二人
第28話 闘う聡美
自分でも驚いている。
沙希が逝った秋以来、俺も聡美もごく普通に暮らせているのだ。
朝、目がさめて隣に沙希がいないのは、入院してからずっとだった。だから、すぐにどうということも無かった。最期の入院期間は、俺たちに予行演習をさせてくれたのだ。
それでも時折、何かの拍子に、沙希のことを思い出して涙が止まらなくなることはある。たとえば、風呂から上がって着替えが無くて、ふと沙希の名前を呼んでしまったときだ。
だが、そんなときは聡美も同じ気持ちになるらしく、しばらく二人で寄り添って嵐が通り過ぎるのをじっと待つのだった。
もし、聡美がいなければ、俺は絶対にどうにかなっていただろう。情けない話だ。二十五にもなる大人が、小学生の娘を頼っているのだから。
実際、聡美はほんとによく頑張っている。沙希が教えておいてくれたので、今では家事のかなりの部分をやってくれているのだ。
小学校の帰りに買い物をし、俺が帰宅する頃には夕食が出来上がっている。俺は掃除とか洗濯とかをやらされている。まあ、この手の身体を動かすものは、昔から沙希に頼まれていたが。
その聡美だが、六年生になっても、相変わらず学校では孤立してしまっているらしい。こればっかりは、俺にもどうしようもない。
ただ、以前に比べると活発さが出ているので、心配はいらないと担任は言っている。先日など、それを象徴するような事件があった。
聡美のことで学校に呼び出されるのは、これまで何度もあった。よく熱を出しては寝込む子だったし、体育や朝礼で倒れたことも数え切れない。しかし、今回は初めての、思っても見なかったケースだった。
聡美が、いじめっ子の男の子と取っ組み合いの喧嘩をしたというのだ。これには俺も驚いた。しかも、聡美が勝ったと聞いた時は耳を疑った。相手の男の子が泣いても、聡美は泣かなかったという。
午前中の早い時間だったが、俺は病院を早退して、聡美の小学校へ急いだ。慌てていたので、白衣のまま来てしまった。さすがに目立つので、校内に入ったら脱いだのだが。
職員室に入ると、立たされている聡美が目に止まった。ボロボロだった。今朝は茶色の巻き毛を左右に分け、リボンで止めてあったのだが、片方のリボンが無くなって波打つ髪の毛がそのまま腰までたれている。もう片方のリボンも、くしゃくしゃになっていた。服も埃だらけで、あちこちかぎ裂きができている。手も足もあざだらけ。やれやれ、被害甚大だ。
しかし、その表情を見た瞬間、今度は我が目を疑ってしまった。まだおさまらぬ怒りのこもった眼差しで、前に座っている男の子を睨んでる。こんな聡美、見たことが無い。
聡美と男の子の間に立っていた担任が、俺に気づいて声をかけてきた。
「ああ、霧島さん、こちらへどうぞ」
手近な椅子を指し示す。だが、座る気になれなかった。
「一体、何が……?」
ベテランのはずの担任が、頭を掻いた。
「いや、どちらも一言も喋らないもんですから、はっきりしないんですが……」
俺は男の子の方を見て気がついた。参観日のとき聡美を笑った父親の息子だった。涙に汚れた顔で椅子に座っている。あざや擦り傷だらけだ。
担任が説明をはじめた。
「今朝、教室の黒板に、この子が落書きをしたらしいんです。それを見た聡美ちゃんが怒って消したんですが、そのまま喧嘩になりまして、わたしが来たときは取っ組み合いの真っ最中でした」
聡美が、学校で怒ったのか。そう、ひどいことされたら、足を踏んでやれと言ったのは俺だった。聡美は言いつけに従ったのだ。……少々、やりすぎたようだが。
俺は、聡美に手話を送った。
『なんで、怒ったの?』
返事が無い。ちらりと手話に目を止めたあと、また男の子を睨みつけてる。
「ずっと、こんな調子でして」
担任も手を焼いているらしい。聡美の様子から、まだしばらくは落ち着きそうもないとわかる。
「こちらの男の子は?」
「このとおり、だんまりです」
俺は、男の子に向かって話し掛けた。
「君、名前は?」
沈黙。顔もそむけたままだ。
「黒板に、何を書いたの?」
まだ沈黙。
「傷が痛む?」
肩に手が置かれた。聡美の手だ。振り返ると、聡美は首を横に振った。かまうな、というのだろうか。
その時、男の子が聡美に向かって、信じられない言葉を吐いた。
「エイズ女」
口の動きでわかったらしい。聡美の怒りが、俺の目の前で爆発した。男の子に飛びかかると、その腕に噛み付いたのだ。
職員室は大騒ぎになってしまった。俺は、聡美を引き離そうと必死になって抱きかかえた。やっと引き離したとき、聡美の口からは血が流れていた。ギョッとして男の子の腕を見ると、皮膚の一部が食いちぎられていた。なんてこった。
