運命

第40話 木枯らし

 俺の人生を奏でるべきレコードは、どこかで針が跳んだに違いない。でなければ、こんなことがくり返し起こるものか。そうに決まっている。


 不意に息苦しさを感じて、俺は部屋を出た。廊下を歩き、エレベータに乗る。屋上へ。

 天気は良かったが、風は冷たかった。……もう十二月だ。木枯らし。当然か。白衣が風に巻き上げられる。身を切るような風が、むしろ心地よい。


 切り裂いてくれ。

 もっと切り裂いてくれ。

 ボロボロになって、俺が血まみれで息絶えるまで。


 しかし、感覚が麻痺したのだろうか。そのうちに切れ味が鈍ってきてしまった。なんだ、張り合いがない。俺は立っているのも馬鹿らしくなり、その場にがっくりと膝をつくと、大の字に寝転がった。そのまま目を閉じる……。


「……先生、霧島先生、こんなところで寝ていると、風邪を引きますよ」

 今度も、見つけたのは香川だった。こいつは、俺を探すレーダーでも持っているんだろうか。

「健康ってのは、不公平だよな」

「え?」

「俺みたいに、風邪一つひかないやつもいれば、親子三代、癌で早死にするやつもいるんだ」

 そう言って目を開くと。


 ショックを受けてる。香川にしては鋭いな。わかったらしい。首を振りながらあとずさる。

「嘘でしょ……何言ってんですか、聡美ちゃんはまだ」

「癌だ」

「嘘……」

 香川は俺のそばまで来て座り込むと、俺を揺さぶりながら妙に抑揚の無い声で言った。

「嘘ですよ、先生、聡美ちゃんが、癌になるわけ、ないじゃないですか」

 俺には何もいう言葉がない。

「聡美ちゃんは……聡美ちゃんは、あんなにいい子なんですよ、あんなにやさしくって……」

「やさしくていい子ほど、癌になるんだ」

「嘘です」

「ほんとだ」

「嘘です!」

 香川は俺の胸を拳で叩いた。痛い。

「嘘です! 嘘です! 嘘! 嘘! 嘘……」

 叩き続ける。ものすごく痛い。


 だが、よける気にもならず、やめろと言う気にもならなかった。そのまま殴られつづける。このまま殴られていれば、血を吐いて死ねるだろうか。沙希のように。それなら悪くない。

 しかし殴り続けた香川は、疲れ果てたのか、俺の胸に突っ伏してしまった。そのまま泣きじゃくる。


 俺の胸は痛んだ。内側からも外側からも、叩きのめされたのだから。今痛んでるのは、やはり内側だろうか。

 俺は、嘘は言っていない。やさしくていい人ほど、癌になりやすいのだ。聡美も、沙希も、人一倍やさしく、純粋な心の持ち主だ。おそらくは沙希の母もそうだったに違いない。


(私は耳が聞こえないけど、苦しんでる子の声は聞こえる。君たちには聞こえないの?)


 聡美は、そう黒板に書いたという。

 聡美には、いじめられたり、片想いに苦しんでいる友達の、痛む心の声が聞こえる。そして、当人達に負けないくらいに、心が痛む。言葉にならない、表情や体の動きを読めるだけに。

 その痛みが積もり積もって、ついには身体が悲鳴をあげる。それが癌なのだ。

 人によって、悲鳴を上げる場所は異なる。耐えられる限界も差がある。浜田氏の場合は、心が先に悲鳴を上げてしまった例だ。身体の場合は、いろいろな病気となって出る。これを心身症というが、そのうちの最悪の場合が、癌だ。


 聡美は、中学に入ってから免疫系の働きが落ちてきた。それは、心が成長して、そうした他人の痛みがわかるようになり、蓄積された結果だったのだろう。また、田原の言うことが正しければ、聡美自身も苦しい片想いをしているのだ。

