第36話 聡美の歌
長かった梅雨が終ったその日、聡美は長期入院になった。
春に風邪を引いてから、徐々に発熱の間隔が短くなってきていた。検査の結果、免疫系の低下がかなり見られたので、体調を整えるため入院が必要になったのだ。
入院の初日。聡美のクラスメイトが大挙して押し寄せた。聡美の病室は一杯になってしまった。お見舞いの花に埋もれる聡美。
俺は病室の隅から眺めていた。
既視感。沙希の病室で同じ光景を眺めてから、もう十年以上たっている。そして、当時の俺の位置を占めているのは飯島少年。俺の隣で、かつての俺のように聡美を見つめている。
ちょっと感心したのは、健聴者のクラスメイトの中にも、手話のわかる生徒が何人かいることだ。聡美も、少しは友達ができているらしい。小学校の頃のように、完全に孤立してしまうことはなさそうだ。
「うちの学校、手話サークルがあるんで」
少年の解説。なるほど、貴重な情報だ。
どうやら、各クラスに一~二名の聾唖者がいるらしい。聡美のクラスには彼女一人だが。
言語はなんでもそうだが、手話も実際に使う機会がないと身につかない。今、聡美と夢中で話している少女は、かなり上手だった。
やがて、クラスメイト達は帰っていった。その少女も、用事があるというので、名残惜しそうだったが病室を出て行った。後には、花に埋もれた聡美が取り残された。
同じだ。あのときの光景とまったく同じ。しかし、慰めて元気付ける役目は俺じゃない。少年の背中をぽんと叩き、聡美のほうへ押しやる。
飯島少年は、おずおずと聡美のところまで歩みより、手話で話し掛けた。控えめに微笑み返す聡美。俺のほうを、ちら、と見る。俺は念入りにうなずいた。
そのまま、軽く手を振って病室を後にする。すがりつくような聡美の視線を振り切って。
聡美の入院によって、俺はアパートに帰る機会がほとんどなくなった。聡美の病室が家みたいなもの。沙希の時と一緒だ。違いは、体調が戻れば家に帰れるという点。だから、沙希の時のような悲壮感はない。
飯島少年は、律儀に毎日やってくる。聡美も、最初はぎこちなかったが、徐々に心を開いている様子だった。はじめは少年の方からの一方通行だった手話も、次第にキャッチボールとなり、聡美の笑顔も見られるようになった。そのたびに俺は胸が苦しくなるのだが、聡美のためなのだ、と言い聞かせて押さえ込んだ。
他のクラスメイトの見舞いは、予想どおり翌日からは激減した。あの手話のうまい少女は、それでも二日に一度くらいの頻度でやってくる。この娘には、ぜひとも聡美の友達になって欲しいものだ。
ある日、病室から出てきたところを呼び止めて話し掛けた。
「娘の見舞い、ありがとうね。名前は?」
「田原涼子です」
丁寧にお辞儀した。ショートカットが似合う、育ちが良くて利発そうな娘だ。
「手話サークルに入ってるんだってね。どんな活動なのかな?」
「はい。週に三回、聾唖者の人と一緒に手話の勉強をしています」
なるほど。それなら上達も速そうだ。
「それから、手話の歌とか、劇を練習して、聾唖の子供達向けに上演したりするんです」
「へえ、結構、いろいろやるんだね。その、手話の歌って?」
「振り付けみたいな感じで、歌いながらリズムに合わせて手話をやるんです」
「どんな歌を?」
「ポップスとか、フォークが多いですね」
「翼をください、なんかは?」
「大好きです」
それだ!聡美も、手話だったら歌えるはず。あの、思い出の曲を。
「こんど、手話サークルのみんなで見舞いに来てくれないかな?」
「はい、みんなに話してみます」
そのとき、向こうから飯島少年がやってきた。
「こんにちは!」
恋する少年は、今日も元気だ。
「あ、田原、今日も来てたんだ」
「こんにちは、飯島くん」
病室に入る少年を目で追う。それだけで充分だった。
「好きなんだ」
「あ……えっと、その……」
真っ赤になってうつむく。
「飯島君も手話サークル?」
「ええ。あまり来ませんけど」
だろうな。これだけ見舞いに来ていれば。
「……うまくいかないもんだなぁ」
つい言葉になってしまった。
「はい?」
「あ、いや。聡美はまだ恋とかわからないんだ。だから、飯島君も完全に片想い」
「……そうなんですか」
悩ましいところだ。聡美が恋に目覚めて少年の気持ちを受け入れれば、本人のためには一番いい。だが、もし少年がこちらを振り向けば、実るのを待ち構えている恋がある。
「娘と……聡美と仲良くしてくれるかな?」
……恋敵なんだけど。
「はい」
田原涼子はにっこり笑った。ほんとにいい子だ。
数日後、手話サークルの部員達が見舞いにきてくれた。一年生だけかと思ったら、二年生も半数混ざっていた。
俺は、この日のために実家から持ってきた古いビデオテープとデッキを、病室にセットしておいた。
『聡美、手話なら、みんなと一緒に歌えるぞ』
聡美には俺の手話の意味がよくつかめないらしい。
『お母さんは歌がうまかった。おまえも、手話で歌える』
俺は、サークルのみんなの方に向き直った。
「みんなに見てもらいたいビデオがあるんだ。よく知っている曲なんで、この歌を手話で聡美にも教えてやって欲しい」
俺はビデオを再生した。
