第26話 あいしてる

「わたしが死んだら」

 沙希が言った。

「献体したいの」

 俺は、しばらく言葉が出なかった。


 献体。医学の実習や研究用に、自分の遺体を寄贈すること。

 尊い行いだ。そして、非常に意義のある行いだ。特に外科医の場合、手術の技量はメスを握った回数に比例すると言ってもいい。解剖実習が無ければ、その腕を磨くチャンスが無い。最近は実習用に人体そっくりの人形も使うが、本物の体組織とはやはり違う。何よりも、実際に人生を生き抜いてきた人間の身体は、一人一人の歴史を刻んでいる。器官の形、脂肪のつき方、病変部など、同じ身体は二つとない。


 沙希の身体は、その意味では実に貴重だ。全身にこれだけの数の腫瘍を抱え、こんなに長く生きてこれた症例は、世界中を探しても珍しい。癌の研究にも、多大な貢献となるだろう。


 しかし……しかし。


 当然ながら、俺も解剖実習を体験したことがある。参加した全員が、敬虔に、真摯な態度で遺体を扱ったのはもちろんのことだ。それでも、解剖自体にはロマンなど入り込む余地はまったく無い。

 喉もとから下腹部までメスが入れられ、器具を使って肋骨が折られ、胸を観音開きに開かれる。さらに、情け容赦なくメスは入り、心臓をはじめとして臓器という臓器が抜き取られる。後に残るのは、がらんどうになった遺体。文字どおり、人間の抜け殻だ。


 俺は、抜け殻にされた沙希の姿を思い浮かべてしまった。手術台の上に横たわる、血の気を失った白い裸体。切り開かれた胸からは赤黒い空洞がのぞく……。

 沙希の手が、俺の肩に置かれた。俺は、顔を覆ってうずくまっていたらしい。くそ、だめじゃないか。沙希は、自分にできる限りのことで、自分と同じ病を持つ人たちの役に立とうとしているのに。医者である俺が、うろたえてどうする。

 俺は体を起こすと、沙希に向き直った。

「わかった。手続きが必要だから、書類を用意するよ」

「おねがいね」

 にっこりと笑う。まるで、スーパーへの買い物を頼むみたいな口調だった。


 この夏休み、聡美はほとんど毎日見舞いに来た。俺と聡美が揃っていると、痛みが引いていく。そう沙希が言ったからだ。実際、鎮痛剤の消費量は以前よりもむしろ少なくなっている。人間の脳は不思議なもので、幸福感が鎮痛作用をもたらすらしいのだ。

 それでも、俺は何度か休みを取って、聡美を海や山に連れ出してやった。気分転換が必要だし、それに、これから二人で暮らしていくための予行演習でもある。そうして撮った聡美の写真や、聡美が手話で語る思い出話が、沙希へのなによりの土産になった。


 あれ以来、聡美のわだかまりは消えたようだが、間近な母の死をどのように受け止めているのか、よくわからない。おそらく、本人もわかっていないはずだ。俺自身の小学五年の頃を振り返っても、死というものをどれだけ理解していたかあやしいものだ。

 しかし、物心ついて以来、病弱な母に付き添ってきた聡美のことだ。幼いなりに決心はついているように見える。現に、今日もきちんと学校へ行っているし、担任からも以前と変わらないようすだと聞いている。ただ、相変わらずクラスでは孤立しているようだ。


 早番で仕事を終えて沙希の病室に戻ると、聡美が見舞いにきていた。ベッドのそばに腰を下ろし、なにやら沙希と手話を交わしていたが、俺の姿を見て、ぱっと駆け寄ってくる。

『おかえり、聡美』

『ただいま、お父さん』

 最近では、アパートに帰るのは寝るときだけで、すっかりこの病室が我が家のかわりになっている。他愛もない手話が、三人の間でひとしきり飛び交う。やがて面会時間が終わり、聡美を連れて病室を出る。


 父娘並んで家路を向かう。西の空には夕焼けの名残があるが、天頂部は真っ暗で、夏の星座が瞬いていた。もう、日の落ちるのが早くなってきている。

 それが、沙希の死期が近づいた証のような気がして、俺は胸が締め付けられるように感じた。思わず、聡美の手を握る力が強くなったらしい。聡美は、つんつん、と握った手を引っ張った。俺が振り返ると、聡美は手話を紡ぐ。

『お母さんのこと、考えていた?』

 お見通しらしい。

『聡美は、大丈夫か?』

『大丈夫。お父さんがいるから』

 嬉しいことを言ってくれる。

『お父さんも、聡美がいるから大丈夫』


 そうあって欲しい。切に願う。


 二週間後。

 沙希の口には、気道確保用の管が差し込まれていた。腫瘍が急速に大きくなり、気管支が塞がれそうになったため、管を通して無理やり空気が通るようにしているのだ。だが、これ以上腫瘍が肥大すれば、気管支そのものが持たない。

