第42話 聖夜、再び
不思議なものだ。聡美とはもう、沙希と実際に生きたよりも長い年月を過ごしている。
晩秋の古本街で聡美と会ったのが三年前。沙希と過ごした期間は、中学時代と再会してからをあわせても二年足らず。
沙希は、依然として俺の中では大きな存在だ。目をつぶれば、沙希と過ごした日々の思い出は、いくらでも鮮明に思い出せた。
それに、俺は何かというと、心の中で沙希に呼びかけてしまう。これでいいんだろうか、沙希。困ったな、沙希。という具合に。
しかし、実生活での俺の関心は、もはやすべてが聡美のためと言っていい。俺はもう、沙希のためには何もしてやれないが、聡美のためにだったら何でもするだろう。やはり、愛情は今生きている人間にしか注げない。沙希の存在が小さくなることはありえないが、聡美はどんどん大きく育っていくのだ。
だからそのときも、街を歩きながら考えていたのは、聡美へのクリスマスプレゼントだった。電気店の前を通りがかったとき、若い女子店員に新製品ソフトのパンフレットを渡されたのだ。何気なく読んだその文句。
「パソコンがあなたの耳になります? ……あっ!」
音声認識。そうか、もうそんなことが可能なのか。
パソコンのマイクに向かって話せば、それが文章になって画面に出るというのだ。俺は、興奮してその女子店員に話し掛けた。
「あの、これ、誰の声でも認識できるんですか?」
きっと上ずった声だったのだろう。店員はびっくりした顔で答えた。
「は、はい、あのう、認識率に差は出ますけど……」
「つまり、まったくだめじゃないわけですね? ある程度は認識できると」
「ええ、はっきり発音すれば九割以上行きますが、普通に話しても八割くらいなら……」
充分だ。充分すぎる。俺は、このときは充分主義者に徹することができた。
「えーと、つまり、娘が、
すると、店員はにっこり笑った。
「ああ、それでしたら。本来は原稿の入力みたいなのが用途なんで、編集が必要ですけど、人がその場で読む程度なら、誤認識があってもなんとかなりますから」
俺はもう、有頂天になっていた。
さっそく、店の中でこのソフトのデモをやっている場所に行き、実際にあれこれ入力してみた。なるほど、ときどき文章が変になるが、充分意味は取れる。
俺は、思わず通りがかった客にお願いしてしまった。
「あの、すいません、このマイクに向かって何か喋ってもらえませんか?」
怪訝な顔をする人もいたが、面白がっていろいろ喋ってくれる人もかなりいた。なんだか、俺はまるで、そのソフトのデモ担当者みたいな感じだ。小一時間ほど試してみたところ、ほとんどの人の言葉は、充分意味が取れる程度に認識してくれた。驚いたことに、同音異義語も、前後の文脈を手がかりに、最適なものを選んでくれるのだ。
「充分、充分。充分使えるぞ!」
俺はもう、完全に充分主義者となっていた。
俺は、そのソフトを即決で買った。そして、その足でパソコン本体の売り場に向かった。店員に、このソフトが動かせる、一番持ち運びに便利なパソコンを選んでもらう。店員はソフトの箱の説明書きを見て、メモリがどうの、CPUがどうのとつぶやきながら、驚くほど小さなノートパソコンを選んでくれた。これなら、聡美の細い腕でも、片手で持てる。ギプスが取れるまでは、片手しかつかえないのだから。
これもまた、即決で購入する。店員は、さらにあれこれと周辺機器を勧めた。インターネットとかウェブとか言われてもぴんと来なかったが、電子メールとかチャットいうのは面白そうだ。さらに説明を聞いてみる。
「つまり、声ではなく、文字で世界中の人と会話ができるんですね?」
「ええ、それがチャットです。電子メールはパソコンで読み書きする郵便です。チャットと違って、瞬時に相手に届く文通ですね」
すごい。そうか。これがあれば、聡美は入院中でも友達と話せるのだ。しかも、聾唖であっても全然ハンデにならない!
俺は興奮して震えが止まらなかった。店員の肩を掴んで、思いっきり揺さぶってしまった。
「ありがとう、ありがとう、最高のプレゼントになる!」
さぞかし変な客だったろう。俺は、両手一杯に紙袋を下げ、天にも登るような軽い足取りで家路を急いだ。……俺の懐も、それ以上に軽くなったが。
沙希、これで聡美には友達が沢山できるぞ。何人でも。世界中にだ!
手術から一週間後、聡美は一時退院が認められた。ちょうど、クリスマスイブが退院祝いの日となった。
そこで、みんなでアパートに集まり、パーティーを行うことになった。
俺と聡美、香川淳子、飯島少年に田原涼子。聡美と特に親しい人たちだけを招いた、こぢんまりとしたパーティーだったが、それだけに聡美は心行くまで楽しんでくれた。香川は腕を振るってご馳走を作ってくれたし、少年と田原も準備のためにあれこれ協力してくれた。だから、俺が聡美をタクシーでアパートに連れてきたとき、すっかり用意が整っていた。
「メリークリスマス」
ぱんぱんぱん、とクラッカーが鳴る。音は聞こえなくても、飛び散る紙ふぶきと降りかかる紙テープに、聡美はびっくりしたようだ。そして、満面の笑顔。
だが、その左腕は白いギプスで覆われている。手術痕に負担がかからないように、肘は四十五度ほど曲げられた形で固められている。そこだけが痛々しかった。
『聡美ちゃん、退院おめでとう』
そう言って田原が抱きつく。その二人を香川が抱きしめる。
「ほら、何やってんの、あんたも」
香川に手を引っ張られた飯島少年、真っ赤になって足をふんばる。
「い、いや、おれはいいんです、勘弁して」
俺はくすくす笑っていた。聡美も笑っていた。
料理もすばらしかった。少年と田原が飾り付けてくれたクリスマスツリーも見事だった。
だが、それ以上に、二人が奏でてくれた、クリスマスソングの手話合唱が、なんとも言えず素敵だった。もう奏でられない聡美だったが、ぜひ見せてくれとせがんだのだ。
聡美は、二人のデュエットを見つめて、夢見るようにうっとりとしていた。理想なのだ。この二人が恋人同士になってくれることを、心から望んでいる。
俺も、心から祈らずにいられない。この少年が、傍らに立つ少女の切なる思いに、気づいてくれますようにと。
俺と聡美と香川、三人の拍手喝采を浴びて、二人は真っ赤になって照れていた。それでも幸せそうだった。特に、田原涼子の表情といったらなかった。
『涼子ちゃん、かわいい』
聡美がこっそり手話をよこした。不自由な左手をかばいながら。俺はうなづいた。もとからかわいい感じの娘だったが、今日の彼女は特別だった。喜びに満ち溢れ、いっそう輝いている。
おい、少年。聡美がとびきり素敵なのはしかたないけど、おまえの横でおまえのために頬を染めてる、その娘のことを早く見てやれ!
