第44話 回帰

 自殺未遂から後、聡美の病状は悪化したままだった。


 微熱が下がらず、体力は徐々に落ちる一方だった。俺は病院を欠勤して看病し続けたが、自宅での対応は限界で、再入院するしかなかった。だから、聡美の一時退院は、たったの三日で終ってしまった。


 入院後も、病状は一進一退だった。そのことは、もちろん俺を悩ませた。しかし、それ以上に俺を苦しめたのは、聡美と俺の間にできてしまった溝だった。

 聡美は、あのテープの残りを読んでも、まだこだわりがあるようなのだ。俺たちに血縁がないということに。本当の父娘でないということに。

 あれ以来、俺に触れられると、聡美は見を硬くして震えだすのだ。なのに、俺が姿を見せないと、不安でたまらない様子だった。もう、どうしていいかわからなかった。

 心配した飯島少年と田原涼子は、毎日見舞いにきてくれた。香川もいろいろの気遣ってくれた。しかし、それだけでは不十分だった。何かが足りないのだ。


 やがて、聡美の左大腿骨に小さな腫瘍が発見された。癌は待ってくれない。聡美の心が、また悲鳴を上げているのだ。腫瘍は次々に見つかった。沙希の場合と同じように、体中が癌に冒され始めたのだ。

 あらゆる手を尽くし、危険なサイズになった腫瘍を片っ端からつぶしていく。それは終わりのない闘いだった。

 俺には、聡美の心の痛みを癒してやる力がない。だから、癌の増殖を許している原因を取り除けない。対症療法に過ぎないのだ。


 骨にできた癌は、放射線による治療が可能だった。最近になって導入された、ガンマナイフという放射線機器が、非常に役に立った。これを使えば、〇.一ミリ単位で腫瘍に照射できるのだ。左肘関節の場合のように変形してしまっていては無理だが、それ以外の場所なら癌に冒された部分だけを狙い撃ちできる。

 しかし、骨に対しては骨折をしやすくなるという副作用もあった。また、同じ場所に何度も照射できないという制約がある。一度の治療で腫瘍が消滅せず、再度増殖が始まった場合には無力だった。それらが周囲の組織を圧迫すると危険だった。

 その場合は、マイクロサージェリーと呼ばれる内視鏡を使った外科手術が有効だった。胃カメラのように口から、あるいは身体に開けた小さな切り口から細い管を入れ、管の中を通したファイバースコープで患部を探し、先端の微細なマジックハンドで腫瘍を切り取るのだ。

 通常の手術よりも負担は軽いが、所詮は程度の問題だ。聡美の身体は、いまやいくつものの細かい手術痕だらけだった。

 そうした痛みも、聡美を苦しめている。だが、俺にはどうしようもない。


 二月のある夕方、俺が非番で聡美の病室にいたときのことだった。

 聡美は、最近パソコンに夢中だった。程度にもよるが、なにかに熱中できるというのはいいことだ。少なくともその間は、心の悲鳴が収まるからだ。

 しばらく前に、飯島少年がキーボードの練習ソフトを買って来てくれた。聡美はこれでずいぶん練習したようだ。今ではキーボードの上にプリントされた文字を見なくても、どんどん文字が打てるようになっている。

 俺は、聡美のベッドの近くに腰を下ろして、聡美の指の動きを眺めていた。速い。それに、文字が画面に出ていくところを見ると、ほとんど打ち間違いもないようだった。しかし、一体なにを打っているのだろう? 液晶画面は、正面から見ないと文字がよく見えない。

 俺は聡美の肩に軽く触れた。ぴくっ、と緊張が聡美の身体に走る。この程度でも気にしてしまうらしい。それでも聡美は俺の方を向いてくれたので、俺は手話で質問した。

『なにを打ってるの?』

『日記』

『どんなことを書いているの?』

 聡美はちょっとためらった。

『いろんなこと。考えたことや、思ったこと』

 だとしたら、相当な量だ。俺が小一時間ほど見ている間に、聡美は何十行も書いていた。

 この一週間ほど、学校の勉強をするとき以外は、ほとんどキーボードを叩いている。そろそろ、文庫本一冊ぐらいの分量になりそうだ。指を痛めないか、目を悪くしないか、そのほうが心配だったが。

『本でも出すのか?』

 冗談で言ってみた。聡美は寂しげに微笑んだ。

『人に見せるために書いているんじゃないから……』

 そう紡ぐと、再びキーボードを叩き始める。軽いカタカタという音が、静かな病室に響く。


「こんにちは」

 田原涼子だった。見ると、飯島少年も一緒だった。そう言えばこの二人、去年のクリスマス以来、一緒に来て帰ることが多いように思える。少しは、仲が進展したのだろうか。……いや、飯島少年の目を見ればわかる。聡美を見つめる眼差しは、まったく以前と変わらない。

