第30話 重大危機
今、霧島家は最大の危機を迎えている。
危機の元凶は、香川淳子。二十四歳独身。職業、看護婦。俺の同僚。
決して悪いやつじゃない。むしろ、積極的にいいやつだ。明朗快活、面倒見が良くて、同僚からも患者からも評判はすこぶる良い。少々、ゴシップ好きでそそっかしい点はあるが、それさえもご愛嬌と言えなくはない。
その、折り紙つきのいいやつが、霧島家の生存を脅かしているのだ。
あの「母と子の観劇教室」の一件以来、香川の方には、俺の恋人という錯覚が生まれているらしい。おかげで、しばらくの間、俺は聡美から裏切り者扱いされてしまった。その溝は、いまだに埋まってない。
沙希と付き合ってるときもそうだったが、いまだに俺は愛だの恋だのをフランクに話すのが苦手だ。それに、香川自身のことは、決して嫌いではない。以前、やつ当たりをして傷つけてしまったという負い目も感じてる。
そんな、俺の優柔不断さも、事態の解決を困難にしている要因の一つだった。
世間的に見れば、妻と死別して一年近くたっている。再婚を考えても誰からも非難はされない。ましてや、年頃の娘を抱えていれば、周りの方が放っておかないものだ。
ここしばらく、部長に呼び出されては見合い写真を押し付けられていた。それがぱたりとやんだのは、香川との仲が噂になっている……というか、香川が喧伝しているとしか思えないのだが……そのせいだと思う。……その一点だけはありがたいんだが。
聡美の気持ちもよくわからない。以前から香川のことは「淳子ちゃん」と呼んで慕っていた。俺が香川と一緒にいると機嫌が悪いくせに、その敵意はみんな俺のほうに来て、香川への好意はちっとも減らないのだ。それじゃ不公平だ、と何度も聡美には言っているのだが、聞く耳を持たない。……いや、手話だから目か。
ともかく、この点をきっちり決着つけない限り、我が家に平和は来ないのであった。
観劇事件から一週間後。そろそろ、俺も限界だった。俺には、聡美の笑顔が必要なのだ。情けない父親だが、一日一回は娘の笑顔を見ないと、生きていけない。
あのあと、聡美とは何度か仲直り寸前にまで行ったのだが、そのたびに香川のゲリラ活動によってぶち壊されている。何しろ、最近の香川は出張出前つきなのだから。
その朝も、俺が洗面所で顔を洗っていると、聡美がパタパタと背後を玄関へ向けて走っていく。何かと思ったら、香川が紙袋を下げて上がってきた。
「霧島先生、おはようございまーす」
にこやかに微笑んでキッチンへ向かう。またやられた。
ちなみに、以前は沙希が必ずいたのでつけなかったのだが、今は玄関の呼び鈴も回転灯につないである。聡美が一人で留守番する機会が多いためだ。リビングにも回転灯を増設した。そうしたら、配線のアンペアが足りなくてベルが鳴らなくなってしまった。
……というわけで、今朝の奇襲は防ぎきれなかった。
敗北を意識しながらダイニングに向かう。危惧したとおり、そこには香川特製朝食メニューが勢ぞろいしていた。このところ毎日だ。
沙希も、ろくに食えない身体なのに、料理が好きだった。しかし、香川の場合、好きとかそういう領域を越えて、命でもかけてるんじゃないかというぐらいの気迫がある。気迫は結構なんだが……朝からフルコースを出されても困る。
「ささ、座って座って」
手話を交えて香川が迫る。短期間によくぞ上達したものだ。将を射んとすればまず馬を射よ、の戦術も見事。聡美にとって、香川は「大好きな淳子お姉ちゃん」なのだ。
唯一の問題は、香川が俺といちゃつこうとすると(誓って言うが、逆じゃない)、聡美が俺に腹を立てるという点だ。これが、どうしても香川には理解できないらしい。そりゃそうだ、父親である俺にも理解不能なんだから。おそらく、聡美自身にも説明できないだろう。
「はい、あーん」
ほどよく焦げ目のついたソーセージを、香川がフォークで刺して俺のほうへよこす。
ううう、頼む、聡美、そんなに睨まないでくれ。お父さん、好きでやってんじゃないんだぞ。
「どうしたの?」
「……聡美が睨むんだ」
「え? そう?」
香川が目を向けると、聡美はニカッと笑う。目をそらすとまた睨む。……小悪魔。