……さすがに口でも手話でもいえないが、心の中で強く念じた。届かないのはわかっているのだが。
そして、いよいよプレゼント交換の時間になった。
はじめに、飯島少年から。聡美へは髪留め。栗色の巻き毛に似合っている。高かったろうに。そして、田原には……手話の本が一冊。差がつきすぎじゃないか? とは思ったが、二人とも感激しているからいいか。
次に、田原から。聡美と少年に、おそろいの手編みの手袋だった。有頂天になる少年。だが、聡美は嬉しいながらも、ちょっと困っていた。そりゃそうだな……。
「じゃーん」
そういいつつ、田原はポケットからもう一つ取り出した。これもおそろい。
『三人でおそろいなの。いいでしょ?』
聡美も、これで心から喜べたようだ。……少年は、ちょっと残念そうだが。
最後は聡美だった。入院中で、買い物に行けないので、俺は何度か尋ねたのだが、聡美は自分で用意するからいいと言っていた。何をあげるんだろう?
聡美は二人に小さな紙袋を渡した。
『二人で一緒にあけて』
そう手話で伝える。
二人は顔を見合わせた。一緒に開く。
「わあ……」
「これは……」
レース編みで作られた、しおりだった。二人の名前が、上品な模様の中にローマ字で記されている。RYOKO&SHOTAROと。
田原は、感激しながらも、少年の方が気になる。少年の方は、どちらかといえば戸惑っていた。聡美は、くすっと笑うと、手話を紡いだ。
『こっちは失敗作。小さくなりすぎ』
取り出したのは、三人の名前が載っているもの。確かに、小さすぎてSATOMIのMがつぶれている。
『ごめんね、三人分書けなくて』
『いいんだよ、ありがとう』
少年も納得がいったらしい。にっこり笑う。
聡美、なかなかいい戦略だぞ。俺は感心した。これで多少は、少年も田原に目を向けるかもしれない。さっきから、少年は田原の表情が気になってるみたいだ。
香川は、三人に三色出る高級ボールペンを渡した。単純だけど、悪くないな。
『まだまだ勉強よ。三人で頑張ってね』
素直にうなづく三人。
……さて、いよいよ俺の番だ。
「二人とも、ごめん。俺は、聡美の分しか用意できなかったんだ」
「いいんですよ」
「わたしも、気にしませんから」
にっこり笑って許してくれた。
「ありがとう。でも、このプレゼントは、君らも喜んでくれるはずだよ」
そう言って俺は、布製ケースから小さなノートパソコンを取り出し、聡美に渡した。
「うわ、すげえ」
男の子だけあって、少年は歓声を上げた。だが、女の子二人はぴんと来ないらしい。戸惑っている。
『どう使うの?』
ノートパソコンをテーブルに置き、聡美は手話で聞いてきた。
『開いてごらん』
素直にパネルを開く。かすかなモーター音がして、画面が明るくなる。
「飯島君、ここに向かって喋ってごらん」
マイクの小さな穴を指差す。顔を寄せたが、こちらを向いて聞いてくる。
「えーと、でも、何を喋ったらいいんですか?」
画面に、文字が現れた。
えーと、でも、何をしゃべったら良いんですか?
「あっ!」
田原が口を押さえてびっくりする。聡美は、何が起こったのかわからない様子だ。
「え、これ、ひょっとすると喋ったのが文字になるの?」
少年が喋ると、ほとんどそのとおりに画面に文字が出る。
聡美は、少年の口の動きと画面の関係に、ようやく気がついたらしい。ゆっくりと理解が顔に広がっていく。目が見開かれ、口元がほころび、涙がにじんできた。
聡美は俺に向かって突進してきた。ギプスのせいでぎこちないが、力一杯の抱擁。よかった。こんなに喜んでくれて。
見回すと、みんなが泣いていた。田原は感極まって泣きじゃくっている。少年も頬をぬらしているが、田原がよろけたので、肩を支えてやっていた。いいぞ、その調子。
香川は、泣きながら俺と聡美をしっかり抱きしめた。約束違反だが、まあ、これは許してやろう。聡美のためだから。
『よかったね、聡美ちゃん、よかったね』
涙に声を詰まらせ、手話も手が震えていたが、香川は聡美に祝福の言葉をくれた。聡美は何度もうなづいた。
最高のパーティ。最高のプレゼント。
俺は、聡美にしてやれたことに、心の底から満足していた。
……自分が、何を与えたのかも知らずに。
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