第29話 母親代理
一つ、困ったことがあった。
聡美があの男の子と喧嘩した原因が、性の問題とからんでいるという点だ。男親としては、非常に扱いにくい問題だ。
学校の担任……児島先生というそうだが、エイズと性の問題に真面目に取り組んでくれた。女性の副担任と一緒に、詳しい特別授業をしてくれたらしい。俺も、参考資料などを紹介するなどして協力した。
聡美も、あの隆という男の子も、あのあとはトラブルなくやっているらしい。仲良く、とは行かないようだが。隆君の両親は、一時期訴訟問題云々を持ち出したらしいが、児島先生が諭してくれたので収まった。つくづく、世の中には難しい人種がいるものだと思う。
というわけで、俺の悩みは、聡美の性にからんだ諸問題をどう扱うか、という点に集中した。なにしろ、俺は聡美の初潮にあれだけうろたえてしまったほどだ。今後、聡美が思春期を迎えて恋でもしたら……どうしていいかわからない。きっと、おろおろしてしまうだろう。
聡美には、やはり母親がわりの女性が必要だ。その、俺の結論は間違っていないだろう。問題は、母の死から一年近くたっても、聡美がそれを望んでいなかった、ということだ。
香川淳子。
新米医師の俺をさんざんからかってくれた、うちの病院の看護婦。普段はちゃらちゃらした印象で、大のゴシップ好きだが、沙希の臨終前後では意外なやさしさを見せてくれた。聡美にも良くしてくれたし、聡美もなついていたので、ちょっと世話をお願いした。それだけのつもりだったんだが……。
「ええっ、聡美ちゃんの付き添いですか!」
目を輝かせて香川は言った。頼むから、そんな胸の前で手を組まないで欲しいんだが。
「う……うん、まあ、迷惑でなかったらなんだけど」
「迷惑だなんて、そんな……霧島先生のためでしたら」
……雲行きが変だ。
「いや、聡美のためなんで、そのへんよろしく」
「どっちでも同じですわ!」
……違うということにして欲しい。とにかく、頼んだことは頼んだ。
聡美の小学校で、「秋の母と子の観劇教室」なるものがあるというのだ。母親と一緒に感動的な劇を見て、一緒に涙を流して親子の絆を強めよう……とか、そんな意味のことが、パンフレットには書かれていた。
最近は、片親の子供も多い。聡美のような死別よりも、離婚やシングルマザーが増えている。母のいない子も増えている。なのに、「親と子」ならまだしも、なぜ「母と子」なのか、理解に苦しむところだが……。
とにかく、俺は女装でもしない限り付き添ってやれないので、母親代理が必要なのだ。ちなみに、聡美は俺の女装という冗談がよほど気に入ったらしく、やたらとせがまれて困った。……それだけは勘弁して欲しい。
というわけで、聡美には香川と一緒に行ってくれと伝えた。が、なんだか機嫌が悪い。
『どうした? 淳子ちゃん、嫌い?』
聡美は香川を淳子ちゃんと呼んでいる。
『嫌いじゃない。でも、お母さんじゃない』
聡美は、自分の気持ちを表現するのに苦労していた。
『お母さんは一人でいい。別なお母さんはイヤ』
聡美にとって、それだけ沙希は大きな存在だったのだ。
当然だろう、俺だって……全部合わせても、ほんの二年足らずしか一緒にいなかったのに、こんなに大きな位置を占めているのだから。聡美はこれまでの人生のほとんどを、沙希と一緒に生きてきたのだ。他のもので置き換えるには、少なくとも同じくらいの時間がかかるはず。
『今回だけ。お母さんにするわけじゃない』
……子供に対して、うかつな約束をするもんじゃない。俺はこのとき、その原則を忘れていた。
『……わかった』
聡美はようやく納得してくれた。
俺はほっとした。これがあとで悶着を起こすとも知らずに。
残暑がようやくおさまった、観劇教室の当日。
病院に電話がかかってきた。香川からというので、とたんに嫌な予感がした。そして、嫌な予感というのは大抵当たるのだ。
「霧島先生……ううう」
やっぱり。泣いている。
「おい、香川、どうした? 何があったんだ?」
「あの、聡美ちゃんが……聡美ちゃんが……」
貧血だろうか? 行列待ちなんかで、よく倒れたことがあった。
「わかった、安静にしておけば大丈夫だから。看護婦なんだから、処置の仕方くらい……」
「違うんです!」
そんなに大声出さなくても……耳をほじってから受話器を当てなおす。
「だから、聡美がどうしたんだ? 貧血じゃないのか?」
「急に、いなくなっちゃったんです、劇の途中で」
なんでも、劇のクライマックスのところで、いきなり席を立って劇場から走り去ったというのだ。
「一体、その劇の内容って……」
さらに嫌な予感。俺はあらすじを聞き出した。
……案の定、病気の母と娘の物語だった。マッチ売りの少女を元にしたやつで、そのプレストーリーからを描いたものらしい。母親を無くして一年足らずの多感な女の子には、刺激が強すぎる。
「わかった。聡美は沙希のことを思い出して、それで居たたまれなくなったんだ」
「……どうしましょう、先生」
聡美が行きそうなところ。母親の思い出。場所としては多くない。沙希はほとんど出歩けなかったのだから。
