第35話 湖上の二人

 聡美の風邪が治ってようやく登校できるようになると、すぐにゴールデンウィークが目前に迫っていた。


「先生と聡美ちゃん、ゴールデンウィークはどうするんです?」

 香川が聞いてきた。その横にあたりまえみたいに座っているのが飯島少年。この間の仲直りの一件以来、この四人で夕食にする機会が異常に増えてしまった。

 「自分が食べる分の食材だけを供出すればいいでしょう」ということで、最近ほとんど毎日、出張出前があるのだ。おかげで、病院では通い妻なんて噂が蔓延してしまってる。やれやれ。

 少年の方も、毎日律儀に聡美を送り迎えしている。俺の言葉を忠実に守って、文字どおり指一本触れないらしい。さぞかし、クラスでは冷やかされるだろうに。しかも、聡美のほうは『お友達』から一歩も出る気がない。ほとほと、不幸な少年だ。


「ドライブとか、いいですよね」

 不幸な少年が、誰にともなく言った。俺は、同情でもしたんだろうか。それに乗ってしまった。

「よし、みんなでドライブに行こう」

 つい、言ってしまった。聡美の視線を感じながら。


 今年のゴールデンウィークは天候が恵まれずやきもきしたが、ようやく最終日になって青空が広がった。

 場所は相模湖にした。さすがに、奥多摩には思い出がありすぎるので。

 俺はレンタカーをアパートの前に停めると、階段を駆け上がり呼び鈴を押した。バスケットを抱えた聡美が出てくる。沙希が使っていたバスケット。今日は、聡美が作った弁当が詰まっている。香川が用意すると言っていたのに、どうしても自分で作ると言って聞かなかったのだ。


『準備、いい?』

 聡美は大きくうなづいた。こぼれる笑顔。

 俺は気分が浮き立つのを感じた。

 結構気温が高いので、聡美はペパーミントグリーンのTシャツに短パンだった。山は冷えるので、ピンクのトレーナを肩にかけ、胸元で袖を結んでる。髪の毛は左右に分け、黄色いリボンでとめている。

 二人で階段を駆け下りる。香川と飯島少年はここに集まることになっている。

 集合時間までまだ十五分ほどある。立っていると疲れるので、聡美に先に車に乗っているように言った。聡美はバスケットを抱えて助手席に乗り込んだ。

 今回借りたのは、特に道具類を積む必要がないので、ごく普通のセダンだった。


「おはようございまーす」

 十分前になって、飯島少年が自転車で到着した。弁当は用意するといってあるので、手ぶらだ。

 車で待つように言ったが、聡美が助手席にいるのを見て、残念そうに後部座席に入る。後ろから盛んに手話で話し掛けるのだが、聡美は気がつかないふりをしている。あそこまで避けなくてもいいのに……。


「お、遅くなってすみませーん」

 香川は五分遅刻だ。特大のバスケットを抱えている。いったい何人分作ったんだ?

 とりあえず、こんなの抱えていては後部座席に座れないので、バスケットを預かってトランクに入れる。聡美のバスケットも、抱えたままでは邪魔なのでトランクに移す。


「みんな乗ったな? よーし、出発」

 俺は車を出した。


 これまで、何度も聡美をドライブに連れ出しているので、運転にも自信がついてきた。そろそろ車を買ってもいい頃だ。もっとも、ローンがきつそうだが……。

 道中、聡美はほとんど押し黙ったままだった。何を考えているのか、窓の外の流れる景色を見つめるだけ。

 ドライバーとして残念なのは、運転中は手話が使えないことだ。信号待ちで聡美に話し掛けようとするのだが、なかなかまとまって話せない。

 聡美は、このドライブに飯島少年を連れて行きたくなかったのだろうか。そこまで嫌ってしまっては、彼がかわいそうだ。


 いっぽう、後部座席では香川と飯島少年が盛んにおしゃべりしている。年齢も性別も越えた友情ってのも面白いものだ。声の会話は、聞く気がなくても聞こえてくる。

「……それでさ、今日はどこまで迫るつもりなのよ」

「せ、迫るだなんて、おれは……」

「いーじゃない、白状なさいよ」

「お、おれは、霧島の気持ちを尊重するって……」

「なにいってんの、女の子はね、いつだって積極的な男性が好きなのよ」

「だ……だって、おれ……」

 うーむ、なんか友情より同情を誘うような会話だなぁ。


 まあ、後ろは放っといて、問題は聡美だ。何を考えているのやら。

 道が結構混んでいたので、相模湖に着いた頃には日は既に高く上っていた。

 さんざん香川にからかわれてずっとうつむいていた飯島少年は、かわいそうにすっかり車に酔ってしまっていた。車をとめると、そのまま公衆トイレによろめきこみ、しばらく出て来れなかった。つくづく、不幸なやつだ。