「ご機嫌じゃない。はい、あーん」
「あのさあ……」
の、「あ」のところでソーセージを突っ込まれてしまい、あとはもごもごとなってしまう。
うー、聡美の視線がさらに強くなった。
「香川」
ようやくソーセージを始末して、俺は言った。
「なあに?」
「今日、夕方時間ある?」
「え? え? え? あ……あります、あります!」
ううう、香川は「お目々ウルウル」になるし、聡美の視線は一万ボルトだし。
「大事な話がある」
「は、はいっ!」
これだ。またそうやって、胸の前で手を組んで、乙女チックムードを自己演出する。聡美の視線、百万ボルトに上昇中。
俺は何も悪いことしてないのに、なぜか自分の家で針のむしろ状態なのだ。
沙希……助けてくれよ、ほんとに。
香川が片付けに入ったのを見計らって、俺はそそくさと家を出た。聡美の「いってらっしゃいの笑顔」が欲しくてたまらなかったが、今日ばかりは諦めるしかない。
その日は、猛烈に仕事をした。三日分はやっただろう。少しでも時間が空くと、カルテや医薬品の整理までやった。食事も、サンドイッチをつまみながら仕事仕事。すべて、合法的に香川の接近を排除するため。
ようやく夕方になって、早番で上がりになったとき。更衣室で香川が待ち構えていた。例の乙女チックムード自作自演中だった。
「先生……あたし感激してます」
なんか、勝手に盛り上がってる。まずい。
「この時間を作るために、あんなに働くなんて」
すっかり誤解されているようだ……。
「とにかく、出よう」
「はい!」
病院から出る俺たちは、誰がどう見たって熱愛真っ最中の恋人同士に見えただろう。香川は全身から強烈なハート光線を乱射しつつ、俺の腕にぶら下がって歩いてたのだから。香川が舞い上がれば舞い上がるほど、俺は果てしなく落ち込んでいった。
とにかく、ゆっくり話せる場所でないと。そう思って、駅の近くにある喫茶店に入った。それが失敗だった。
……沙希のときも最初はそうだったが、どうも俺は異性を目の前にして素直に話すのが苦手だ。考えてみれば、中一の冬以来、デートないしそれに順ずることにはとんと縁がなかった。だから、話を切り出すまでのしばしの間、俺は鉛のように沈黙していた。
いっぽう、香川の方も沈黙していた。様子が変だくらいは思いそうなものだが、どうやら自分の世界に浸りきってしまっているらしい。
俺は俺で、必死だった。
香川はいいやつなのだ。もし、俺が沙希や聡美に出会っていなかったら、惚れていたかもしれない。だが、俺は沙希に出会って、おそらく一生消えないくらいの影響を受けてしまった。沙希は、文字どおり命がけで俺にぶつかってきたのだ。そんな相手はそうそう見つからない。
だから、俺は香川を愛せない。友人として、同僚として、楽しく付き合うことはできても、自分の人生の半分をゆだねる相手としては……少なくとも、妻としての沙希や、娘としての聡美のようには、見ることができないのだ。
俺は困り果てていた。できることなら、香川を傷つけたくない。こんな、善意のかたまりみたいなやつを。だが、俺は……俺は、聡美のためなら、どんな悪人にでもなれる。
「香川……」
さすがに、俺の声の調子でわかったのだろう。香川は夢から覚めたようにはっとした。
「今日、時間を取ってもらったのは、おまえを口説くためじゃない」
香川は黙りこくっている。
「香川、おまえはいいやつだ。世話好きだし、誰にでもやさしいし。だから、きっと俺の言うこともわかってくれると思う」
香川はうつむいていた。照明の影になって表情が見えない。
「俺は、おまえを愛せない」
ぴくり、と肩が震えた。
「沙希が……女房が死んでから一年近くたつ。でも、あいつは俺の中で今も生きている。娘の聡美の中でも」
口の中がからからだった。コップの水で冷やす。
「他の女性を愛するには、心の中から沙希を消し去らなきゃならない。でも、不可能だ」
俺は体を起こし、身を乗り出していった。
「そんなことをしたら、死んでしまう。俺も、聡美も」
ため息をついて、言葉を続ける。
「俺が死ぬのはいい。だが、聡美なんだ、一番大事なのは」
