量はゆうに十人分はあったのだ。

 こうなったら、育ち盛りの食欲だけが頼りだった。少年の肩に手を置く。

「がんばろうな」

「は……はい」

「これを食い尽くさないと、俺たちに明日はない」

「はい……」

「安心しろ。胃薬ならちゃんとある」

 とりあえず、気休めくらいにはなるだろう。

 香川が手招きする。

「ほらほら、なにやってんの。食べて、食べて」

 食った。とにかく食った。がむしゃらに食った。

 ……結論として、いかに育ち盛りといえど、食欲は無限ではないということが判明した。奮闘むなしくダウンした飯島少年だが、今は田原の膝枕で休んでいる。戦士の休息。さぞかし、至福の境地だろう。

 俺はというと……はっきり言ってつらい。聡美にお願いするわけには行かないし、かといって待ち構えている香川にお願いなんかしたら、後が怖すぎる。

 しかたがないので、そのままごろんと横になる。青空に浮かんだ白い雲が、ゆっくりと流れていた。気持ちいい。……ちょっと寂しいが。


 香川と聡美は、片付けに入った。

「ああん、もう。こんなにたくさん残しちゃって」

 香川がぼやく。だったら、分量の分担を考えてくれよなー。多分、残った分でも二、三人前はあるだろう。

『捨てるのもったいないから、一つにして持って帰りましょ』

 横目で見ると、聡美は香川と一緒に残った弁当を一つにして、香川の特大バスケットにしまっていた。……しばらく、おやつはあれになるな。

 こうやって見ると、やっぱり香川と聡美は姉妹みたいだ。それとも、片想い同盟だろうか。

 弁当の残りを詰め終わると、香川はバスケットを車の中に入れた。


 聡美はというと……シートの上に座り込んでいる。切なげな表情。視線をたどる。田原と少年の方を眺めていた。やはり憧れてしまうのだ。

 いったい、どこの誰を膝枕したいと、聡美は思っているのだろう。そんなことを考えながら眺めていると、聡美は俺の視線に気がついたらしい。こちらをちらと見ると、頬を染めて目をそらした。


 ようやく動けるようになった時には、三時を回っていた。

 香川が言った。

「おやつ、欲しい人!」

 ……冗談はやめて欲しい。

 聡美が、帰る前にどうしてもボートに乗りたいというので、乗り場に向かう。しかし、問題は組み合わせだ。飯島少年と田原は一緒だ。これを引き離したりしたら、残りの女性軍に半殺しにされてしまう。問題は、俺と聡美と香川が、どの組み合わせで乗るかだ。

「お父さんは放っといて、一緒に乗ろうか? 聡美ちゃん」

 冗談きついぞ、香川。

 ……と思ったら、聡美はうなづいたのだ。


「嘘だろ……」

 俺は、一人ぽつんと桟橋に取り残されてしまった。

「じゃねー」

「行ってきます!」

 香川と飯島少年は、それぞれのボートのオールを漕いだ。

 少年の方は、去年から比べて格段の成長が見られる。田原を乗せて、どんどんと沖に出て行った。……まあ、勝手に幸せになってくれ。

 香川の方は、まるでだめだった。桟橋から十メートルほどのところで、漕いでも漕いでも前に進まない。漕ぐたびにボートは右に左にゆらゆら揺れる。危ないったらありゃしない。


 そのときだった。

 沖のほうから突進してきたモーターボートが、二人のボートを掠めるようにして通り過ぎて行った。いくつもの大きなうねりが押し寄せてくる。

 あぶない!

 跳ねた水に驚いた聡美が、腰を浮かした。そこへ大きなうねり。香川が叫ぶ。

「聡美ちゃん!」

 バランスを崩し、湖に頭から落ちた。……浮かんでこない!

