第33話 同じ想い
翌朝、飯島少年は聡美を迎えに来た。言い草がなんとも言えない。
「おれ……保健委員ですから」
俺は、ますます昔の自分を見るような気分になった。奥に戻ると、聡美は制服をきちんと着て、ソファに腰掛けていた。真新しい鞄を膝に乗せて。
『聡美、飯島君が迎えに来た』
手話を向けると、聡美はこくんとうなづいた。顔がやけに赤い。恥ずかしがっているのかと思ったが、元気もないようだ。熱があるのか?
俺は、電子体温計を取り出して聡美の耳に当てた。検温スイッチを押すと、液晶に数値が表示された。三十七度五分。
『熱がある。学校は休みなさい』
聡美は、ふたたびこくんとうなづいた。
戸口に行って、欠席を伝える。少年は気の毒なぐらい落胆した。
「おいおい、聡美はずっとこんな具合だ。慣れなきゃ」
一礼すると、少年はうなだれたまま立ち去った。
……俺も、あんなだったんだろうか。沙希を、マンションや病室に迎えに行って、一人で引き上げるときに。
リビングに戻ると、聡美はソファに横になっていた。肩を叩く。
『寝るのなら、着替えてベッドへ』
聡美は、起き上がったが動こうとしない。
『どうした?』
聡美は、思いつめたような顔で、手話を紡ぎだした。
『飯島くん、帰った?』
俺がうなづくと、少しほっとした表情になる。
『飯島君、嫌いか?』
激しく首を振る。茶色の巻き毛がパタパタと俺の身体を打つ。
『なら、どうして?』
『わたしを、見るから』
迷いながら、手話を紡ぐ。
『ときどき、お父さんみたいな目で、わたしを見るから』
『おまえのこと、心配なんだ、きっと』
聡美は困っていた。多分、今まで経験のないことを話そうとしているのだから。
『お父さんがわたしを見ると、安心。嬉しい。飯島くんだと、不安』
悩みながらも、言葉を紡ぐ。
『わたし、お父さんが大好き。飯島くん、いい人。すごくいい人。でも、お父さんじゃない。お父さんと同じ「好き」じゃない』
そう言うと、顔を覆って泣き出した。
俺は、肩を抱いてやるしかできなかった。聡美が泣きつかれて子供のように寝てしまうまで、俺はそうしていた。
そっと抱き上げ、ベッドに運んで寝かす。上着だけは脱がしてやり、シーツをかける。
もう出かける時間だった。病院までの道すがら、俺は考えた。
同じだ。俺と香川淳子の場合と。
香川はほんとにいいやつだ。だが、俺は愛せない。沙希を愛しているから。聡美がいるから。
聡美も、まったく同じ想いを持っている。飯島少年は間違いなく、いいやつだ。だが、聡美は彼を愛せないという。なぜなら俺を……。
ふと、立ち止まる。
いや違う。まったく同じわけがない。聡美は俺のことを愛している。父親として。
そう、聡美はまだ異性を好きになったことがないのだ。だから、飯島少年の想いを父親からの愛情と区別できずに、混乱しているのだ。
身体はすっかり大きくなったが、聡美の心の方は、いまだに父親離れのできない子供なのだ。言葉のせいで、多くの人と接することができないのが影響しているのだろう。
飯島少年との出会いが、そのきっかけになってくれればすばらしいことだ。
俺の理性は、そう結論付けた。しかし、情念の方は……。
そんなことを考えているうちに、病院に着いてしまった。玄関からかしましい声が響く。
「霧島先生! 遅刻しちゃいますよ、急いで!」
香川だ。ため息をついて、俺は命を巡る戦場に身を踊らした。
翌朝も、飯島少年は聡美を迎えに来た。電車通学のはずなのに。聞いてみると、駅は同じだという。ただし、彼の家は線路の反対側だった。恋の力は偉大だ。
『待たせたら悪い、急ぎなさい』
聡美は、鏡に向かって制服の胸のリボンを何度も結びなおしている。放っておいたら、半日でもそうしていそうなので、腕を掴んで部屋を出た。リビングのテーブルの上にある学生鞄を持たせる。
『遅刻する、もう行きなさい』
うなづくと、のろのろと玄関へ向かう。満面の笑みで飯島少年は迎えた。
二人連れ立って登校していく。少年の方は、今にも天に舞い上がりそうな足取りだが、聡美のほうは今にも足元が液状化して、ずぶずぶと沈んでいきそうな感じだった。
その姿が何かを連想させた。そうだ、俺が香川に愛せないと伝えるため、誘ったときの姿だ。男女の役割こそ逆転しているが……。
飯島少年の恋は、まだまだ前途多難だ。
俺はふと、沙希の通夜で見た夢を思い出した。翼を広げ、沙希は言ったのだ。
(もうじき目を覚ますわ。そうしたらわかるから)
聡美は、まだ眠っているのか。目覚めたとき、聡美は飯島少年の愛を受け入れるのだろうか。
再び、胸が苦しくなる。俺は、その気持ちを押し込めて、家を出た。
夕方、病院から帰宅する。
「ただいま」
……いまだに俺は、声に出して言ってしまうのだ。聞いてくれる沙希はもういないのに。聡美には聞こえるはずが無いのに。
またもや電気がついてなかった。リビングには誰もいない。そうすると、残りは聡美の部屋だ。
ボタンを押したが、聡美は出てこない。仕方がないので、ドアを開けて中に入り、明かりをつけた。
制服が、床の上に脱ぎ散らかしてあった。そして、聡美はベッドに突っ伏していた。バスタオル一枚の姿で。
……一体、何があった?