 呼吸のたびに激痛が走っているはず。既に、使っているモルヒネの量は、規定の三倍近くになっている。脂汗が止まらないのは、それでも効いていないという証拠だ。いよいよだった。


 もう、沙希の声を聞くことはできない。頬はこけ、体力も急速に落ち、腕を上げることもできない。だから、手話も使えず、一文字ずつ綴る指文字だけが頼りだった。

 苦しそうな様子で、沙希は胸の上に置いた右手で、指文字を綴る。

『さとみ くる?』

 もう片方の手を握りながら、俺は答えた。

「今、学校に連絡が行ったはずだ。同僚が迎えに行ってる」

 ドアが開いた。もう一人、連絡をしておいた相手がやってきた。俺は沙希の左手を握ったまま立ち上がり、丁寧に礼をする。

 沙希の祖母、川村静江さんだ。

「お忙しいところ、どうも……」

「聡美はどうしたね?」

「今、向かっているはずです」

 静江さんは沙希の方に向かいなおった。

「具合はどうかね」

 沙希はわずかにうなずく。いいはずが無い。だが、少しはましになったのだろうか。表情が和らいでいる。

「あんたはどうだね? 大丈夫か?」

 相変わらず、単刀直入な人だ。

「大丈夫です」

「約束は、きっちり守ってもらうからね。覚悟しておおきよ」

 沙希の最期を看取ると、この人と約束したのだ。俺ははっきりと答えた。

「はい」

 そこへ、看護婦の香川に連れられた聡美が来た。ランドセルを背負ったまま、まっすぐ母親のもとに駆け寄る。

『お母さん』

 紡ぐ手話は震えていた。

 沙希はにっこり微笑んだ。管の差し込まれた口では難しいだろうに。胸に置いた右手が、弱々しく指文字を綴る。

『おとうさんの そばへ』

 聡美は反対側に立つ俺のところへ来た。そっと、俺の腕にすがる。

『てを かさねて』

 俺は聡美の手を取ると、沙希の手を握る俺の手に重ねた。一瞬、沙希の表情が和らぐ。だが、そのときだった。

 沙希の呼吸が乱れてきた。ごろごろという異音が入る。まずい、と思った瞬間。咳と共に、口に通した管から鮮血が噴き出した。

「先生!」

 看護婦が叫び、主治医の指示でばたばたと器具を準備する。気管支の血管が、負担に耐えかねて破れたに違いない。もう、これまでだ。

 沙希は、聡美を見つめて指文字を綴る。

『さとしを あいして』

 聡美は、母の血を浴びた顔でうなずく。目を見開いてはいるが、不思議なまでに落ち着いてる。

 今度は、俺に向けて綴る。

『さとみを あいして』

 俺は、凍り付いていた。沙希が、死ぬ。

 沙希はくり返し綴った。

『さとみを』

 俺は叫んだ。

「愛してる、聡美を愛してる」

 あいている方の腕で、聡美を抱きしめる。

「愛してるよ……沙希」

 弱々しく微笑み、沙希は目を閉じた。その手が、最期の言葉を綴る。

『あいしてる さとし』

 ぱたり、と手が胸の上に落ちる。もう、動かない。

 すぐ隣から、唸り声が聞こえる。聡美が泣いているのだ。声が出ているのも気づかず、泣いているのだ。涙で、母の血が流されていく。

 俺は、体温の失せていく沙希の手を離した。両手で娘をやさしく抱きしめる。愛情は、生きているものにこそ、注がなければならない。どんなにつらくとも。


 俺の白衣にとんだ沙希の血も、聡美の涙でにじんでいく。俺は、涙が出なかった。心が枯れてしまったように。だが、俺の胸で泣いている聡美の涙が、皮膚を通してひび割れた心に染み込んでいく。そんな感じがした。

 聡美が泣いている。俺の分まで泣いている。

 俺は、この娘のおかげで、この娘に支えられて、沙希の死を乗り越えようとしているのだった。だから、だから沙希は、最期に……。


 その夜。

 白い布をかけられた沙希の亡骸のそばで、俺たち父娘は一夜を過ごした。聡美を一人でアパートに帰すわけには行かなかったからだ。

 管を抜かれ、血を拭き取られた沙希の顔は、眠っているように安らかだった。

 処置をしながら、看護婦は泣いていた。香川淳子だ。今日まで沙希の世話をしてくれていた。聡美を呼びに行ってくれたのも彼女だ。

 俺は、彼女にひどいことを言ったことを後悔した。ちゃらちゃらしているようでも、意外と神経は細やからしい。聡美にも、やさしく接してくれた。


 交友範囲がものすごく狭い沙希だったが、訃報を聞いて駆けつけてくれる人は思いのほか多かった。聡美の担任、アパートの住人、近所の商店街の人たち。そして、ホスピスの患者、看護婦、医師たち。みんな、それぞれのかかわりの中で、沙希を慕ってくれていたのだ。

