第37話 北海道
聡美は、眼下を流れる光景に目を見張っていた。
たしか、飛行機に乗るのは生まれて初めてだったはず。
何層にも分かれる雲と、その間から見える大地は、地上にいては絶対に見ることはできない光景だ。
今度は上を見上げる。成層圏の、群青に近い青空。聡美が探しているのが何かわかる。天国。そして、そこにいる母の面影だ。
連れて来てよかった。つくづくそう思う。
聡美には、沙希に見せてやれなかったものを、たくさん見せてやりたかった。今度の北海道行きも、それが目的だといっていい。
元々は、キヨさん……清永先生の暑中見舞いに「いつでも遊びに来い」とあったのがきっかけだ。それが電話をしたら「ぜひ来い」になり、次の日には「絶対来い」との電話が来たのだ。相変わらず、押しが強いったらない。
で、その電話を受けた時にいたのが、香川と飯島少年。香川は最初から行くと決めているし、少年の方はどうやってか親を説得してしまい、旅費をせしめることに成功したのだった。
その二人は、旅客機の反対側の座席に並んで腰掛けている。俺が少年と入れ替わればいいのだが、聡美の視線が怖いし、香川が自分を見失うともっと怖い。許してくれ、少年よ。
聡美は、田原涼子も熱心に誘ったらしい。だが、彼女は今ごろハワイだ。なんでも、引退した大叔父様が向こうにいて、毎年夏に一族が集まるのだそうだ。一族というのがすごいが。
で、これも毎年同じなのだが、この大叔父が「この夏は持たない」とかいって、孫娘や姪を呼び寄せるとか……。
なんか、そんなストーリーがどこかにあったような、無かったような。
千歳空港に降り立つと、到着ゲートで「あの」姿のキヨさんが待ち構えていた。
「な……なんですか、あれ」
香川が上ずった声で言う。飯島少年も固まってしまった。聡美は俺の腕にしがみついてる。
「俺の中学の時の担任」
「えーと、えーと、どういう中学ですか?」
「……普通だけど」
「あの、あの、ヤがつく自由業の方、ご用達とか」
「……俺の母校だぜ?」
「だって……」
まあ、無理もないか。やたらごつくて傷だらけの顔の男が、アロハシャツにサングラスで腕組みして仁王立ちしているのだ。人ごみがそこだけよけていく。
「清永先生」
声をかけると、俺たちに気づいてキヨさんが近寄ってくる。腕組みしたまま。
「あの、あの、こっちへくるんですけど……」
「呼んだんだから、当然だろ」
キヨさんは俺の前までくると、サングラスをはずしてニカッと笑った。
「おう、来たか不良少年」
そう言って俺をがばっと抱きしめ、背中をバンバン叩く。
「なんか、ずいぶん評価が下がってません?」
「当然だろう、俺の教え子の中で、おまえほど早くガキこさえた奴ぁいねえ」
俺は無実だ、とは言わなかった。「善意の嘘」はまだ生きている。
「おお、聡美ちゃんだっけ? 大きくなったな」
聡美は、キヨさんの顔をまじまじと見詰めた。やがて、同窓会で会ったことを思い出したらしい。ニコッと笑い、『清永先生』と手話を紡ぐ。
キヨさんは俺を見て聞いた。
「……なんだって?」
「名前を覚えていたみたいです」
がはははは、とキヨさんは笑った。
「ありがとう」
口を大きくあけて言う。聡美もにっこり笑って答えた。
「んで、こちらは?」
かちかちに固まった少年に向かう。
「お、おれ、飯島正太郎です。き、霧島の同級生で……」
「おー、聡美ちゃんのカレシか」
ボッと赤くなる。そろそろ壊れないか心配になってくる。一方、聡美も「カレシ」を口話で読み取ったのか、頬を赤らめてうつむく。
「うーむ、こうしてみると、おまえと浜田を思い出すなぁ」
しばし感慨にふける。
「で、こちらのご婦人だが、おまえほんっとに手が早いな。再婚するならするで連絡ぐらいしろよ」
この状況で誤解されても仕方ないんだが……。
「えーと、違うんです」
「なにが?」
「彼女はその、家政婦でして」
「家政婦? ンなもん、さっさと嫁さんにしちまえ」
「いや、これには事情が」
「中一でガキつくっといて、いまさらモタモタするこたぁ、あんめぇ」
……これが中学教師の言うことだろうか……。
「もっと言ってください!」
う。香川が自作自演モードに入っちまった。
「わたしの口からは言えない約束なんで、もっと言ってください!」
……どんどん話がややこしくなっていく。
ふと気がつくと、やたら注目を浴びていた。
「ほら、そろそろ行きましょう。ね? ね?」
キヨさんの背中を押しながら、空港ロビーを出る。
……だが、大事なことを忘れていた。
「がはははははは」
キヨさんの高笑いが響く。聡美は目をぎゅっとつぶって、俺の腕にしがみついてるし。後ろでは飯島少年はさっそく真っ青になってるし。