画面は薄暗い講堂を映し出す。幕が上がり、階段状に並んだ生徒達を映し出す。カメラは最上段の端に立つ小柄な少女を捕らえようとするが、画面右にスポットライトがあたると、そちらに吸い寄せられる。
「あ……」
思わず、聡美の声が漏れた。驚きと喜びに震えている。
画面にアップで映し出されたのは、ライトに輝く沙希の横顔だった。気品に溢れていた。舞台の中央まで歩み出て、客席へ向けて一礼。一呼吸分の間。そして。
歌声が流れてきた。懐かしいソプラノ。細く響く透き通った声。
歌い終わると、沙希はくるりと後ろを向き、白いタクトを振り上げる。舞台全体が明るくなり、沙希のすぐ向かいに立つ俺の涙に濡れた顔が映った。
合唱が始まる。カメラは指揮する沙希の後姿を中心に、歌う一人一人の顔を映し出す。
涙でくしゃくしゃになった吉田のニキビ面。こいつ、歌はひどかったが、気持ちはいいやつだった。みんな、泣いていた。最上段の安堂由香も、涙を拭こうともせず歌っていた。
やがて、合唱は終わり、沙希は再び客席に向けて一礼した。万雷の拍手。
ビデオは終った。俺は巻戻しボタンを押した。
室内を見渡す。聡美は、感極まって泣いていた。飯島少年も感動したらしい。だが、田原涼子をはじめ手話サークルの部員達も目頭を押さえていたのは意外だった。
「あの……今のビデオの女の子は?」
田原涼子が聞いてきた。そういえば、説明していなかった。
「霧島沙希。聡美の母親だ。このビデオは、中一の秋の合唱コンクール」
「それと、一番前の列にいた男の子……」
「俺だ。やっぱりわかるか」
照れ隠しに笑う。
さっそく、サークルの部員達はパートの担当などを取り決めた。テープは巻き戻してあるので、これに合わせてやってもらうことになる。
「決まりました」
田原が俺の方を振り向いて言った。メンバーがビデオを背に聡美のほうを向き整列する。どうやら、混声四部合唱になるらしい。真中に田原が立つ。飯島少年は聡美のベッドの横に立ち、一緒に聞く側。
俺は田原の合図でテープをスタートした。沙希のソロが響く。
田原が一歩進み出て、手話を奏でる。そう、話すのでも、紡ぐのでもなく、奏でるというのがぴったりの表現だった。リズムに合わせて手を動かすだけでなく、体全体で大きく表現する。必ずしも歌詞を逐一翻訳するのではなく、大意を取ってジェスチャも交えている。
合唱のパートになった。左右に立ったメンバが、鏡のように左右対称に動く。あるときは同時に、あるときはタイミングをずらして。一つのフレーズを何人かで一語ずつ続けて奏でたり、複雑に位置を入れ替えたりして奏でていく。
合唱が終った。俺は思わず拍手していた。
すごい。手話は、こんなに表現力豊かだったのか。飯島少年も感動していた。聡美は……夢見るようにうっとりとしていた。
俺は田原をはじめサークルの部員達に深く感謝した。そして、聡美に向かって手話を紡いだ。
『聡美、おまえも練習すれば、一緒に歌えるぞ』
聡美は大きくうなずいた。
実際には、聡美には乗り越えるべき壁がいくつかあった。まずはリズムだ。聞こえない以上、耳でリズムを取ることはできない。『翼をください』のように、二拍子や四拍子の曲は、歩くリズムでわかりやすいのだが、三拍子になると混乱してしまうのだ。この辺は慣れるしかない。
今回は『翼をください』に限定する。とりあえず、メトロノームを借りてくることにした。
次に、歌詞、というより振り付けを覚えないといけない。俺は田原と飯島に実演してもらい、その姿をビデオに納めた。これをくり返し見ながら、聡美は毎日練習した。
最後がタイミングだ。他のメンバのふりに合わせて、微妙に間を取りながら奏でていかないといけない。こればっかりは、一緒に練習するしかない。
田原と飯島は、毎日のように見舞いにきてくれた。そして、三人で一緒に練習してくれた。何でも、秋の文化祭で各クラブやサークルの発表があるので、そこに参加するのだという。これで、聡美にも大きな目標ができたことになる。
ある日、二人が帰っていくと、聡美がポツリと紡いだ。
『うらやましいな』
『なにが?』
俺が聞くと、聡美はなにやら考え込んでいた。やがて手話を続ける。
『飯島くん、田原さんの気持ち、わからないのかな』
うーむ、聡美も気づいていたか。
『恋は盲目、というからね』
『飯島くん、気づけばいいのに』
『聡美から言ったらだめだぞ』
それは、あまりにも残酷だ。
『うん』
聡美は寂しそうにうつむいた。田原との友情は着実に育っている。飯島も、親友と呼んでいい。だが、聡美のほうには、飯島少年の気持ちへ答えるものは、まったく育っていないようだった。世の中、なかなかうまくいかないようだ。
手話合唱の練習が聡美に活力を与えてくれたのだろうか、八月に入ると聡美の体調もかなり安定してきた。そこで、一旦退院して様子を見ることになった。
久しぶりにアパートに戻ると、一通のはがきが届いていた。
差出人を見て、俺は懐かしさで胸が一杯になった。
それは、キヨさんと真知子先生からの暑中見舞いだった。
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