 俺は、もう一度聡美の肩に軽く触れた。今度は緊張しなかったのでほっとする。こちらを向いた聡美に、入り口の方を指し示す。ぱっと顔が明るくなる。

『いらっしゃい、二人とも』

 そう紡ぐと、聡美は歩み寄ってきた田原を両手で抱きしめた。ギプスが取れたので、もうしっかりと抱きしめられる。

『また書いてる、日記』

 田原の手話に、聡美は恥ずかしそうに微笑んだ。パタン、とパネルを閉じる。

『霧島、今日の分のノート』

 少年がノートの束をテーブルの上に置いた。聡美はお礼の手話を紡いだ。

『今日はどんな一日だった?』

 聡美の質問に、二人は交互に手話で話しだした。

「じゃ、ごゆっくり」

 俺は、三人に手を振ると病室を後にした。


 談話室まで行き、自販機でコーヒーを買う。ソファで飲みながら、ぼんやりと窓の外を見る。まだ今年は初雪が降らない。もう暗くなった外に、細かい氷雨が振っていた。

 その窓ガラスに、廊下を通りがかった飯島少年が映った。振り返って呼び止める。

「おや、もう帰るのかい?」

「あ……いえ、トイレです」

 うーむ。俺もコーヒーを飲みすぎたらしい。

「よし、連れションだ」

 用を足しながらふと思う。……いや、別に自分の物を目の前にしていたせいじゃないと思うのだが。手を洗いながら、少年に言う。

「ちょっと話さないか?」

 少年はうなずいた。

 自販機で飲み物を勧めると、少年は応じてくれた。珍しい。

 二人で腰掛け、コーヒーをすする。

「きみは、辛抱強いなぁ」

「はぁ?」

 怪訝な顔をする。

「つまり……あのキス事件以来、聡美にはほんとに指一本触れないからさ」

 思春期の男子にとってどれほど欲求が強いものかは、俺は身にしみて知っている。なのに、彼は当時の俺以上にうまく自制している。ひょっとすると、俺よりよっぽど人格者なのかもしれない。

 少年は赤面した。

「いえ……その、あの時は、ほんとに反省しましたし……」

「反省したし?」

「その……おれ、もう玉砕してるから」

 北海道のことか。

「だから、霧島のことは……どっちかっていうと、恋とか言うより憧れに近いのかな」

「憧れ……ねぇ」

 なんだか、虚しくないか、それ。

「恋人にしたいとか、そういうんじゃなくて……そばにいて、何かしてやりたいんだけど、別に何も求めないというか」

 感心した。

「君は、ほんとに人格者なんだなぁ」

 コーヒーをすする。

「俺は、沙希とはそんな付き合い方はできなかったよ。いつだって、心のどこかでは沙希を抱きたいと思ってたんだから」

 俺も、正直な点だけは誉められるかな?

「沙希が健康でも病気でも、その辺の気持ちは変わらなかったな」

 ちょっと刺激が強すぎたか。少年は真っ赤になってる。

「そっちの方は、違うんです」

 少年はぽつりと言った。俺は尋ねた。

「なにが違うって?」

 少年は、ますます赤くなり、うつむいた。

「……最近、なんか田原と目があっちゃって」

 おや?

「霧島の見舞いに来ると、なんか視線を感じるんで、振り向くと田原がこっちを見てるんです」

 おやおや?

「目が合うと、田原は真っ赤になってうつむくんです。そうすると、なぜだかおれもドキドキしちゃって」

 おやー?

 これは、なんか脈があるぞ。よし、聞いてみよう。

「田原が好きか?」

 俺は単刀直入すぎるな。少年は、かわいそうなくらいにドギマギしている。やっとのことでうなづいた。

「どのへんが?」

「えっと、その……文化祭の時、ですね。あいつが、霧島の指揮の役を自分からやるって言ったとき、すごいな、って思ったんです。霧島のために、自分を犠牲にしちゃうなんて」