俺は聡美の肩にそっと手を置いた。びくっと震えて、聡美はおそるおそる振り返る。俺だとわかると、がばっと抱きついてきた。そのまま、激しく泣きじゃくる。
事情を聞きたいが、落ち着くまでは無理なので、そのまま抱きしめて泣くだけ泣かせて髪の毛を撫でてやる。シャワーを浴びたのだろう、湿っていた。
しばらくして、ようやく泣き止んだ聡美を胸から引き離し、言った。
『風邪を引く。着替えなさい。リビングにいるから』
うなづく聡美を残して、部屋を出た。
俺はキッチンでココアを入れた。二人分を作ってリビングに運び、ソファで味見をする。甘いのは苦手なので、砂糖は少なめだ。ほどよい苦味が落ち着かせてくれる。
やがて聡美が出てきた。いつものトレーナーとデニムのスカート。だが、泣きはらして目は真っ赤だった。
隣に座るように示し、ココアを勧める。聡美は音を立ててすする。この癖は、何度言っても治らない。聞こえないのだから、仕方がないのだろうが。
ようやく落ち着いたのか、聡美はぽつりぽつりと何があったのか紡ぎだした。
『今日、飯島くんに、一緒に帰ろうといわれたの』
『良かったじゃないか』
聡美はこくんとうなづいた。嫌ではなかったのだ。
『でも、……駅から出て、公園まで来たら、周りに人がいなくて……』
何があったか、想像がついてきた。
『飯島くん、急にわたしを抱きしめて、……キスしたの』
やってくれた。やれやれ。
『わたし、びっくりして、走って逃げてきたの。すごく、気持ち悪くて、何度もうがいして。身体に、まだ感触が残ってるような気がして、シャワー浴びて何度もこすったの』
思い出したのか、両腕で自分自身を抱きかかえ、震えだす。涙がにじんできている。俺は、落ち着かせるためにしっかりと抱きしめてやった。
今度は、落ち着くまでしばらくかかった。そっと身体を離して、問いかける。
『飯島くんのこと、嫌いか?』
しばらく考えて、ゆっくり首を振る。
『嫌いじゃないけど、今日みたいなのは嫌か?』
うなづく。
『明日、飯島くんが来たら、お父さんが話してあげる』
安堵の微笑。
『お父さんは大好き』
ぎゅっと抱きついてきた。まだ、髪の毛は湿っていた。
翌朝。危惧したとおり、聡美は風邪を引いて熱を出した。
飯島少年が迎えに来たが、まるで警察に自首する逃亡犯みたいにうなだれていた。聡美の欠席を伝えると、死刑の判決でも受けたかのように意気消沈していく。なんとなく、放っておけない。少年の肩を叩く。
「一緒に歩こう」
先に立って歩き出す。少年は驚いたように立ちすくんでいたが、走って追いついてきた。
「昨日の顛末は聡美から聞いた」
少年の顔が引きつる。額に浮かんだのは冷や汗か。やっとのことで言う。
「……霧島は、なんて?」
はじめはいいニュースからだな。
「君のことは嫌っていない」
効果てきめん。大きくため息をついて胸をなでおろす。
「だが、昨日みたいなのは嫌だそうだ」
とたんにがっくりくる。
……なんだか、この年頃の少年をからかいたがる気持ちがわかってきたような。
「君は、昔の俺にそっくりだ」
「はぁ」
「俺が沙希に……聡美の母親に出会ったのは、中一の春だった」
「え?」
びっくりしたらしい。俺も、娘のクラスメイトにこんな話をするとは思わなかった。
「初恋だった。毎日会いに行った。幸せな日々だった」
そう、まぶしいくらいに。
「君の場合、急ぎすぎたようだ」
再びうなだれる。
「俺たちは、キスまで半年かかったからね」
少年は赤面した。なるほど。面白いものだ。
「聡美は、まだ恋を知らない。異性を好きになったことがないんだ。だから、君の気持ちをぶつけられても、どうしていいかわからないで傷つく」
「おれは……」
「あせらないことだ。ひたすら誠実に付き合うこと。いつも、聡美の気持ちを最優先すること」
「はい」
素直な反応だ。俺は思わず気をよくしてしまい……。
「聡美が生まれたのは、その翌年だったんだからね」
……つい余計なことまで口を滑らしてしまった。
「え?」
ぴたりと少年の足が止まる。俺は歩きつづける。
「えええ?」
……多分、耳まで真っ赤になってるだろうなぁ。
「ええええええー?」
……俺たち、どちらも。
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