「きゃーきゃーきゃー」
悲鳴をあげながら喜んでるのは、香川だ。
窓の外を、北海道の広々とした風景が猛スピードで流れていく。何しろ、道は広いしすいているし、ドライバーの性格がこれだから。俺は、スピードメーターがほとんど振り切っていることに気がついた。なるべく見ないようにする。
「あ……あの、清永先生」
思わず正式名称を使ってしまう。
「時間は、あの、たっぷりあるんですけど」
前の座席のキヨさんが怒鳴り返す。
「ああ? なんだ、聞こえんぞ」
このエンジン音では無理か。
俺は三列シートの後部座席に向かって首をひねった。
「おい、飯島君」
「は……はい……うぐぅ」
「頑張れ、酔い止めの薬をやるから」
俺は、ポケットからトローチを出して、不幸な少年に渡した。
「よく噛んで飲み込むんだ。すぐに効くから」
少年は、ポキポキと噛み砕いて飲み込んだ。
「なんか、気分が……良くなったような……」
「よし、効いてきたんだ。頑張れよ」
プラシーボ効果。よく効く薬だと信じ込めば、暗示の効果で単なるトローチでも車酔いを抑えられる。……この少年、相当暗示にかかりやすいようだ。
キヨさん夫婦は大家族だそうで、三人子供がいて四人目が真知子先生のおなかにいるという。それで迎えに来れなかったのだ。車もそれに合わせて、三列シートの大型ワゴンに買い換えたらしい。が、スピード狂の性格はそのままだった。
バックミラーに、何度かパトカーが映った気がするのだが、振り切ってしまったらしい。くわばらくわばら。
結局、札幌市郊外の清永家までノンストップで行ってしまった。都内では望めないほどの広い庭だ。
飯島少年は、よろよろと降り立つと、その場にへたり込んでしまった。肩を叩いて励ます。
「えらい、よく頑張った。今、本物の薬をやるからな」
「え、じゃあ、さっきのは?」
「ただのトローチ」
言ってから後悔した。少年の顔が見る見るうちに青ざめてきたのだ。庭の植え込みの陰に倒れこみ、もどし始める。プラシーボ効果が切れたか。
『どうしたの? 飯島くん』
聡美が聞いてくるが、彼のためにも真実を伝えるには忍びない。
『なんか、面白い昆虫でもいたんだろう』
とっさにごまかした。
「はぁー、もう死んじゃうかと思いましたぁ」
そう言いながら降りてきたのは香川だ。とろん、とした目をしている。きっと、スピードの余韻を楽しんでたに違いない。
「よし、全員降りたな。さあ、入った入った」
玄関の戸を開けて、キヨさんが招く。
俺は、トランクから荷物を出すと、聡美と香川を連れて玄関をくぐった。
ん? 一人足りない。
「キヨさん、一人、植え込みの陰に」
「おう、拾っとくから、まあ入れ」
遠慮なく上がらせてもらう。
ちら、と振り返ると、キヨさんが飯島少年をつまみ上げるところだった。そのまま、猫の子でも運んでくるような格好でこっちにくる。
……武士の情けだ。聡美に見られないようにしてやらないと。
『聡美、真知子先生に挨拶しよう』
聡美はこくんとうなづいた。
真知子先生はリビングで待っていた。子を宿して膨らんだおなかを見て、聡美の顔に喜びと憧れが広がる。
「おひさしぶり、聡美ちゃん」
幸せ一杯な笑顔で微笑みかける。聡美はぱっと駆け寄り、ためらいがちにおなかに手を伸ばす。ふと、手を止めて先生の顔を見る。
「いいわよ」
許しが出たので、そっとなでる。
ぴくん。先生の体が震え、聡美はびっくりしたように手を引っ込める。
「赤ちゃんが、動いた」
先生の唇を読んで、聡美は何が起こったか理解した。再びおなかをなで、今度はひざまずいて頬ずりをする。
「いいわぁ……すてき!」
香川を忘れてた。うっとりした表情で、真知子先生と聡美を見ている。もちろん、いつもの乙女チック自作自演ポーズを忘れてはいない。でも……そのままこっちに擦り寄るのはやめて欲しい。
「おう、お二人さん、子供が欲しくなったろう?」
「はい! なりました!」
いかん。香川がこれ以上突っ走らないうちに、話題を変えないと。
「あの、キヨさん、もう一人は?」
「あー、あの少年な。吐く物がなくて苦しそうなんで、表で水飲んで吐かせてる」
……それはあんまりだ。
「薬があるんで、俺、ちょっと行ってきます」
半死半生の飯島少年に薬を与えて戻ると、夕食の準備がされていた。
「こんなに明るいのに?」
俺が聞くと、キヨさんは時計を指差して笑った。もう七時になるところだ。そうか、緯度が高いから。
みんなで食卓を囲んでいると、飯島少年も体調が戻ってきたようだ。というか、へたばっている場合ではなかった。