「へえ。なんだ、ちゃんと見てたんじゃないか」

 俺は感心した。しかし、その割には鈍いな。

「それから……霧島が癌だって知って、あいつがショック受けたとき。霧島先生が言ったみたいに、田原も女の子なんだ、いたわってやらなきゃ、って感じたんです」

 あれも……役に立ったのか。

「それで……クリスマスパーティーでおそろいのプレゼントをもらったときから、なんか表情とか気になっちまって……」

 ようやく。ようやく実るのか。田原の恋は。

「その気持ち、田原に話したか?」

「そんな……」

 少年はあたふたしだした。

「だっておれ、ずっと霧島のこと好きだったし……そのこと、あいつも知ってるはずだし」

「同じ好きでも、違うんだろ?」

「はい……」

「なら、そう言ってやれ」

「……」

 俺は背中を叩いた。

「男だろ!」

 俺は立ち上がった。

「呼んで来てやる」

 病室へと二、三歩進み、振り返って言う。

「逃げるなよ」

 少年は、真っ赤になってうなづいた。

 聡美の病室で、田原は聡美のベッドに腰をかけ、聡美が膝の上に置いたノートパソコンをのぞき込んでいた。やれやれ、父親には見せられないけど、親友なら構わないのか。聡美は、恥ずかしそうに頬を染めてる。

 俺は、戸口でドアをノックした。田原がこっちに目を向けた。

「飯島君が、君に話があるそうだ。談話室にいる」

「飯島くんが?」

 怪訝な顔で立ち上がる。聡美に手話で簡単に告げると、部屋を出て行った。これでよし。あとはうまくやれよ、少年。

『聡美、なにを見せてた?』

 聡美は、ぽっと赤くなってノートパソコンを閉じた。

 俺はベッドの近くの椅子に腰掛けた。

『ひどいな、俺には見せてくれないのか』

 聡美は、あかんべをした。

「こいつめ!」

 頭をくしゃくしゃと撫でる。だが、聡美は身を硬くしてしまった。

 俺は手を引っ込めた。……だめなのだ。

 沈黙が降りる。

 しばらくして、ドアがノックされた。戸口を見ると、飯島少年と田原涼子が並んで立っていた。顔を赤らめ、手をつないでる。

 聡美を振り返った、さすがに敏感なやつ。顔を輝かせて、両手を胸の前で組んでいる。


 ……やっぱりこのポーズ、香川には似合わないな。聡美ならあってるけど。


 二人は、そのまま一緒にベッドのそばまで歩いてきた。田原の頬には涙の痕があった。喜びの涙だ。

 長かったからなぁ。そう、中学時代の俺が沙希と一緒にいた時間よりも長いのだ。

 今のこの三人に、言葉はいらないらしかった。

 俺の姿も、いらないらしかった。談話室に退散する。


 何杯目かのコーヒーを飲んでいると、二人が通りかかった。

「よう、お二人さん。お帰りかい?」

 声をかけると、二人そろって真っ赤になった。それでも、俺の前にきちんと並んで立つ。田原が深々と礼をする。

「ほんとに、ありがとうございました」

「いいって。俺は何もしてないんだから」

「でも……」

「ほれ、少年。彼女をちゃんと送って行けよ」

 飯島少年は直立不動で答えた。

「はいっ!」

 よろしい。だが一つ。俺は立ち上がって、耳元で囁いた。

「キスは、了解を得てからな」

 少年は、首の根元まで赤くなった。かろうじて答えた。

「……はい」

 田原は怪訝な顔をしていた。そういえば、この娘にも聞きたいことがあった。今度はこっちの耳元で囁く。

「田原、さっき、聡美はなにを見せてたんだ?」

 ちょっとびっくりしたようだ。しばらく迷っている。

「詩です。ポエム」

「へえ……どんな?」

「あれは……恋の詩、ですね」

 ……そうか。聡美の片想い。


 二人をエレベータまで送った。振り返ると、廊下の壁に寄りかかって、香川が立っていた。

「やっと、くっついたのね、あの二人」

 香川も気づいていたか。まあ、当然だけど。

「いいなぁ、ああいうの」

 香川はそう言うと、くるりと背を向けて歩み去った。

 後姿を見ながら、考える。そういえば、こいつもずいぶん長い片想いをしている。なんだって、俺みたいなこぶつきがいいんだろう。ま、こぶの方は飛び切りかわいいけど。

 残念だが、それこそ俺にはなにもしてやれない。


 病室に戻る。

 聡美は、幸せそうだった。柔らかな微笑を浮かべて、膝に乗せたノートパソコンを打っている。これも、恋の詩だろうか。今度は、親友の恋の成就を祝う詩だろうか。


 中学生になって以来、聡美の心を苦しめてきた悩みが、これで一つ解決した。少なからぬ負担が減ったからか、以前よりも体調は良くなったようだった。毎週のように行われていた内視鏡手術や放射線照射が不要になった点が、何よりもの成果だった。

 癌の進行は目に見えて遅くなったが、まだまだ油断ができない。だから、聡美がようやく一時退院できるようになったのは、四月も末になってからだった。

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