「香川、君はそこにいてくれ。ひょっとすると、戻ってくるかもしれない」
「はい。先生は?」
「心当たりを当たってみる」
俺は、電話を切って当直表を確認し、当番を代わってもらった。着替えて病院を飛び出す。
もう六年生だから、一人で電車に乗れる。年末の同窓会に一人で乗り込んできたほどだ。その気になれば、行動範囲は意外に広い。
思い出の場所。
奥多摩は無理だ。駅から遠い山の中だから、車がいる。
荒川のアパート。思い出は一番多いはず。まずは、静江さんに電話だ。俺は公衆電話から静江さんに連絡した。沙希の祖母。聡美はひ孫にあたるので、安心して任せられる。
次は、今のアパート。一番ありそうなことだ。俺は、自宅まで走った。社会人になってから、こんなに走ったのは初めてだ。俺はメモ用紙をちぎると、聡美に当てた伝言を書き、表のドアに貼り付けた。
あとは。沙希の墓は俺の実家の方にある。だが、なぜか違うという気がした。
聡美は、何を思って飛び出したのか。香川から聞いたあらすじをもう一度思い出す。
病気の母と娘の物語。父親は家庭を顧みず、娘はたった一人で母親を看取る。このあたり、沙希の体験に少し似ている。父親はさっさと再婚し、娘を邪険に扱う。娘は仕方なくマッチを売って暮らすが、最期に天国に行った母が現れて……。
天国。そうだ、天国だ。俺は空を仰いだ。あの時と同じ、雲ひとつない秋の青空。
聡美のもとへ、俺は走った。
火葬場の庭で聡美を見つけたときは、そろそろ日が傾いてくる頃だった。聡美は庭の真中で、じっと立ち上る煙を見ていた。目に涙を一杯ためこんで。下を向いたら一気にこぼれてしまうだろう。
聡美にとっても、俺にとっても、沙希の死はつい先日のように生々しいものだ。息を詰まらせ、血を吐きながら死んでいった姿。最期のメッセージ。愛してる、と沙希は言った。愛し合って、と俺たちに願って。
後ろから、聡美の両肩にそっと手を置く。びっくりした拍子に、何粒かの涙がこぼれ落ちた。そのまま言葉もなく見つめあい、もう一度、一緒に空を見上げる。
天国なんてあるのだろうか。俺には、わからない。だが、今、沙希がいる場所として、それ以上にふさわしいところはないだろう。
俺は、通夜の時に見た沙希の夢を思い出した。
(わたしはいつも一緒。そう言ったでしょ?)
俺の中に、聡美の中に、沙希はいる。
そう、天国というのは、俺たちの心そのものなんだ。
願わくば、俺たちの心が、この青空のように、いつも澄み渡っていますように。
沙希の顔が、いつでも見れるように。
家に向かう電車の中で、ようやく香川のことを思い出した。あの様子では、律儀にずっと待っているに違いない。時計を見ると五時。そろそろ観劇教室の開かれていた区立公民館が閉まる頃だ。
『淳子ちゃん、迎えに行こう』
聡美に話し掛ける。
『きっと、心配している』
聡美は、浮かない顔をしていた。
『お父さん、淳子ちゃん、好き?』
そうきたか。好きといっても、いろいろあるからなぁ。
『嫌いじゃない』
『……好き?』
聞きたいことはわかるんだが。
『淳子ちゃんは好き』
とたんに顔が曇る。あわてて続ける。
『でも、お母さんの方が好き』
ちょっと持ち直す。
『お母さんの好きと、淳子ちゃんの好きは違う』
興味津々になってきた。
『お父さんはお母さんにキスする。でも、淳子ちゃんにはしない』
わかるだろうか。聡美はちょっと考え込んでいる。
『お父さん、聡美にも、キスする?』
うー、これは困った。
『聡美とお母さん、同じくらい好き。でも、聡美にはキスしない』
混乱してきたらしい。泣いていいのかどうか悩んでる様子。
『わたし、子供だから、キスしないの?』
うなづいた。俺の子供だから、という意味で。
聡美はようやく納得できたらしい。俺は、心底ほっとした。
そう、このときは面倒を背負い込んだなどとは、つゆだに思ってなかったのだ。
駅から五分のところに、区立公民館があった。もうすっかり暗くなっており、門は閉まっていた。その外側に、ぽつんとたたずむ人影。
「香川、ご苦労さん。すまなかったね」
声をかけると、香川は駆け寄ってきた。
「先生!」
俺に抱きつき、……キスした。
やばい。
唇を引っぺがそうとしたが、香川はものすごい力で俺の頭を抱え込んで離さない。ちら、と聡美を見ると、ものすごい剣幕で怒ってる。
「! ……!!!」
必死に手話を送ろうとするが、香川の身体が邪魔で両手が自由に動かない。
げし。聡美キック。
俺はむこうずねを思いっきり蹴られて、脚を抱えて飛び跳ねる。なのに、香川はぴったり張り付いたまま。
俺が必死に助けを求めているにもかかわらず、聡美は一人で駅の方に向かいだした。
……そのあと何日も、聡美は手話に応えてくれなかった。一方、香川はよりいっそう積極的になってきた。
沙希……おまえが死んじまうからいけないんだぞ。もう。
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