第43話 悪夢
飯島少年と田原涼子を送り出し、俺はアパートの中を見回した。
香川が料理や皿の後片付けをやってくれている。聡美はさっそくノートパソコンを電話回線につないで、インターネットに初挑戦だという。今度、あの店員がしつこく勧めていたISDNってやつを、聡美の部屋に引いてやろうか。また出費がかさむが、聡美のためなら惜しくない。
俺は、玄関のそばに置きっぱなしだった鞄を取り上げ、リビングのテーブルに置いた。聡美の病室に残っていた、細々したものを持ってきたのだ。が、空っぽの薬の袋を見て、重大な失敗を犯したことに気づく。
聡美の薬が切れてる。明日から飲む分が無いのだ。しまった、プレゼントに気をとられて、薬の調合を頼むのを忘れてしまった。時計を見る。九時をまわっていた。電話をして、夜間の当直薬剤師に朝までに作ってくれるよう頼むか。
が、リビングの電話機は回線からはずされていた。かわりに、長いケーブルが聡美の部屋まで引かれている。うーむ、今これを抜いたらまずそうだ。パソコンが壊れたりしないだろうか?
しかたがない。これから病院に戻って、頼み込んで調合してもらおう。時間がかかりそうだが、やむをえない。
俺は香川に、病院に戻ることと、帰りが遅くなることを告げた。
「ツリーの片付けや部屋の掃除は俺がやるから、台所が終ったら帰っていいよ」
「ええ、じゃあそうするわ」
後は聡美だ。部屋のボタンを押す。すぐにドアが開いた。
『お父さん、病院に忘れ物。遅くなるから、先に寝てなさい』
こくんとうなずく。ちら、と部屋の中に目をやる。視線を追ってみると、机の上のノートパソコンに、カラフルな画面が映っていた。なにやら、アニメーションもしている。
『つながったの?』
にっこり。手話でいろいろ説明してくれた。人気テレビドラマのサイトを見つけたらしい。今までうまく画面から読み取れなかったセリフなどが載っているのだと言う。
『よかったじゃないか!』
そうか、パソコンにはこんな使い道もあったのか。感動してしまう。今までできなかったことが、これでどんどんできそうな気がした。
聡美は、うなづくと俺に抱きついてきた。
嬉しいのだ。どんどん、世界が広がっていくことが。この世界では、耳が聞こえないことなんて気にしなくてすむ。聡美にも、いくらでもできることがあるのだ。
できれば、一晩中でも二人で話していたかった。聡美は、いろいろ将来の夢があるようだった。そうだ、癌なんかに負けてられないのだ。生きようという気力が充実すれば、免疫力は強くなっていく。腫瘍なんかイチコロだ。
俺も聡美も、希望に溢れていた。だから、病院に向かうときも足取りは軽かった。
病院の裏手の通用口から入り、薬剤部へ向かう。深夜に病態が悪化した患者のために、薬品の調合を行う薬剤師が詰めているのだ。眠そうな顔をした中年の薬剤師に、何度も頭を下げて薬を調合してもらう。聡美のためなら、何度でも下げられる。
調合は、思いのほか時間がかかってしまった。時計を見ると午前零時を回っている。聡美はもう寝てしまったろう。おやすみの挨拶ができなかったが、寝顔を見るので我慢だ。ようやく出来上がった薬を手に、俺は家路を急いだ。
アパートの鍵を開けて入る。靴がないので、香川はとうに帰っているようだ。
水音がするところを見ると、聡美は風呂に入っているのか。あれほどいったのに、インターネットをやっていて夜更かしをしたな。仕方がないやつ。
靴を脱いで上がるとき、書斎のドアが開いていることに気がつく。誰が開けたんだろう? とりあえず、閉めておく。向かいは浴室の磨りガラスだ。明かりがついているから、やはり聡美が入っているのだ。脱衣所の扉を閉めなかったのか。しかたがないやつ。誰か来たらどうするんだ?
そう思って閉めにいったとき、磨りガラスの向こう側のタイルの上で、赤いものが揺れているのに気がつく。なんだ、これは……。
戦慄が走った。まさか、そんな。
俺はガラス戸を開けた。
シャワーの下に聡美がいた。
血まみれで。
それから後、しばらくのことは記憶がない。我に返ったのは、聡美の左手首を縫合し終えた後だった。もう一度消毒薬を塗り、包帯を巻く。身体が覚えている手馴れた作業が、俺の心を落ち着かせてくれた。見かけより出血は少なかったし、傷口からの感染症も心配ないだろう。ギプスが邪魔で、あまり深く切れなかったらしい。それに、どうやら手首を切った直後に発見できたようだ。
だが……。
俺は頭を掻きむしった。
わからない。なぜなんだ。あんなに幸せそうだった聡美が、なぜ自殺なんかはかる? この、たった二、三時間の間に、一体何が起こった?
リビングのソファの上に寝ている聡美。びしょ濡れの服は脱がせて、今はバスタオル一枚だが、暖房が効いてるから大丈夫だろう。この傷も、きちんと縫合したから、そのうちほとんど見えなくなる。
……だが、心の傷は、縫ってやることができない。
ダッシュボードの上の、沙希の写真を見上げる。
沙希。俺は、一体何を見落としているんだろう。俺たちの育て方に、何か忘れているものがあるのでは……。
そのとき、書斎のドアが開いていたことを思い出した。聡美は、書斎から何かを持ち出したのでは? しかし、聡美を傷つけるようなものは、何も無いはずだ……。
めまいがした。
一つだけある。絶対に、絶対に聡美にだけは知られてならない秘密が。
俺は書斎に飛び込んだ。机の上の、テープを置いてあった場所を見る。無い。そばにあった、小型のラジカセも。
「聡へ」とだけ記された、沙希が遺言のつもりで残したテープ。聡美の出生の秘密を記録したもの。だが、聡美は聞くことができない。だから、ここに置いたままだった。聞けるはずが無い。聞けるはずが……。
俺は飛び上がった。
なぜ気がつかなかった? なぜ考えなかった? ああ、この手で自分の首を閉めて、殺してやりたい!
