第32話 中学進学

 春。聡美は、中学生になった。


 俺にはずっと心配な点があった。

 沙希は、母親の死の翌年に癌を発病している。癌の素因子には遺伝するものがあるし、家族の死などの精神的なショックが引き金になることが多い。だから、聡美には毎月、癌の検診を行ってきた。本人にはそれとは教えていないが。

 今のところ、聡美に癌の兆候はない。

 思えば沙希は、母の死後の一年間を、ほとんど一人ぼっちですごしていた。父親がノイローゼで入退院を繰り返していたせいだ。その間、沙希がどんなに苦しんだか、想像を絶するものがある。


 だから、俺はできるだけ時間を作って、聡美と一緒にいるようにした。聡美が、悲しみの中で溺れてしまわないように。

 それは同時に、俺自身を救うことにもなった。俺も聡美も、お互いを誰よりも必要としていたのだ。


 六年生の後半、聡美はまたぐんと背が伸びた。幼かった手足もすらりとしてきた。ますます沙希に似てくる。

 それは、複雑な感情を俺にもたらした。嬉しい反面、恐れが伴う。俺が、浜田氏……沙希の父親と同じ過ちを犯しはしないか、という恐怖だ。


 沙希の命日の夜。寂しさからベッドにもぐりこんできた聡美を、俺は抱きしめた。あれは、父親としての気持ちからだったと、言い切れるのだろうか。この愛しさには、沙希の姿を聡美の中に求める気持ちが、紛れ込んでいるのではないか……。

 始業式の前日、夕食の後で聡美は中学の制服を着て見せてくれた。紺色のブレザーにチェックのスカート。セーラー服でなくて、残念なような、ほっとしているような気持ちだ。

 目の前でくるりと回って見せ、スカートのすそをつまんでお辞儀する。父親冥利に尽きる。


『聡美、とってもかわいい』

 素直な感想を手話で伝える。

『ありがとう』

 にっこり笑う。

「良かったわね、いい学校に入れて」

 キッチンからの声。そう、今日は週に一度の出張無料家政婦サービスの日だった。

「わたしにも見せてくださいな、聡美ちゃんの晴れ姿」

 エプロンで手を拭きながら出てきたのは、言うまでもなく香川淳子だ。すっかり家族の一員みたいな顔で、この家に出入りしている。

 約束どおり、俺のことは放っておいてくれているが、どうも、自分の「忍ぶ恋」な姿に酔っているような感じだ。やれやれ。


 聡美は、もう一度くるりと回ってポーズをとった。

「かわいい!」

 感激する香川。……自作自演モード。今度は母親バージョンか。もういい。勝手にやって。


 翌朝。聡美は元気よく登校していった。


 聡美が通うのは、都内の私立中学だった。電車で三駅ほどのところにある。選んだ理由は、最新技術を使った聾唖ろうあ教育設備があるためだ。

 聡美は耳が聞こえない。聴覚神経の障害なので、補聴器も役に立たないのだ。だから、聡美は自分の声を聞いたことがない。そのため、話し方を学ぶことができなかったのだ。

 舌や唇を声と共にどのようなタイミングで動かせばいいか。話すというのは、非常に高度で複雑な動作だ。


 今度の学校では、声をグラフ化してくれる装置があるという。これを使うと、自分の発音が正しいかどうかを目で確認できる。そうして話し方の訓練ができるわけだ。また、唇を読む口話も、ビデオなどの教材で充分にできるそうだ。

 当然、そうした施設のある学校だから、聾唖者も多い。これまで、聡美は自分と同じ障害を持った人との接触がほとんどなかった。これは、沙希が遠出できなかったのが影響している。聾唖者のサークルは、荒川のアパートから歩ける範囲になかったのだ。

 これからは、聡美の世界はずっと広がっていくことだろう。


 ……そう思っていたので、夕方アパートに戻ったとき、聡美がすっかり落ち込んでいるのを見てびっくりした。電気もつけず、制服のまま、リビングのソファに膝を抱えて座っていたのだ。俺は肩にそっと手を置くと、手話で尋ねた。

『どうした? 聡美』

 聡美は、ぱっと立ち上がると、俺に飛びついてきた。激しく泣きじゃくる。

 また、いじめられたのだろうか?

 ひとしきり泣くと、ようやく落ち着いたのか、身体を離して手話で事情を説明しだした。


 何でも、落ち込んだ原因は、生まれて初めて接した聾唖者の生徒だったらしい。聡美のほうには、かなり大きな期待があった。手話で話せる友達が、たくさんできるという期待が。これまでは、言葉が通じないという点が孤独の原因だったのだから。

 だが、実際に出会った聾唖者たちは、聡美にはまったく理解できない手話を使っていた。俺も話だけは聞いたことのある、聾唖者専用の手話だ。聡美が普通の手話……健聴者とコミュニケーションするための手話で話し掛けると、最初は気遣って同じ手話を使ってくれるのだが、話が弾んでくると専用の手話になってしまう。