 俺の両親が来たのには驚いた。特に、母は沙希を嫁とは思っていなかったはずなのに、俺のためでなく沙希のために涙を見せたのだ。父は黙って俺に向かってうなづいた。母は、聡美をやさしく抱きしめてくれた。俺の子供時代より、よほど親らしくふるまっている。ひょっとすると、俺が独立した後、二人ともこの歳になってから、親として成長したのだろうか。


 静江さんは、最後まで残ってから丁寧にお辞儀をして帰っていった。

 ……沙希、よかったな。

 俺は、沙希がこんなに多くの人の記憶に残れることを喜んだ。


 深夜。聡美と寄り添い、霊安室に持ち込んだ毛布に包まって寝ているとき。

 俺は夢を見た。


 沙希と出会った、病院の屋上の光景。はためく白い布の中で歌う沙希。翼をください。

「沙希」

 思わず声をかける。振り向く沙希の姿は、今と十年前の姿がダブっていた。

「聡……色々ありがとうね」

 沙希の声。さわやかなソプラノ。

「沙希。行くのか?」

 微笑みながらうなづく。

「うん。わたし、やっと翼をもらえたから」

「俺は、寂しいよ」

 ぽつりと言った。沙希はにっこり笑った。

「大丈夫。わたしはいつも一緒だから」

 沙希は俺の胸を指差した。蘇る思い出の数々。

 病室での、寂しげな沙希。

 奥多摩での、元気な沙希。

 合唱コンクールで、歌う沙希。

 俺を求め、愛し合った沙希。

 あまりにも、あまりにも短かった輝ける時間。

「沙希。おまえは、これで良かったのか? 悔いは無かったのか?」

「……無いといったら嘘になる。聡と一緒に、ずっと生きたかった」

 寂しげな顔。だが、微笑む。

「でも、贅沢は言えないよね。一年足らずだったけど、こんなに幸せだったんだから」

「たったの一年だ。十年も待ったのに」

 沙希は、うなづいてから言った。

「聡には、まだまだ時間があるわ」

 俺は首を振った。

「おまえがいない時間なんて、いらない」

 沙希は、俺をじっと見つめた。

「わたしはいつも一緒。そう言ったでしょ?」

 俺の隣を指差す。腕にすがって眠っている聡美。

「もうじき目を覚ますわ。そうしたらわかるから」

 沙希の背中から、純白の翼が広がる。

「もう、行かなきゃ」

 ……沙希。

「聡美のこと、よろしくね。わたしの娘を」

 沙希、俺は……。

「わたしの妹を」

 俺は……。

 翼が羽ばたく。舞い散る羽毛。すべてが真っ白な光に包まれていく……。


 目がさめた時、部屋は朝の光で満たされていた。昇る朝日がまぶしかった。


* * *


 沙希の葬儀は病院で行われた。だが、その棺の中は空だ。遺体は、解剖学研究室の安置所に置かれている。全裸のまま、暗く冷たいあの場所に。

 数日後、解剖が済んでから、告別式が行われた。安らかな顔はそのままだが、胸元をきっちり締めた白装束は、メスの痕を隠すためのものだ。俺は、またもやあの光景を思い浮かべてしまった。沙希の抜け殻。

 聡美は、母の頬にキスをした。

『つめたい』

 そう手話を紡いだ。黒い喪服に、純白のバラの花が映える。悲しみにじっと耐える可憐な姿だ。

 ……この子も、沙希のように美人になるだろうな。

 こんなときでも、親馬鹿は親馬鹿だった。


 沙希の棺を荼毘にふすとき。持ち上げた棺のあまりの軽さに、俺は不覚にも涙を流してしまった。

 空っぽなのだ。ほんとにこれは、沙希の抜け殻なのだ。

 俺のためにときめいてくれた心臓は、どこかの研究室でホルマリン漬けになっている。俺のために歌ってくれた肺は、輪切りにスライスされて標本になっている。肝臓も、腸も、何もかも。

 だが、それを沙希は望んだのだ。自分と同じ病に苦しむ人のために、医学の前進のために、自分の身体を与えたのだ。俺は医者だ。感謝しなければいけないのに……。


 母の身体だった煙が天に登っていくのを、聡美はじっと見上げていた。秋晴れの高い空。どこまでもまっすぐに登っていく。

 聡美は俺のほうを振り返り、手話を紡いだ。

『お母さん、天国に行った?』

 俺は答えた。

『もちろん』

 それだけは確実だ。絶対に。


 もし、天国があるのなら。

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