 他人の痛みに自分の痛み。


 癌細胞は、実は誰の体の中にも生まれてくる。しかし、通常それらは異物として免疫システムが攻撃するため、増殖して腫瘍になることはない。だが、何らかの理由で免疫系が機能不全になると、増殖が始まるのだ。

 今ならわかる。同じことが、沙希の場合にも起こっていたのだ。沙希は、俺の気持ちにこたえることができないと言って悩んでいた。思えば、あの奥多摩の日から、幸せの絶頂だったあの日から、ゆっくりと癌は増殖を始めていたのだ。

 俺が沙希のために尽くせば尽くすほど、あいつの癌は悪化していった。俺自身が、沙希の病気の原因だったのだ……。


 皮肉と言うしかない。沙希があの後十年間も生き延びたのは、俺から離れたためであり、惜しみなく愛情を注げる聡美がいたからなのだ。

 沙希の母親も、結婚のために自分の母親を裏切ったことを悔やんでいたに違いない。よき夫とかわいい娘に囲まれて、幸せになればなるほど、罪悪感も募っていったのだろう。その積み重ねが癌となったのだ。


 皮肉なものだ。なんて皮肉なんだ。


 憎まれっ子世にはばかる。それこそがこの世の真理だなんて。

 俺は、泣きじゃくる香川を慰める言葉が見つからなかった。自分を慰める言葉を、誰かに教えて欲しいくらいなのに……。


 とはいえ、嘆いているだけでは、医者は務まらない。俺はもう、沙希の手を握ることしかできなかった中学生じゃない。俺は、癌と闘うために今日まで必死に学んできたのだ。なら、学んだことを活かさない手はないだろう。

 職業的スマイルを貼り付けた香川が、俺の診察室へ現像からあがったレントゲン写真を取って来てくれた。

「ありがとう、香川」

「おやすい御用です」

 そう言って、すぐにまた患者のところへ行こうとする。俺は、見ていられなかった。

「香川」

「はい?」

「そっちのベッド、空いている。少し、泣いて行っていいぞ」

 こいつとも長い付き合いになる。だから、今の笑顔を皮一枚めくれば、いまだに涙を流しつづけているのがわかる。看護していた患者が死んだりすると、しばらくこうなるのだ。

「……なんのことです?」

 声が震えだすのが、何よりの証拠だ。

「無理をするな、香川」

「無理なんか、……してません!」

「そんな顔で、聡美の前に出ないでくれ。あの娘は表情に敏感なんだ」

 笑顔がひび割れ、剥がれ落ちた。涙がとめどなく溢れる。

「せっかく、抑えてたのに……もう!」

 部屋の隅のベッドに走り、カーテンを引く。くもぐった泣き声。枕に顔をうずめて泣き始めたようだ。


 ……香川はあれでいい。次は聡美だ。


 俺は、香川が持ってきてくれたレントゲン写真をパネルに貼り付けた。……思ったとおりだった。

 あれは、文化祭の直前の夜。聡美が左肘の痛みを訴えたことがあった。俺は、てっきり手話合唱の練習で疲れた痛みだと思い込んでいた。しかし、違ったのだ。あの時、既に腫瘍が育ち始めていたのだ。

 指先が肘の骨の白い影をなぞる。やはりここだ。明らかに増殖を始めている。

 聡美は我慢強い娘だ。小六の春、喧嘩で傷だらけになっても泣かなかったように、少々の痛みは黙っていたに違いない。そのまま、文化祭でも手話合唱を行ったのだ。

 文化祭が終って数日後、ようやく聡美は左肘の痛みを訴えた。その時点で俺は骨肉腫だと確信し、緊急入院となったのだ。


 それに……これが沙希の癌と同種のものなら、極めて転移が起こりやすい。ようやく発見できるほどの小さな腫瘍でも、癌細胞を全身に撒き散らしている可能性が高いのだ。ましてやこれは、関節部分の骨が変形するほど大きくなってしまっている。

