第45話 聡美の想い人
二年生のクラスは、一年からそのまま持ち上がりだという。だから、聡美の初登校日の朝、田原と飯島少年が二人そろって聡美を迎えに来たのは、別に意外ではなかった。
聡美は、出かける直前までノートパソコンをいじっていた。もうすっかり、自分の身体の一部と言っていい。だが、さすがに学校へは持っていけない。
学校への持込が、補聴器が良くて、パソコンがだめというのは、どうにも解せない。補聴器が意味をなさない聡美にとっては、パソコンこそが耳の代わりになるのに。今度、学校側に相談してみないと。
『聡美、迎えに来たよ、田原さんと飯島君』
俺の手話に、ちら、と目を向ける。
『すぐ行く』
手早く紡ぐと、ものすごい勢いで残りを打つ。打ち終わると、マウスのボタンを押して席を立ち、なにやら画面で確認すると、俺に向かって手話を紡いだ。
『この青い線が右まで届いたら、パネルを閉じて』
何のことかと思ったら、画面にゲージが出ていて、少しずつ青い線が左から右へと伸びているのだ。メッセージ欄に「メール送信中」とある。なるほど、今メールをどれだけ送れたかが出ているのだ。
『わかったから、もう行きなさい』
こくん、とうなづいて、鞄を持つと玄関に走った。
ドアから見送る。三人は、聡美を真中にして並んで歩いていた。
うーん、完全なおじゃま虫じゃないか、この並び方じゃ。
とは言え、二人がそうしたいと言うんだからしかたがない。子はかすがい、とよく言うが、あの二人の場合、聡美はまさにかすがいだった。
……つくづく思う。川の字が好きなやつなんだな、聡美は。
そのときわかった。聡美は、あの二人に俺と沙希を重ねて見ているのだと。自分が生まれることで引き裂いてしまった中学時代の俺と沙希を、今、自分の手で繕おうとしていたのだ。これがきっと、あの
聡美の部屋に戻る。メールは送信し終わったらしく、ゲージは左から右まで青くなっていた。送信数三十二通とでている。聡美にはこんなにたくさんの文通仲間がいるのか。驚きもし、嬉しくもなる。
まだ、インターネットにつながってるみたいだが、液晶パネルを閉じれば接続も切れるらしい。便利なものだ。
だが、閉じようとして、うっかりキーボードに触ってしまったらしい。なにやら回転音がして、ぱっと違うウィンドウが開く。まだ、書きかけの文章らしい。そのまま閉じようとしたが、ある単語が目に入ってしまった。
私の恋。
……だめだ、いけない。黙って読むなんて。
そう思ったが、別な考えも浮かぶ。
今、聡美を苦しめているのは、まさにその恋だ。その苦しみが癌の増殖を助けている。俺は医者として、その苦しみを癒す義務がある。聡美の恋の相手がわからなければ、なにもしてやれないではないか。
屁理屈だと思う。都合が良すぎるとも。しかし、俺は逆らえなかった。椅子に座って読み始める。
私の恋
私の願い
私の夢
あの人に、触れて欲しい
誰よりも、一番そばにいたい
いつまでも、一緒にいたい
だけど、私は告げるのが怖い
嫌われたくない
背を向けて欲しくない
だったら、このままのほうがいいのかもしれない
どんなに苦しくても
それだけだった。何の飾り気もない、素のままの表現。
たしかに、聡美は片想いをしているのだ。だが、それ以外のことはわからない。やはり、俺は見守るしかないようだ。
ウィンドウをもとの順番で重なるようになおして、液晶パネルを閉じる。いくつかのランプが点滅してから電源が切れた。俺は立ち上がった。
「霧島先生、もう出ないと遅刻しますよ」
戸口から香川が首を突っ込んで言った。こいつなど、もはや半分同居人といっていい。
「わかった、すぐ行く」
病院までの道を、香川と並んで歩いた。
「香川……実は、聡美のことなんだが……」
「なんですか?」
ためらった。聡美の書いた詩を読んでしまったことを後悔する。だが、女同士の香川の方が、聡美の相談に乗ってやれるはずだ。
「片想いをしているらしくて」
いつもの自作自演モードに入るかと思ったら、香川はクスクス笑い出した。
「……知ってたのか?」
「先生だけですよ、知らなかったの」
やっぱり……俺は飯島少年を笑えないな。
まてよ?