キヨさんの三人の息子のパワーときたら、傍若無人もいいところだったのだ。みんな、自分の皿は自分で確保しないと、どんどん料理が減っていく。聡美など、横から何度も掠め取られていた。そのたびに料理を取ってあげる、けなげな飯島少年。それはいいんだが、その量では聡美が食べきれないぞ。で、見ているうちにどんどん取られる。
最後には聡美も学習して、よそられたら食べるだけ食べて、後は取られるに任せるようになった。これも進歩だろうか。
そんなこんなで、全員がなんとか満腹すると、今度はいろいろ話しに花が咲いた。キヨさんの家族は手話ができないので、俺と香川と飯島少年が交互に通訳する。
「ほー、手話で歌うのか」
キヨさんが感心する。俺は、リビングに立派なステレオがあるのに気がついた。
「飯島君、聡美、見せてやったら?」
聡美は真っ赤になったが、少年の方はやる気を見せた。よし、頑張れ。
俺は、荷物の中からテープとメトロノームを取り出した。
実を言えば、最初から見せるつもりだったのだ。ステレオにテープを入れ、ピッと音がしたところで止める。メトロノームを動かし、聡美に合図をしてテープをスタートする。
沙希の声が流れる。キヨさんも真知子さんも、はっとする。同時に、聡美が手話を奏ではじめる。続いて飯島少年。そして、二人のデュエットで奏でる、思い出の曲。翼をください。
演奏が終り、二人が深々と礼をすると、全員が拍手していた。例外は、清永家のおちびさん三人組。食べつかれて、ぐっすり寝入っていた。
キヨさんが俺に顔を寄せて聞いた。
「なかなか似合いのカップルじゃないか」
「ええ、でも聡美はだめなんですよ、まだ子供で」
「そうか。おまえらの時みたいにはいかんか」
「……いや、そこまで行かれても困ります。親として」
「……それもそうだ」
まあ、その手前までなら。頑張れよ、少年。
翌日、俺たちは札幌郊外にドライブに行った。今回は近くなので、真知子先生も子供を連れて同行した。前日とは打って変わった安全運転に面食らったが、なるほど、あれは溜まってたストレスを発散してたわけだ。……付き合わされるこっちの身にもなって欲しいが。
草原の真中にシートを敷いて、真知子先生はその上に座り、子供達を遊ばせていた。子供好きの香川は、一緒になって転げまわっていた。子供に感謝。
俺は飯島少年に聡美を散策に連れて行けば、とアドバイスした。少しはこうした機会も与えてやらないと。聡美が俺を見たが、俺は無理やり気づかないふりをした。
二人の後姿を見送っていると、キヨさんに肩を叩かれた。
「こっちこい。面白いものが見えるぞ」
着いていくと、ちょっとした谷間の上の崖だった。
「この辺、よくキタキツネが通るんだ。ほれ」
双眼鏡を渡されたので、木陰の石の上に腹ばいになり、見下ろしてみる。
……キタキツネはなかなか来なかったが、別なものがやってきた。聡美と飯島少年だ。
手話で話しながら歩いている。聡美も、最近は結構打ち解けてきた。以前のように硬くならず、自然にしている。少年のジョークに笑うことさえある。いい傾向だ。
と、少年の歩みが止まる。聡美も立ち止まり、少年の方を見る。二人は向かい合って……。
うーん、これってのぞきだな、と思いつつも、つい見てしまうのが性だ。大体、保護者としては、ことが行き過ぎたら止めに入る義務がある。まあ、少年があの教訓に学んでないはずはないので、心配要らないのだが……。
双眼鏡の倍率は結構あるので、二人の表情もはっきり見える。手話も充分読み取れた。
『夕べの手話の合唱、よかったね』
聡美がうなづく。微笑んでいる。
『おれ、嬉しい。霧島と一緒にうまく歌えて』
そう言うと、少年は聡美の顔をうかがい、ためらうようにうつむく。そして、意を決したかのように、聡美に向き直って続けた。
『おれたち、他のことも、一緒にうまくできないかな?』
聡美の表情が曇る。だが、少年は一気に話してしまうつもりらしい。
『おれたち、出会って何ヶ月もたつ。でも、学校の行き帰りと、病院の見舞いだけ』
聡美、どんどんうつむいていく。
少年、今はまだ早いぞ。まだ早すぎる。俺は念じたが、届きっこない。
『おれ、霧島の気持ち、大事にしたい。無理は言わない。でも、もう少し、一緒にいろいろなことがしたい。一緒に出かけたり、遊んだり、いろんなことを話したい』
聡美の肩が震えだした。
『霧島、おまえは、どう思う?』
聡美の頬を、涙が伝った。
『……ごめんなさい』
それだけ紡ぐと、聡美は走り去った。後には、悲嘆にくれる飯島少年だけが残された。
俺は双眼鏡を下ろした。キヨさんが聞いてきた。
「どうだ、見えたか?」
おれは、キヨさんに双眼鏡を返してつぶやいた。
「……ええ、寂しいオスが一匹」
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