「ボート乗りましょうよ、ボート」

 少年が憔悴しきってトイレから出てくると、香川が無慈悲にも提案する。どこまでも不幸な飯島少年。さらに顔が青ざめていく。

 ボート乗り場で料金を払っていると、聡美と香川が先に行って、ちゃっかりボートに一台ずつ乗り込んでしまった。ともの方に座って、男性軍にこいでもらおうというわけだ。問題は誰がどっちに乗るかだが……。少年か来ないので振り返ると、どうやら揺れる水面を見ているだけで気分が悪いらしい。桟橋のたもとでへたり込んでいた。

 では、どっちに……と思ったが、聡美と目が合ってしまった。俺は、どうしても聡美の、この『お願いパワー』を秘めた瞳に弱い。沙希と再会したときもそうだった。この瞳に引き込まれて、路地裏で倒れていた沙希を見つけ出したのだ。

 結局、俺はそのまま聡美のほうに乗り込んでしまった。


「ごめん、香川」

 小声で言ったが、さすがの香川もしゅんとなってしまった。が、負けてはいない。すぐさまへたり込んでいる少年に命じる。

「ほら、飯島君、聡美ちゃんを先生に取られちゃうよ、いいの?」

 これは効いたらしい。ふらふらと立ち上がると、ボートのところまで歩いてきた。

「え……と、おれ、どれに乗ったら」

「ここ、ここ」

 香川は自分のボートのへさき側の座席を叩く。自らの運命を(たぶん)呪いながら、少年は香川と同じボートに乗り込んだ。

「よし、揃ったな。じゃあ、競争だ」

 そう言うと、桟橋の先端で煙草をくゆらしている、係のおっさんに合図した。おっさんは煙草をくわえたままロープをはずし、ボートを押しやった。


 競争といったが、もとより勝負はついている。

 こっちは健康な成人男性。向こうは声変わり前の少年。乗せているのが、こちらは中学生の少女で、向こうは成人女性。どう考えてもアンバランスだ。傍目からみると、なんとも奇妙なカップルだろう。

 案の定、少年のボートは懸命にこいでいる割に進まない。たちまち引き離してしまった。


 湖の真中まで行って、オールを流れないようにボートの中にしまうと、聡美に向かって話し掛けた。

『ドライブ、二人で来たかった?』

 聡美はちょっと考えた後、うなづいた。

『飯島くん、かわいそう』

 聡美がそう紡いだ。それは俺が言うはずだったのに。

『なんで、かわいそう?』

『わたしなんかを好きになるから』

『聡美を好きになるのはあたりまえ』

 聡美はびっくりした顔になった。

『なぜ?』

『こんなにかわいいから』

 俺もよく言う。やっぱり親馬鹿か。

 聡美は真っ赤になった。


『わたし、かわいくない』

 聡美はうつむいたまま紡ぐ。ときどき、上目遣いにちらちらと俺の顔を見ながら。

『わたし、飯島くんといても、楽しくない。飯島くんも、楽しくないはず』

『楽しくすればいい』

『どうやって?』

『お父さんと、するように話せばいい』

 聡美は黙り込んだ。迷っているみたいだ。

『お父さん、ほんとに、いいの?』

 迷いながら続ける。

『わたしが、飯島くんと仲良くなって、ほんとに、いいの?』

 聡美に対して嘘が付けないことはわかっている。正直に言うしかない。

『仲良くなって欲しくない。でも、仲良くなって欲しい』

 思ったとおり、混乱させてしまった。説明を続けないと。

『聡美が飯島くんと仲良くなると、お父さんは寂しい。でも、聡美の友達が増えれば、お父さんは嬉しい』

 混乱は収まったらしい。もう少しだ。

『聡美が幸せなら、お父さんは寂しくても我慢できる』

 聡美は理解したらしい。涙がこぼれたと思った瞬間、俺に飛びついてきた。


「うわ、聡美!」

 思わず、声で叫んだ。ボートが揺れる。へさきから水が入り、俺の背中にかかった。聡美は泳げない。落ちたら危ないので、両足を踏ん張って両腕でしっかりと聡美の身体を抱きかかえる。そのまま、ボートが安定するまで待った。