「俺だけって……飯島君も知ってたのか?」
「もちろん」
なんてこった。ほんとに俺だけか。
「北海道の帰りに、飛行機の中でそうじゃないかって言ってましたから」
香川は、結構、恋愛カウンセラーしてたらしい。
「相手が誰か、知らないか?」
「うーん、そればっかりはねー」
こめかみに指を当てて、眉を寄せる。
「誰も教えてもらえないみたい。あたしも、聞いてみたんだけど。だめ」
「よっぽどの相手なんだな」
「あの
ふと、思いついた。
「学校の先生とか」
「ありえる」
そうか。だとしたら、入院中はさぞかしつらかったろうに。……それにしても……。
「妬いてる」
香川は鋭い。
「娘を嫁に取られる、父親の顔」
「よせよ」
図星だった。目の前にその男がいたら、首をしめてやりたいところだ。ただ、聡美を取られる悔しさよりも、さっさと気づけという苛立ちの方が大きい。
なんとも、ままならないものだ。
「聡美の……相談に乗ってやってくれないか?」
ためらいがちにそう言って……後悔した。
「はい、もちろん!」
お約束の、乙女チック自作自演モード。
聡美の学校に行くのは、もうこれで何度目だろうか。ただ、今回は呼び出されたのではない。こちらから相談があって出向いたのだ。
「わざわざすみません」
俺は頭を下げた。
聡美の担任、釜本先生は、四十代の恰幅のいい男性だ。うーむ、まさかこいつじゃないよな。
応接室に通され、椅子を勧められた。
「いえいえ。で、お話というのは? すぐに来ますが、校医の先生も交えてうかがった方がいいでしょうか?」
校医か。そういえば、新任なのでまだあったことがない。まさか、若い男じゃないよな。
……いつのまにか、俺は聡美の片想いの相手探しをしてしまっていた。
「あの……霧島さん」
「あ、失礼。つい考え込んでしまいまして」
俺は頭を掻いた。大事な話なのに。
「実は……娘も復学したことですし、今後どうやってケアしていくか、一緒に考えたいと思いまして」
「ええ、それは大事なことですね。くれぐれも霧島には無理をさせないように配慮いたします」
釜本先生の言葉は嬉しかったが、言わずにはおれなかった。
「あの、あまり気にかけすぎないでください」
「はぁ?」
怪訝な顔をする。まあ、そうだろうな。
「身体のことは、本人がよく知ってます。なにしろ、これが日常だったもので」
「日常……といいますと?」
「いえ、うちの女房も長いこと癌を患っていましたから」
「ああ、そういえば……」
ノックの音。担任が答えると、五十がらみの白衣を着た女性が入ってきた。穏やかな顔つきで、真知子先生の二十年後といった感じだ。
「こちら、今年から校医になられた松岡先生です。こちらは霧島聡美のお父さん」
担任の紹介で挨拶する。うむ。この人も違ったか。
俺は、聡美のノートパソコンに関していろいろ話した。音声認識で相手の話を聞くことができ、キーボードで手話がわからない相手とも素早く筆談ができる。ぜひ、これを学校へもってくることを認めて欲しい、と。
担任は何度もうなづいていたが、返事は保留になってしまった。俺は補聴器との対比で話したが、理解は得られたものの、独断では決められないという。学校というところは、どこも保守的になりがちだ。職員会議で意思統一をはからないと、改革は難しいのだ。
最後に、職員室の中を案内してもらい、他の先生方に紹介してもらった。聡美の病気やパソコンの問題に関しては、なるべく多くの職員に知っておいてほしかったからだ。
……というのは口実で、やはり実際は聡美の片想いの相手探しだったが。
この学校は、元々は女子校だったという。そのため、若い男性教師は少なく、女性や中高年の男性教師が多かった。……要するに、その意味では不作なのだ。