つばを飲み込む。間を置いたら、言えなくなる。
「俺が沙希を忘れたら、あの子は俺を許してくれない。だから、あの子が俺を必要としている限り、俺は沙希を忘れられない」
香川は泣いていた。肩を震わせて、声を殺して泣いていた。
「……わかってました」
しゃくりあげながら、香川は言った。
「毎日、沙希さんの世話をしていて、絶対この人にはかなわないって」
ハンカチを出して涙を拭く。
「でも、好きになっちゃったから、やるだけやってみようと……」
すっと立ち上がる。
「今日まで、ありがとうございました」
一礼して店を出て行った。
……いいやつなんだ、ほんとに。
なのに俺は、こんなにひどく傷つけてしまった。
浜田氏の自殺の時と同じだ。なんでこんな風に、誰も何も悪くないのに、みんなが苦しむんだろう。
俺は、すっかり冷えてしまったコーヒーを飲み干した。滅茶苦茶、苦かった。
店を出ると、俺はますます気が滅入ってきた。香川のことは前半戦。まだ後半戦があるのだ。重い足取りで、俺はアパートへ向かった。
家に帰ると、聡美は自分の部屋らしかった。
俺はボタンを押した。おずおずとドアが開く。
『話がある。入っていい?』
俺の表情に気づいたのだろう。聡美はうなずくと、俺を入れてくれた。俺に床のクッションを薦めると、自分は直接床に正座した。
『今日、淳子ちゃんと話した』
聡美の表情が硬くなる。
『お父さん、お母さんのこと、覚えてる。だから、淳子ちゃんのこと愛せない』
瞳が潤みだした。香川のことを思ってるのか。
『聡美も、お母さんのこと、覚えてる。だから、お父さんも忘れない』
どんどん涙がこぼれてる。泣かないでくれ。それが一番つらい。
『お父さん、聡美が、一番大事』
飛びついてきた。ぎゅっと抱きしめてくる。久しくなかった感触。俺は、聡美の髪の毛を優しく撫でながら、ようやくおとずれた緊張緩和を満喫した。
しばらくして身体を離す。残念だが、密着していると手話が使えない。
『明日から、淳子ちゃん、来ない。聡美、大丈夫?』
こっくり。寂しそうだった。
俺は胸が締めつけられるようだった。
聡美には友達が少ない。香川は、その中でも最も親しい人だったはずだ。しかし、すべてを同時に手に入れることはできない。聡美も、そのことを学んでいい時期だ。
こうして、霧島家には以前と同じ平和が戻ってきた。
そのはずだった。
翌朝、俺が顔を洗っていると、背後を聡美がパタパタと玄関へ。……嫌な予感が。必ずあたる、嫌な予感が。
「おはよーございまーす」
あっけらかんとした香川が、またしても紙袋一杯に朝食を持ってあがってきた。
唖然としてダイニングへ行くと、昨日の朝とまったく同じ光景。
「おい、香川、これは一体……」
香川はにっこり笑うと、手話を交えて言った。
「無料家政婦の香川淳子です。よろしくお願いします」
「はあ?」
香川は、殊勝な顔で続ける。
「わたし、聡美ちゃんが大人になるまで待っても構いません。それまで、単なる家政婦でいいですから」
「お……おい、ちょっと」
「も・ち・ろ・ん、不必要に迫ったりしませんから、ご安心ください」
「安心って……」
甘かった。
香川の「いいやつ度」を、軽く見積もっていた。この分では、絶対、自分の本心がわかっていない。なんたって、潤んだ目で、両手を胸の前で組む、お決まりの自作自演モードにはまっているのだから……。
聡美は有頂天だった。
大好きな淳子ちゃんといられて、父親を取られる心配もない。そう信じ込んでいる。信じるのは簡単でいい。信頼に応えさせられる身にもなって欲しいものだ。
……結局、説得を重ねて、ようやく香川の出張出前サービスは、朝・夕どちらも週一回程度に減らしてもらった。看護婦の給料だってそんなに高いわけじゃない。買える食材だって限りがある。だが、香川の場合、放っておいたら給料全部つぎ込みかねないのだ。
それから、玄関のベルがちゃんと鳴るように直したのは、言うまでもない。
この分じゃ、まだまだ前途多難だぞ……沙希。
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