 ようやく静まったので、身体を離して手話を続けようと思ったが、聡美は俺の首に回した手の力を緩めない。俺の肩に顔をうずめて泣いている。仕方がないので、背中を撫でて落ち着かせる。

 やがて力が弱まったので、そっと身体を引き離す。まだ涙を流しつづけている。泣きながら手話を紡ぐ。

『わたし、お父さんが好き。ずっとお父さんといたい。一緒にお母さんを思い出したい』

 これは……説明できるものじゃないのかもしれない。きっと、聡美がいつか、男の子を本気で好きになるまで、待つしかないのだろう。

『お父さんも、聡美が大好き。聡美がそうしたければ、ずっと一緒』

 聡美はうなづいた。そして、今度は気をつけながら身体を寄せ、俺の頬にキスをした。俺も、お返しにおでこにキスしてやった。


 ……ごめん、飯島少年。君の恋は、当分実りそうにない。聡美は、まだまだ子供なんだ。


 つくづく、不幸な少年だ。そう思って、ふとどうしているのか気になって探すと……。

 いた。桟橋のすぐそばで漂流している。うーむ、どう見てもオールを握ってるのは、ともの方に座っている香川なんだが。少年は……あーあ、船べりに向かって吐きまくってる。

 俺は急いでボートを寄せた。

「おい、飯島君、大丈夫か?」

 こっちを振り返ってうなづくが、そのまま船べりにかじりつく。だめそう。

「香川、早く桟橋まで戻らないと」

「は、はい、さっきからやってるんですけど、どうしても前に進まなくって」

「ばか、ともに座ってて漕いでも、前に進むもんか。飯島くんと代われ」

「だ、だって、揺れるんですもの、怖くって」

 だめだ、こりゃ。

「飯島君、へさきのロープをこっちに投げて。そう、それそれ」

 受け取ったロープを聡美に握らせて、俺はオールを漕いで桟橋に向かった。係りのおっさんにロープを渡して、ようやく香川たちのボートを引き寄せてもらう。

 やっとのことで、全員が陸に上がった。さすがに、聡美も心配になったのか、飯島少年に向かって『大丈夫?』と手話を送った。少年は真っ青だったが、けなげにも『大丈夫』を返す。しかし、大丈夫どころじゃないのは確かだ。


 俺は見かねていった。

「飯島君、乗り物酔いの薬があるから、飲みなさい」

「す、すみません……」

 昼をまわっていたので、さっそくお弁当にする。芝生の上にシートを敷いて座る。女性軍二人のバスケットを合わせると、軽く六人前はありそうだった。

「すごいな、こりゃ」

 飯島少年、口元を押さえて顔をそむける。

「無理しなくていいから、薬が効くまで横になってなさい」

「は……はい」

 一人を除いて、食事は楽しく進んだ。聡美も、泣いてすっきりしたからか、空気がいいせいか、いつもより食が進んだ。

 食後、俺が「うーん」と伸びをすると、聡美が足を伸ばして座り、膝をぽんぽん叩いた。

「え? 膝枕?」

 こっくり。またもや聡美の目から『お願い』光線が放射されだした。これには逆らえない。

 聡美の膝枕は、沙希の膝枕を思い出させた。あの、初めての奥多摩のピクニック。細い脚の感触、温かさ、そして、沙希と同じ聡美の匂い。

『お母さんの膝枕に似てる』

 俺の手話に、聡美はにっこり微笑んだ。俺は目を閉じて思った。

 沙希と同じ膝枕。だが、この娘は沙希のように歌えない。俺一人のためにも歌えないのだ。

 ……不覚にも、涙がこぼれたらしい。と、目尻に温かく柔らかい感触。目を開けると、聡美が悪戯っぽく笑って手話を紡ぐ。

『しょっぱい』

 おい、そんなことして、後の二人に見られたら……。

 その二人は、膝枕をしながらこっくりしていた。姉の膝枕で眠る弟、という感じで、意外と似合ってるのが、なんかおかしい。

 ……しかし、やっぱりこの二組は妙な取り合わせだな。つくづくそう思う。


 沙希と一緒に来た時とは、かなり感じが違うドライブになってしまった。だが、そういうものなのだろう。これはこれで、楽しい思い出となりそうだ。


 飯島少年にとっては……疑問だが。

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