片っ端から二年生を担当する教師に会ってみたが、可能性がありそうなのは一人だけだった。大石という数学教師。俺が挨拶したとき、こいつは数人の女子生徒に取り巻かれていた。
端正な顔立ちで、新任らしく俺より年下だった。今まで聡美を教えてきた教師は、軒並み俺より年上だったので、初めてのケースだ。
「霧島聡美の父です。娘がいつもお世話になってます」
もう何度目かの挨拶を繰り返す。
「ああ、あの聾唖の子ですね。こちらこそよろしく」
そう言うと、さっさと女子生徒に向き直ってしまった。数学の問題で質問を受けているらしい。やたら砕けた口調で説明している。
……なんか、ずいぶん軽い印象を受けた。こういうのが今は流行なんだろうか。質問に来ている女子生徒は、必ずしも勉強熱心だからというだけではなさそうだった。両目がハート型になってたりするのだから。
こいつのはずがないな。いかに他の女子生徒に人気があろうと、聡美がこんなやつに恋心を抱くはずがない。俺は確信した。なぜか、と聞かれても困るのだが……。
……そう。俺の中に残っている、沙希の記憶が囁くのだ。
沙希は、自分の短い生涯を精一杯生きぬいた。自分のすべてを俺に差し出してくれた。押し付けではなく。あいつの愛し方はそうなのだ。そして、自分が受け取る方は、いつも「これで充分」と満足するのだ。
聡美も、俺と同じ沙希の記憶を心の中に溜め込んで育ってきた。だからきっと、同じように生きようとしているに違いない。
職員室を出た。ちょっと、聡美の教室をのぞいてみよう。
廊下をうろうろ歩いていると、田原涼子とばったり会ってしまった。
「あ、霧島先生」
うーむ、なんか犯行現場を見られたような感じで、気まずい。
「いや、困った。迷っちゃってね」
「ひょっとして、教室を探してたんですか?」
「案内してくれる?」
田原はうなづいた。後について歩く。
ぼんやり歩いていると、つい、考えていたことが口をついてでてしまった。
「学校の先生じゃなさそうだなぁ」
「え? なにがですか?」
振り返った田原の耳もとで囁く。
「聡美の片想いの相手」
田原はクスクス笑った。
「気になりますか?」
「なるさ、そりゃ」
連絡通路の上で、田原は窓から下を見下ろした。休み時間なので、何人もの生徒が下を歩いている。
「わたしも、気になってはいました。でも、誰でもいいじゃないですか」
こちらに向き直る。
「聡美ちゃんが好きになるような人なんだもの。絶対、素敵な人に決まってます」
そうあって欲しい。でも……。
「でも……だからといって放っておけないよ。あんなに苦しんでいるんだから」
田原は微笑んだ。
「片想いって、苦しいだけでもないですよ」
そうだった。こいつは片想いのベテランだった。
「聡美ちゃんに見守られながら片想いをしていて、わたしわかったんです。その人のそばにいるだけで幸せになれるし、一緒に何かやれると、それだけでもう充分って感じになれるって」
……充分主義。
そうか、そうなんだ。
俺は、聡美をもっと信じていい。聡美がろくでもない男を好きになるはずがないのだから。それに、聡美には田原みたいなしっかりした友達がついている。聡美自身も、友達にこれだけの影響を与えられるものを内に持っているのだ。たとえ相手がわかっても、俺の出る幕はない。
俺は、田原に向かって言った。
「ありがとう、田原」
「え、教室見ていかないんですか?」
俺は、ふり返ると笑って言った。
「もう、充分見たさ」
微笑む田原を残して、俺は学校を後にした。
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