第34話 仲直り

 聡美の風邪は意外に長引いた。


 気になるのは、聡美の免疫系だった。どうも、中学に上がってから低下し続けているようなのだ。環境が変わったことが影響しているのだと思うが……。


 飯島少年は、毎日のように朝夕やってきた。いつも礼儀正しく、聡美のことはそれこそ壊れ物扱いだった。昔、俺が沙希に対してそうだったように。ほとんどの場合、玄関で俺と話すだけだったが、ある日の夕方、彼が来たときに出たのは別人だった。

 玄関の呼び鈴と共に、リビングの回転灯が灯った。

「あ、わたしでます」

 出張出前家政婦の香川が、玄関までパタパタと走る。

「はい、どちらさま……あら」

 俺はソファから首を伸ばして、玄関の方を見やった。香川の身体の脇から、あっけに取られた飯島少年が見えた。

「まー、聡美ちゃんのお友達? ささ、あがってあがって」


 ……いいんだよ、香川。そいつはあがらせなくって。


 そう言いたかったが、既に香川は強引にぐいぐい引っ張りこんでいた。

「あ、あのー、お邪魔します」

 赤面したまま、少年はリビングに突っ立ってる。

「……まあ、座ったら?」

 対面のソファをすすめる。恐縮しきって、少年は腰掛けた。カチカチになってる。

「す、すてきな奥さんですね」

 お世辞だとしても、あんまりだ、そりゃ。

「奥さんじゃない」

「え?」

「俺の同僚。聡美の親友」

「……あの……でも」

 少年、キッチンへ目をやる。そりゃまあ、ああやってかいがいしく料理なんかしてたら、絶対誤解するよな。


「俺たち父娘を哀れんで、ボランティアを買って出てくれている」

「はぁ……」

 そこでようやく気づいたらしい。

「あの、それじゃ、奥さんは……」

「沙希……女房が死んでから、一年半になる」

 少年は凍りついた。

 俺は、サイドボードの上の写真を見上げた。最後に入院する前日、このリビングで撮った写真だ。飾る気になれたのは、ようやく最近だが。

(充分生きたから、幸せよ)

 撮られる時、そう言って微笑んでいた。

 ……おまえは最後まで充分主義者だったな、沙希。


 少年は、立ち上がって写真に見入った。

「霧島にそっくりだ……」

「ああ」

 俺は話し出した。俺と沙希の物語を……。

「沙希が聡美を産んだのは、自分が長く生きられないと思っていたからなんだ」

 少年には刺激が強すぎたらしい。涙ぐんでいた。

「沙希がこんなに生きられるとわかっていれば、聡美が生まれるのはもっと後だったろうね」

 沈黙。


 その時、香川のあっけらかんとした声が、しんみりムードを吹き飛ばした。

「さーさ、ご飯できましたよ。そこの君も食べてってね」

「あ、えーと、おれ……」

「いーから、いーから」

 この世に、香川のペースから逃れられる男は存在しない。飯島少年も例外ではなく、気がついたら席に着かされていた。

「じゃ、聡美ちゃん呼んで来ますね」

「あ、いい。俺が行く」

 少年がいるのだ。香川が行ったら、絶対面倒なことになる。


 俺は聡美の部屋のボタンを押した。しばらくして、中からベルの音が響く。ドアを開けると、聡美はベッドに半身起こしていた。病気で寝てるとドアを開けに行けないので、枕もとにベルを置いたのだ。

『食事ができた』

 入り口から手話を送ると、うなづいて起き出そうとする。待て、の手話を送り、続ける。

『飯島君が来ている。会うかい?』

 とたんに表情が曇る。公園での一件以来、顔を合わせるのは初めてだ。

『毎日来ている。飯島君は聡美に謝りたいんだ。会わないとかわいそうだ』

 しばらく考えて、こくんとうなづく。


「飯島君、来てくれないか」

「は、はい!」

 少年に声をかけると、ぎこちなくダイニングから歩いてくる。可哀想なくらい緊張していた。

「し、失礼します」

 俺の横からのぞき込む格好。聡美はシーツを被ってしまった。これじゃ耳をふさいでるのと一緒だ。俺はベッドまで行ってシーツを引っぺがした。

「あ!」

 びっくりした聡美の声が漏れる。涙目になっていた。

『会うと言ったろ?』

 こくん。のろのろと半身を起こす。


 その時。

 少年は部屋の真中にぱっと正座した。

『霧島、ごめん。この間は、本当に悪かった』

 それだけ手話で伝えると、その場で土下座した。

 沈黙。聡美はどうしていいか、混乱してしまっている。土下座していては、手話は見えない。かといって、そばまで行くのは勇気がいるのだろう。

「い……いいちまうん……」

 絞り出すような声。

 俺は心底驚いた。聡美が喋っている! 声を出すのをあんなに嫌がっていた聡美が!

「いいちま……くん、お、き、て」

 少年は顔を上げた。彼も驚いていた。目を見開いている。

「霧島……」

 聡美は手話に切り替えた。

『許してあげる』

 少年は感激に身を震わせている。手話を交えて声も上げる。

「あ……ありがとう……ありがとう」


 そこへ、ムード破壊者、香川の声が。

「もうー、はやくはやく、ご飯冷めちゃいますよー。ほら、君、そんなとこに座ってないで」

 無慈悲にも少年を引きずっていく。

「あ、いやおれ、霧島とまだ……」

 入り口のところでしがみついていたが、努力も空しく引っぺがされて連行されていく。

 俺と聡美は、顔を見合わせて吹き出した。


 こうして食事が始まった。

 熱が完全に引かない聡美はあまり食が進まなかったが、胸のつかえの取れた飯島少年の方は、食べ盛りの無限の食欲を発揮してくれた。香川も、自分の料理が見る見る減っていくのに感激していた。

 俺のほうは……複雑な心境だった。少年のストレートな気持ちを好ましく思う反面、聡美が彼のために喋ったことがどうしても気になるのだ。

 その時、ようやく気がついた。この気持ちがそのまま、香川に迫られていた俺に対して聡美が抱いていた感情なのだと。

 気がつくと、黙りこんでしまったしまった俺を、聡美が見つめていた。目立たないように、聡美は小さな動きで手話を紡ぐ。

『お父さん、わたしが飯島くんと仲良くするの、嫌?』

『嫌じゃない』

 ……だめだ、聡美に手話で嘘はつけない。たとえ表情を作っても、目を見ただけですべて読まれてしまうのだ。聡美は目を伏せてしまった。何も言わないが、俺にはわかる。聡美は、決心してしまったのだ。

 香川と少年は完全に意気投合している。妙な取り合わせだ。まあ、仲のいい姉弟だろうか。実らぬ恋をする同士。

 心の中で、飯島少年に詫びる。


 すまない。そして、頑張れ、と。

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