 俺は仇敵の姿を睨みつけた。


「……見つかったんですか?」

 俺の背後で、落ち着いた声で香川が言った。

「もう、いいのか?」

「だいたい」

 振り返ると、泣きはらした顔の香川がいた。ちゃんと泣いたな。いいだろう。

 俺は写真に向き直った。

「左肘、骨肉腫ですか」

「ああ」

 治療は何種類かある。古典的には、手術で抉り取ること。この場合、その先の腕ごと切断することになる。

「左腕を失ったら……」

「手話はやりにくくなるな」

 それどころではない。手話の合唱は、二度とできなくなる。

 沙希が肺癌で歌うことを奪われたように、聡美は骨肉腫で手話を奪われるのだろうか……。

「だが、患部だけを抉り出し、人工骨を埋め込む治療法もある」

「……でも、聡美ちゃんの骨はまだまだ成長しますよ」

 そうだ。人工骨を調整するために、年に何度も手術が必要になる。ひどく不自由な生活を強いられる上に、そのたびに学校も休まねばならない。そうなれば、せっかく増えつつある友人を失うことにもつながりかねない。

 だが、命を失うよりはましだろう。俺も、聡美まで失ったら生きていけない。


 問題は、聡美にどう説明するかだった。あのあと、まだ聡美の病室へは行っていない。行けば、必ず聡美は知ってしまう。

 ……それでいいのだろう。沙希も、自分の病名を感づいていた。それでも、あいつは絶望したりはしなかった。


 今の聡美は……あの時のおまえより強いだろうか、沙希。

 俺は、あのときの俺よりもうまく、聡美を支えてやれるだろうか。

 沙希。おまえが命がけで教えてくれたものは、俺たちの中にちゃんと根付いているだろうか。

 ……試してみるしかないよな。


 俺は、聡美の病室に向かった。またもやしばらくは病室が我が家になる。

 俺が入ると、そこには先客がいた。飯島少年と田原涼子だ。

「あ、霧島先生、こんにちは」

 二人とも立ち上がって挨拶するが、偶然にも異口同音になってしまった。よっぽど恥ずかしかったのか、それで二人とも赤面してしまった。思わず微笑んでしまう。

「?」

 聡美には背を向けていたので、わからなかったらしい。俺は事情を手話で伝えた。聡美もおかしかったらしく、クスクス笑う。


『ごめんよ、今日は忙しくてね』

 聡美に手話を送る。聡美はにっこりと笑った。二人の方にも話し掛ける。

「ゆっくりしてってくれよ」

「あ……えーと、わたし、そろそろ帰らないと。暗くなっちゃう」

 田原が言った。やはり、少年と聡美を間近で見るのはつらいのだろう。ならば、引き止めるのも悪いな。

「それじゃ、玄関まで送るよ」

 俺は席を立った。田原はびっくりして言った。

「え、そんな。聡美ちゃんのそばにいてくださいよ、寂しがってるんだから」

「なーに、文化祭の時にお世話になってるから」

 嘘だ。俺は聡美に話すのを遅らせたいだけだった。

 聡美に手話。

『涼子ちゃんを送ってくる。すぐ戻る』

 聡美は、にっこり笑って送り出してくれた。


 何かせずにいられなかったので、田原を談話室に連れて行った。もう、自販機は省略。

「何か、話ですか?」

 心持ち、緊張している。

「うーん、たいしたことじゃないんだけど……」

 そう、たいしたことじゃない。何しろ、何も考えてないんだから。しかし、黙り込んでいると勘の鋭い娘だから先を越されてしまう。うーむ、十二月か……。

「……クリスマス」

「え?」

「あ、いや、もうじきクリスマスだろ?」

「そうでしたね、もう十二月」


 実のところ、俺は沙希が来なかった一件以来、クリスマスパーティーを避けていた。実家にいるときは、いつも理由を作っては外に出ていたものだ。しかし、聡美やこの子達には関係ないことだし。