 聡美は、健聴者と一緒にいるとき以上に孤独を感じたらしい。

 健聴者なら、口話である程度何を話しているか推測できる。しかし、聾唖者専用の手話はまったくの外国語みたいなものなのだ。文法と言うか、語順も語彙も大きく違う。

 期待が大きかっただけに、ショックも大きかった。

 ソファに並んで腰掛け、肩に手を回して抱きかかえたり、手話で励ましたりを繰り返す。

『聡美、おまえの手話、通じたんだろ?』

 こくん。うなづいた。

『いじめられたのか?』

 ふるふる、と首を振る。

『じゃ、小学校の時より、ずっといい。そうだろ?』

 ……こくん。

 納得したらしい。ぎゅっと抱きついてくる。その背中をぽんぽんと叩いて、俺は着替えてくるように伝えた。

 うなづくと、ぱっと立ち上がり、スカートを翻しながら自分の部屋に駆け込む。

 ちょっと見とれてしまう。中学時代の沙希が、元気になって帰ってきたような錯覚を感じたのだ。


 沙希……おまえは、とうとう最後まで、人並みの健康とは無縁だったな。聡美は元気一杯だ。この子には、絶対、おまえの分まで幸せになってもらわないと。


 聡美は、沙希とは違う人生を歩む。聾唖ではあっても、健康で、活発で、積極的な人生を。

 俺は、単純にそう信じていた。


 数日後、聡美が学校で倒れたと聞いて、俺は白衣のまま学校へ駆けつけた。

 聡美が元気だといっても、それは沙希と比べた場合で、貧血とか発熱は茶飯事だった。しかし、中学校というまったく新しい環境だったので、大事をとって様子を見に行ったのだ。

 医務室に入ると、ベッドの傍らに座っていた男子生徒が立ち上がり、俺に向かって一礼した。

「きみは……?」

「飯島正太郎です。霧島さんの同級生です」

 声変わり前のボーイソプラノ。まだ子供っぽい顔にニキビが一つ。背はこれから伸びるところだろう。真面目そうな表情。

 気がつくと俺は、値踏みでもするような感じで、飯島少年を見ていた。少年は、居心地悪そうに身じろぎする。俺は、挨拶がまだだったことに気づいた。

「霧島聡美の父だ。よろしく」

 少年の表情が和らぐ。

「ずいぶん若いんですね」

「子供に言われたくはないな」

 ……しまった、ちょっと刺があったか。気まずさを押しやるために、言葉を続ける。

「……また、貧血かい?」

「ええ、講堂で話を聞いてるときに倒れたんです」

「君が運んでくれたの?」

「はい」

 なるほど。

「世話になったね」

 少年は少し赤くなった。純情だな。

 見回したが、校医はいないようだった。これでは、詳しい様態がわからない。


 俺はベッドに近寄った。

 顔色が蒼い。脈を取り、聴診器を出して一通りの診察をしようとした時。隣に立っていた飯島少年が、真っ赤な顔でそっぽを向いてるのに気づいた。

「すまないが……カーテンを引いてくれるか?」

「……はい」

 カーテンの陰で、娘のブラウスをはだける。聡美が初潮を迎えたとき、あのころの俺は娘が女らしい特徴を備えつつあることにうろたえてしまった。今、胸のふくらみはさらに大きくなっており、聡美はブラジャーを着けていた。……香川が買ってくれたのだろう。とりあえず、このあたりは助かってる。


 よく、医者は女の裸を見放題でいいな、などとからかわれることがあるが、そんなことはない。少なくとも、俺は患者を前にしているときにそんな余裕はない。命に関わる問題なのだから。そんなわけで、冷静に診察は終わった。心音、呼吸音、触診、打診。どれも問題なし。ほんとは背中からも行うべきだが、起こしてまでやる必要はないだろう。

 服を着せなおしてシーツをかけてやり、俺はカーテンを開けた。飯島少年は、まだそこに立っていた。

「授業に戻らなくていいのか?」

「担任に、様態を聞いて来いと言われてるんです。おれ……保健委員だから」

 俺は目を閉じた。

 因果は巡るというが。この少年は、十四年前の俺自身だ。目を見ればわかる。こいつは、聡美に恋をしたのだ。そして俺は……浜田氏の役割を回された。

「聡美は、先天性の免疫不全だ」

 これでは中学生にはわからないか。

「ようするに、生まれつき病気などに対する抵抗力が弱い。だから、風邪を引きやすいし、治りも遅い。貧血にもなりやすい」

 今度は、少年もうなづいた。

「それ以外は健康だ。無理さえしなければ普通に暮らせる。……聞こえない点を除いてね」

 少年はほっとしたようだが、聞こえない、という点には顔を曇らせた。

「聞こえるようには、ならないんですか?」

 心なしか、声が震えてる。

「ならない。おそらくこれも先天的だから」

 少年の目から涙が流れ落ちた。

 やめてくれ。そんなの、俺の前で流すもんじゃないぞ。

 その時、背後でうめき声がした。振り返ると、聡美が目を開けていた。

『聡美、目がさめたか?』

 聡美は、のろのろと手話を返す。

『ここ、どこ?』

『医務室』

 答えて、俺は飯島少年を指差す。

『彼がおまえを運んでくれた』

 涙を拭いた飯島少年が、にっこり笑って話し掛ける。口を大きく動かしながら。

「霧島、気分はどう?」

 聡美は、恥ずかしそうに頬を赤らめてうなづいた。


 俺は、急に胸が苦しくなった。その事実がさらに俺を苦しめた。だが……俺はすべてを胸の奥に押し込んだ。


 俺は聡美に手話を送った。

『起きられる?』

 聡美はちょっと考えてから答えた。

『まだ、無理みたい』

「あの……」

 飯島少年が、ためらいがちに声をかけてきた。

「なんて言ってます?」

 そう。一般の生徒には、手話は分からないだろう。

「まだ、起きるのは無理らしい。しばらく寝かせておこう」

「はい」

 残念そうだ。

 俺は、聡美に向き直った。

『お父さんは病院に戻る。大丈夫?』

 聡美はうなずいた。


 俺は飯島少年の肩を叩き、一緒に医務室から出た。

「手話を覚えた方がいいな」

「はい?」

「聡美と付き合うなら」

 少年の歩みが止まる。

「……はい!」

 学校を後にしながら、俺の気分は晴れなかった。


 これでよかったんだよな、沙希。……答えてくれよ。

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