脚が震える。自分の愚かさに、絶望しそうになる。聡美は、あのテープの中身を知りたがっていた。俺が、沙希からのラブレターだと言っていたからだ。震えながら、よろめきながら、聡美の部屋へと入っていく。
ノートパソコンは、聡美の机の上に乗っていた。その隣にはラジカセ。オーディオコードが両者を結んでいる。そうだ、こうした使い方もあったのだ。気がつくべきだったのだ。
マウスに触れると、暗くなっていた画面が明るくなる。いまはもう、そらで覚えている文句が、活字になってそこに並んでいた。
画面の文章は、沙希が自殺に失敗し、祖母に電話したところで終っていた。くそ、なんでここで?
ドン、と机を叩く。その拍子に、マウスのボタンを思わず押してしまったらしい。ピン、という音と共に、画面にメッセージが出てきた。
「テキストバッファの空き容量がありません。新規文書に格納しますか?」
意味が良くわからなかったが、「はい」のボタンを押してみる。画面に新しいウィンドウが開き、続きの文章が表示され始めた。
祖母に引き取られた後、「何も残さないで死にたくない」と泣き叫び、聡美を産み落としたこと。聡美の存在が心の支えとなって、今日まで生きてこれた、という告白。
聡美がここまで読んでくれれば。
そうすれば、自殺なんか謀らなかったはずだ。これを読めば、聡美は生きる気力を取り戻してくれるかもしれない。
パンドラの箱は開いてしまった。後は、箱の中に残っていた、この希望だけが頼りだった。
翌朝。聡美は自室のベッドで意識を取り戻した。
『聡美……』
こっちを見ようとしない。無理やり向かせる。
『田原に言ったんだろ? 自殺なんかしたら、天国にいけないって』
目をそらす。こっちを見ろ、聡美!
『おまえが自殺なんかしたら、お父さんはおまえを幸せな気持ちで思い出せなくなる』
目をそらしたまま、聡美は手話を紡いだ。痛むのか、左手の動きがぎこちない。
『天国なんか行きたくない。地獄でいい』
「何を言うんだ!」
あまりのことに、声で叫んでしまった。
涙を流しながら、聡美は投げやりな調子で紡ぐ。
『お父さん、わたしのことなんて忘れていいから。わたしは、生まれてこないほうが良かったの』
俺は聡美の頬をはたいた。
聡美はびっくりして俺を見つめる。以前一度だけ、怒りに任せて殴ってしまったことがあった。今は違う。殴ってでも、気持ちを変えさせなければならなかった。
俺は聡美にノートパソコンを渡した。
『よく読むんだ』
そう言うと、俺は椅子に座って様子を見た。
聡美はノートパソコンのパネルを開いて、そこに表示された沙希のテープの続きを読み始めた。見る見るうちに瞳が潤み出す。泣きながら聡美は読み進む。読み終わっても、涙は止まらなかった。顔を覆って、いつまでも泣いている。
顔を上に向かせる。ゆっくりと、手話を紡いで言い聞かせる。
『お母さんが、どんな気持ちでおまえを産んだか、わかったか?』
聡美はうなづいた。
(産ませてください。わたしは長く生きられないから、この子だけでも助けてください。何も残さないで死ぬのは嫌です!)
沙希は、そう泣き叫んで、聡美を産ませてくれと周囲に頼んだのだ。
『おまえが死んだら、お母さんも、お父さんも悲しむんだぞ』
再び、涙がこぼれ始めた。
『お父さんは、おまえのお父さんなんだからな。血がつながってなくても、おまえのお父さんなんだ!』
聡美は泣いた。泣きつづけた。泣きながら、手話を紡ぐ。
『わたし、お母さんはわたしのことを愛してなかったんじゃないかって……そう思ったの』
手で涙を拭う。拭っても拭っても、涙は止まらない。
『わたしが、産まれなかったら、お母さんがわたしを身ごもらなかったら、お父さんとずっと一緒に暮らせたのにって……』
……事実そうかもしれない。俺と沙希は、あのまま交際を続けることができただろう。しかし、それで良かったのだろうか。
いずれ、沙希は死を迎えたはず。俺は、聡美なしで、沙希の死に耐えらえただろうか。
聡美の両肩をつかんで、無理やりこちらに向かせた。ノートパソコンが、聡美の膝からベッドの上にずり落ちる。はっきりと手話で告げる。
『お母さんが死んだとき、聡美がいなかったら、お父さんは悲しくて気が狂っていた』
聡美は、俺の顔を見つめる。何かを読み取ろうとしているかのように。
いいとも。読み取っておくれ。言葉にしようのない、この気持ちを。俺には必要なんだ。聡美が誰よりも必要なんだ。
『もし神様が、聡美が死ねば、代わりにお母さんを生き返らせてくれると言っても、お父さんは聡美に生きていて欲しい』
聡美は理解した。そのはずだ。泣きながら、抱きついてきた。俺はその身体を抱きしめてやった。そのまま、やさしく聡美の髪を撫でる。
だがそのとき、聡美は急に身体を硬くした。そして、俺の肩に顔をうずめたまま、ただずっと震えていた。
聡美は理解してくれた。だが、なにかが変わってしまっていた。
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