 俺は桟橋から飛び込んだ。そのまま平泳ぎで潜っていく。揺れるボートのへりから、陽光が縞になって湖底へ伸びている。

 ……聡美の姿が見えない。身体を横にして、横目で水面を見る。いない。なら……あのまま沈んだにちがいない。

 そろそろ息が苦しくなってきた。だが、水面に上がっている暇はない。聡美は、この下にいるのだ。冷たい水の中に。

 懸命に水を掻き、潜っていく。透明度が低い。どんどんまわりは暗くなる。いや……俺の意識が遠のいているのかも。

 何も見えなくなった。くそ、このまま俺も死ぬのか……。

 出し抜けに、突き出した手が柔らかいものに触れる。もうひと掻き。掴んだ! 真っ暗な中で、俺は聡美の身体を抱き寄せる。冷たい。その意味するところも、もはや考えられない。頭ががんがんする。

 水面に上がろうとしたとき、一瞬どっちが上かわからずパニックを起こしそうになる。ぐるりと回り、ぼんやりと明るい方に向かって懸命に水を掻き、蹴る。だが、明るさはどんどん薄れていく。もうだめだ……。

 腕が空気を掴んだ。次の瞬間、頭が水面を突き破る。肺が爆発したように息を吐き、絞め殺されそうな音を立てて吸う。水を飲んで咳き込む。


「先生!」


 香川の声。俺の腕を掴む。すごい力で。

「聡美を……聡美を早く!」

 ぐったりとした聡美の身体を、水面に引き上げる。香川の腕が伸び、聡美のシャツを掴んだ。

「上げろ! 引っ張れ!」

 香川は歯を食いしばり、引っ張り上げる。俺は懸命に下から押した。だが、自分の身体が沈んでしまうので、うまくいかない。

 ようやく引き上げた香川は、聡美の胸に耳を押し当てる。そのまま動きが止まる。

「早く、人工呼吸を!」

 俺は必死で叫ぶが、香川はのろのろと体を起こすと、放心したようにつぶやいた。

「音が……しない」

 嘘だ。

 体中の力が抜けていく。

 嘘だ……嘘だ、そんなの。

 意識が薄れる。


 だめだ、死んだらだめだ、聡美。俺を、俺を一人にしないでくれ……。


 伸ばした手が、船べりにぶつかった。その痛みで我にかえった。俺は船べりを掴むと、無我夢中で身体を引き上げた。

 聡美の顔は、土気色だった。その姿は、息を引き取った後の沙希にそっくりだった。巻き毛には水草が絡みついている。

「嘘だ……俺は、俺は信じない!」

 両手を組み、振り上げる。

「死ぬな!」

 渾身の力を込め、聡美の華奢な胸に拳を打ち下ろす。

「死ぬな! 死ぬな! 死ぬな!」

 何度も、何度も打ち下ろす。ころあいを見て、胸に耳を当てる。音は……しない。

 繰り返す。繰り返し打ち下ろす。まだ、音はしない。

 さらに打ち下ろす。香川が止めに入った。

「先生、もう聡美ちゃんは……」

「黙れ!」

 突き飛ばす。構わず繰り返す。繰り返す。繰り返す。音は……。

 ……音が、した。

 俺は気道を確保すると、紫色になった聡美の唇に自分の唇を重ね、思いっきり息を吹き込んだ。聡美の胸が膨らむ。

 何度も、何度も、息を吹き込む。酸欠でめまいがしたが、構わず繰り返す。

「がふっ」

 聡美の口から、水が吹き出た。急いでうつむきにする。肺の中の水が流れ出る。聡美はそのまま咳き込んだ。自発呼吸が始まったのだ。

「聡美……」

 俺は聡美を仰向けにし、抱きしめた。そのまま身体をそっと起こす。

 聡美の目が開いた。俺を見つめるその目から、涙が流れ出した。聡美は震えていた。震えながら、俺の身体に両手をからめ、硬くしがみついてきた。

 こんなに冷たくなって。今、暖めてやるからな。

 さらに、しっかりと聡美を抱きしめる。俺たちの間に、隙間があかないように。


「先生……すみません、先生……」

 香川は俺の背中に顔をうずめて泣き出した。

 夕日に照らされた揺れるボートの上で、俺たち三人は抱き合って震えていた。

 それが、生きている証だった。

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