医務室で消毒と縫合をしてやった。自分が医者でよかった。午前中に骨折した子がいたとかで、校医が留守だったのだ。聡美は、落ち着くまで職員室にいてもらっている。
「さて、これで良し」
包帯を巻き終わると、男の子の肩をぽんと叩いた。
「でも、なんであんなこと言ったんだい?」
まだ沈黙。
「エイズが何か、知ってるの?」
沈黙が続く。そこへ、突然の台風。
「隆!」
黄色い叫び声。三十前後の女性が、ブランド品の満艦飾で飛び込んできた。
「まあまあ隆かわいそうにこんなひどいことされてどこの誰がやったの? お母さんすっ飛んで来たのよ」
一息で喋る。沙希なら、息が切れちまうな。
「ええと、隆君のお母さんですね」
呼びかけると、母親は化粧の濃い顔で俺を見上げた。
「ああ先生どうもありがとうございました、きちんと手当てしていただいてこの学校もいい校医の先生がいらっしゃるから安心して子供を通わせられますわ」
一体、どこで息継ぎしてるんだろう? だいたい、すっ飛んで来たのに、こんなに化粧が濃いのか? ……いや、それどころじゃない。
「あの……俺は校医じゃなくて、いや、医者ですけど、霧島聡美の父です」
「はい?」
今度は短かった。今のうちに説明しておかないと。
「ええとですね、うちの娘とお宅の息子さん……隆君が喧嘩をして、怪我をさせてしまいまして……」
最後まで言わせてもらえなかった。
「まー! じゃあなんですかお宅の娘さんは男の子に噛み付くような凶暴な性格なんですの、参りましたわほんとに近頃の女の子といったら色気づくのは早いわ変な病気にはかかるわ子供はへーきで産み散らかすわ」
……なんだ? なんの話だ?
「あの……すみませんが」
「親が親なら子も子ですわよだからあんな早死になんかするんですわ、まーひどいそんな病気をうちの大事な隆にうつされたりなんかしたら」
「ちょっと待ってください!」
俺は声を荒げた。
「沙希……俺の女房は癌で死んだんです。うつる病気じゃありません」
「はい?」
厚化粧がきょとんとする。
「聡美だって……うちの娘だって、『変な』病気じゃありません」
だんだん腹が立ってくる。
「変なのはあんただ。いい加減な憶測で死んだ人間や子供を傷つけるようなことを言って!」
厚化粧がひくひく引きつりだした。剥がれ落ちるんじゃないかと思った瞬間、言葉の奔流が俺を押し流した。
「わ……わ……わたしが何を言ったというんですの! 誰でも知ってることでしょ大体中学生で子供を産むなんて乱れているからに決まってるじゃないですかそういうあなたも同じなんでしょどうせ興味本位でやっておいて仕方がないから今ごろ籍を入れたりして……あいた!」
奔流が止まった。
「聡美……」
目に一杯涙をためた聡美が、厚化粧のハイヒールの甲の部分に、全体重をかけたキックを見舞ったのだ。とりあえず、でかした。
「聡美、来い」
手話を使う時間が無いので、そのまま腕を取って医務室から脱出した。走りながら手話を送る。
『荷物、とって来て』
『どうするの?』
『逃げる』
聡美はにっこりした。
公園まで来て、埃に汚れた顔や手足を洗ってやる。リボンも取って、巻き毛をポニーテールにまとめなおした。あざはしばらく消えないが、これでようやくいつもの聡美に戻った。ほっとして、ベンチに並んで座る。
喧嘩の理由は、聞くまでも無かった。母親が中学時代に子供を産んだことと、病弱で早死にしたことが、無責任な憶測を生んだのだ。それを両親の会話か何かで聞き込んだ、あの隆という男の子が、黒板に無神経ないたずら書きをしたのだろう。愛する両親を侮辱された聡美は、我を忘れて掴みかかったのだ。
俺は聡美を見た。聡美も、俺を見た。
『聡美、強いな』
聡美はびっくりしたように目を見張る。
『お母さんみたいだ』
聡美は微笑んだ。
沙希なら、取っ組み合いはできなかっただろう。でも、絶対に黙ってはいなかったはずだ。蛮勇をふるうような勇気はなくても、辛抱強く筋を通していく強さがある。体力の違い、
聡美を家に送ってから、電話で担任に事情を説明した。担任は理解を示してくれた。俺は、エイズという病気に関しても、生徒にきちんと説明してくれるように頼んだ。専門知識が必要なら、いくらでも協力するから、と。難しい注文だが、担任は約束してくれた。
沙希……聡美は大丈夫だ。おまえが言ったとおり。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます