第31話 母の命日

 沙希の一周忌がやってきた。


 法事の方はどうでもいい。俺の両親が対面を気にするからやるだけのことだ。俺はむしろ、沙希の思い出を聡美と一緒にじっくりと噛みしめたかった。

 正座でしびれた足をもみながら、俺は寺の中庭のベンチに聡美と一緒に座っていた。空はあの日と同じ秋晴れ。柔らかな日差しが、高さを増した空から降り注ぐ。


 聡美は空を見上げて、手話を紡ぐ。

『お母さん、元気かな?』

 天国で、という意味だろう。

『聡美が元気なら、お母さんも元気』

 俺の手話を読み取ると、聡美は再び紡いだ。

『会いたい、お母さん』

 そのまま空を見上げて、涙を流した。

 俺は、胸が締め付けられた。聡美と二人して空を見上げる。


 沙希。俺たちが見えるか。なんとか、一年やってこれたよ。

 聡美は、こんなに大きくなったよ。もう、いじめられっこじゃない。この春には、取っ組み合いの喧嘩をして勝ったんだ。

 沙希の顔が、青空の中に浮かんだような気がした。幸せそうに微笑んでいる。そう、俺たちは幸せなんだ。こうして、一緒にいるんだから。

 俺は聡美に向かって手話を紡ぐ。

『お母さんに会いたかったら、お父さんと話そう』

『なぜ?』

『お父さんも、聡美も、お母さんを覚えている。思い出の中のお母さんに会える』

 聡美は、俺のほうに身体ごと向いた。涙に濡れた顔が、今度は微笑んでいる。

 ぱっと立ち上がると、素早く手話を紡いだ。

『お父さん、大好き』

 ぎゅっとしがみつく。聡美は俺の頬にキスした。温かい感触。


 ……そうして抱き合っているところを他人に見られるのは、親子とはいえちょっと恥ずかしいものだ。


「おやおや、お邪魔さんかね」

 沙希の祖母、川村静江さんだ。いつものようにきちんと和服を着こなし、建物から出てきたところだった。

 聡美は、ちょっと赤くなってぱっと離れた。

 俺は照れ隠しに言った。

「沙希の話をしてました」

「そうかね。それじゃ仲間に入れてもらおうかの」

 俺たちはさらに思い出話に花を咲かせた。静江さんは手話を交えていろいろ話してくれた。聡美と暮らした年月が長いだけに、手話もよどみない。

 この人がこんなに穏やかな顔で笑えるとは知らなかった。

 静江さんは、俺が知らない沙希の十年間を知っている。沙希の残りの中学時代、静江さんの店で働いていた時代。沙希の意外な一面もいろいろ聞かせてもらえた。


 たとえば。

 そう、沙希はかわいかった。身近な男どもが放っておくはずがない。というわけで、静江さんの店で働いている店員の中に、沙希に恋心を抱いた者もいたらしいのだ。俺も聡美も聞き捨てならない話題なので、思わず身を乗り出してしまった。

 何でも、そいつは中学を卒業して板前の修行をはじめて二年目で、静江さんいわく、真面目でいいやつだったらしい。沙希は中学を終えると、静江さんの店で店員として働き出したのだが、最初は注文を間違えたり、皿を落としたりして怒鳴られっぱなしだったそうだ。で、そいつがいろいろ世話をしてくれたりして、はた目にはいい雰囲気に見えたらしい。


 そいつが十八になったとき、静江さんは沙希に、一緒になる気はないかと聞いたという。沙希は相当悩んだそうだ。しかし、結局、断った。聡美のこともあったが、何よりも自分がいつまで生きられるかわからない、というのが理由だった。

「昔、こんなわたしを愛してくれた人がいたけど、何もしてあげられなかったから」

 沙希は、そう言ったという。

 結局、その男は修行を終えて、別な店に移って行ったらしい。


 俺は、聞いていて正直なところ心中穏やかではなかった。そこで沙希とそいつが結ばれたとしても、俺には何も言えない。結局、沙希はそいつの気持ちを受け入れなかったが、受け入れていた方が、少なくとも沙希自身は幸せになれたかもしれないのだ。

 聡美のほうは静江さんの手話にくぎ付けだった。聡美も、そろそろ思春期を迎える。母親の青春時代の逸話は、この子にどんな影響を与えるだろう。


 静江さんは、聡美が生まれてすぐのことも話してくれた。自分の赤ん坊時代の話に聡美は聞き入っていたが、かなり恥ずかしそうだった。沙希が学校に行っている間、ミルクやおしめの世話はぜんぶ静江さんがやってくれたのだ。

 新しい学校での沙希は、俺といたとき以上に孤立していたという。疎外されるというより、自分から壁を作っていたらしい。暇さえあれば、本を読んでいたという。俺は、沙希の部屋にあった心理学の蔵書を思い出した。父親の悲惨な死を、心の探求で乗り越えていったのだ。おそらく、自分の正気を保つために。

 話は、沙希の両親にまで及んだ。店に来た浜田氏と、店員をしていた沙希の母親、美希さん。浜田氏がハーフだと聞いたのは、このときが初めてだった。茶色の巻き毛には、そんな由来があったのか。

 アメリカの大学で学んでから帰国し、美希さんと出会ったのだという。俺は、浜田氏の書斎にあった山のような洋書を思いだした。

 二人は駆け落ち同然に結婚したそうだ。

「今だから話せること。ずっと許す気になれなかったからね」

 静江さんは語った。おそらく美希さんも、幸せな生活の中で悩みつづけたのだろう。女手一つで自分を育ててくれた母親を、裏切ってしまったと。

 日が翳ってくるまで、俺たちは中庭で話しつづけた。


 その夜。俺がベッドに入ってすぐ、寝室のドアがノックされた。聡美だ。何の用だろう?

 ドアを開けると、パジャマを来た聡美が、心持ち顔を赤らめて立っていた。

『聡美、どうした?』

 俺の問いかけに、おずおずと聡美は手話を返した。

『一緒に、寝てもいい?』

 ははーん。

『お母さんのこと、思い出したか?』

 こくん、とうなづく。


 聡美と一緒にベッドに入った。

 はじめの頃は、このベッドで親子三人が川の字で寝ていたものだ。そのあと、聡美は一人で寝るようになった。しかし、沙希が死んでしばらくは、夜、聡美がベッドにもぐりこんでくることが何度かあった。寂しさに耐え切れずに。今日も、昼間、寺の中庭で母親のことを話したので、寂しさがぶり返したのだろう。

 聡美と俺は、横向きに向かい合って寝て、盛んに手話で思い出話に花を咲かせた。昼間の続きだ。

 奥多摩での一日。初めて川に入って、魚を見たこと。沙希の膝枕で眠ったこと。

 俺は、俺たち二人が中学生のときに、はじめて奥多摩に行ったことを話した。聡美は沙希からは何度も聞いていたが、俺から聞くのはこれが初めてだった。俺も、沙希が聡美に話したことから、沙希自身があの時どう考えていたかを知ることができた。


 沙希は、俺たちの思い出の中で生きている。

 俺たちがこうして語り合うことで、沙希は蘇る。お互いの思い出に耳を傾けることで、思い出は深みを増していく。

 こんな風に心が満ち足りてくるのは久しぶりだった。聡美は眠そうな目をしている。俺は、おやすみ、の手話を紡いだ。聡美は、こくん、とうなづくと、目を閉じた。聡美の髪を撫でる。沙希よりも強くウェーブのかかった、栗色のくるくるとした巻き毛。しかし、それ以外の顔の造作は、少女時代の沙希にどんどん似てくる。

 聡美。沙希の娘にして、沙希の妹。それでも性格は、だんだん違いが出てきている。沙希よりも行動的で、感情もストレートに出している。中一の頃の沙希の場合、自分一人で電車を乗り継いで、どこかに行くなんてことは考えられなかった。だが、それは病弱だったからではないのか? 聡美は、よく熱を出すとはいえ、普段は人並みに暮らせている。もし、沙希も癌にならなければ、聡美のような活発さを持てたのだろうか?


 それは、考えてもわからない。

 聡美が今後、どのように成長していくのか、わからないように。

 それでいいのだ、きっと。人は皆、無限の可能性の中から一つ一つを選び取って人生を紡いでいくのだから。聡美の人生は、沙希のものとはまったく異なるものになるだろう。

 そうならなければならないのだ。


 ……いつのまにか、うつらうつらとしていた。

 気がつくと、聡美の髪を撫でていた手を、聡美の手が握っていた。ゆっくりと持ち上げて、自分の頬に当てている。俺の手に、聡美が頬擦りしているのだ。眠い目をそっと開く。聡美は、俺の手のひらにキスをした。なんてかわいいんだろう。俺の手の中の妖精。

 きっと、半分眠っていたせいだと思う。俺は、聡美の身体を抱きしめていた。俺の腕の中で、聡美の身体が緊張し、顔には恐れが浮かぶ。俺はじっと聡美の顔を見詰める。聡美と目が合う。しばらく見交わしていると、聡美から緊張がぬけた。抱擁に身をゆだね、目を閉じる。


 後になって、夢の中のことのように、このときの抱擁を思い出した。あのときの感じた愛しさは、なんだったのだろう。聡美は、何を感じていたのだろう。俺たちの間に芽生えた気持ちは、父娘の関係に納まりきるものなんだろうか。


 俺は、どこかで恐れを感じたのかもしれない。深く考えることもせず、この疑問を心の中にしまいこんでしまった。

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