「パーティー、やろうかと思って」

 口から出るに任せた。

「わあ、いいじゃないですか。聡美ちゃんが喜ぶし」

「ま、プレゼントは適当でいいけど」

「手作りのをあげたいな……」

「彼に?」

 真っ赤になってる。

「……ちがいます、聡美ちゃんに」

「両方にあげればいいじゃないか」

「……変じゃないですか?」

「みんなが他の二人にあげれば、変じゃないぞ」

「……そうか、そうですよね!」

 納得してくれたようだ。

 うん、これで三人が無理なく一緒に過ごせるな。聡美のためにも、全員に幸せになってもらわないと。


 そこへ、飯島少年が通りかかった。

「あれ? 田原、まだいたの」

 田原はそのとたんに赤面する。これだけ露骨で気がつかないってのは、目ン玉を聡美のところに落っことしてきてるんじゃないのか?

「いいところに来た。今、クリスマスパーティーの計画を話してたんだ」

 とりあえず、表面だけでも取り繕っておく。


「え? やるんですか?」

「きみも来るだろ?」

「もちろん!」

 俺は田原と同じことを少年にも話した。三人で話すと、計画はどんどん具体化していく。気がつくと、外はもう真っ暗だった。

「おや、もうこんな時間か。飯島君、田原さんを送ってあげな」

 田原は、慌てて言った。

「あの、あの、大丈夫ですから、一人で」

「だめだめ、君に何かあったら聡美が泣く。ほれ、飯島君」

「はぁ……」

 二人が一緒にエレベータに乗るのを見届けてから、聡美のところへ戻る。

 気が重い。


 聡美は、ベッドに横になっていた。眠ってるように目を閉じている。

 何も知らずに寝ている聡美。まだ、そっとしておいてやりたい。これから、苦しい癌との闘いがはじまる。その前に、せめてひと時でもいい、親友たちとの楽しい時間を過ごさせてやりたかった。

 やさしく髪を撫でてやったその時、聡美はぱっと目を開いた。


 驚き。聡美は、俺が来るのを待ち構えていたのだ。


 そして後悔。心の準備が無いままに、聡美の瞳をのぞき込んでしまったのだ。必死に問い掛けるような瞳。目をそらすことができない。

 見るな。聡美、見るな。まだ、知らないでいてくれ。せめて、今度のパーティーが終るまで……。


 涙。聡美の瞳が潤み出した。……知られてしまった。

 聡美はゆっくりと起き上がった。そしてゆっくりと手話を紡ぐ。

『教えて、お父さん。わたしは、癌なの?』

 体が動かない。

『お母さんと同じ、癌なの?』

 励ましてやりたいのに。両手が動かない。

『お母さんみたいに、死ぬの?』

 抱きしめてやりたいのに。なぜ動かない?

『わたし、死にたくない。死ぬのが怖い。お父さんのそばに、ずっといたい』

 聡美は死の恐怖におののいている。暗黒と孤独の中に落ち込むことに。自分が消えてなくなってしまうことに。なのに、俺にはかける言葉がない。


 聡美は、目を伏せるとそのまま手話を紡いだ。つぶやいているのだ。

『今朝から何度か、淳子ちゃんが来たけど、様子が変だった。お父さん、夕方までずっと来なかった。やっぱり変。今度の入院も、理由を教えてくれない……みんな変』

 俺の方を向いた。涙が一杯の目で俺の目を見つめて、手話を紡ぐ。

『変なのは、いや』

「聡美……」

 俺は観念した。

 聡美を抱きしめる。慰めるためではない。俺自身が落ち着くために必要なのだ。俺は、ほんとに情けない父親だ。


 そっと身体を離して、聡美へ手話を紡ぐ。

『おまえは死なない。お父さんがついている』

 聡美は、俺の目をじっと見据えた。涙が震えてる。

『おまえの癌は、お父さんが治す』

 涙がこぼれた。こくん、とうなづくと、両手を俺に伸ばしてきた。

 再び抱きしめる。今度は、慰め、励ますために。聡美と、俺自身を。

 病院の屋上で、木枯らしに吹かれて枯れていた魂が、ようやく潤いを取り戻していった。

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