第25話 家族、再び
「あー、こんなところでサボってた!」
かしましい声がする。俺は、いつのまにか机に突っ伏して眠っていたらしい。
「さんざん探したんですよ、霧島先生」
「……香川君か」
いつぞや、倦怠期呼ばわりしてくれた看護婦だ。
「もう、回診の時間を忘れちゃうなんて、淳子、信じらんない!」
「……信じなくっていいよ」
のろのろと立ちあがる。
「俺も、信じたくない」
何もかも、うんざりだ。目の前のパネルに貼り付けた、二枚のレントゲン写真を眺める。心が磨り減ってしまったようだ。もう何も感じない。
「何見てるんです?」
「もうじき死ぬ患者」
香川淳子は、レントゲン写真を見比べる。
「……この白いの、癌ですか?」
「肺にできてる」
左右の写真を交互に見て言う。
「ひょっとして、大きくなってる?」
「一週間で、約二倍だ」
香川は、急に何かに気づいたらしい。
「この人、反対側の肺は?」
「気づくの遅いよ。十三年前に摘出してる」
「じゃあ、手術は……」
「論外」
この位置では、残った肺を丸ごと摘出するしかない。
肺が無くなったら、普通、死ぬ。
「でも、今は薬も色々あるし……」
「過敏症なんで、全部ダメ」
「放射線……」
「もう、試した」
一時的に腫瘍は小さくなった。しかし、しばらくしてまた大きくなりだしたのだ。放射線自体も、度が過ぎれば癌を引き起こす。同じ場所に何度も照射はできないのだ。
写真の数箇所を指し示した。
「だいたい、小さいやつならいくらでもある」
俺は二枚ともはずすと、封筒に入れた。
「……その患者さんの名前……」
つぶやく香川の目の前に、封筒の患者名を突きつける。
「霧島……沙希?」
「俺の女房だ」
言い捨てて歩み去る。
チェックメイト。癌細胞ども。おまえらの勝ちだ。
位置が悪い。悪すぎる。このまま腫瘍が肥大すれば、やがて気管支を押しつぶしてしまう。そうなれば、沙希は呼吸困難に陥るだろう。痛みなら、鎮痛剤で消し去ることができる。しかし、息苦しさだけは、逃れようが無いのだ。
同じ問いかけが、心の中で繰り返される。
なぜ俺は、医者になどなったのだろう、と。
なぜ俺は、医者になどなったのだろう。悔やんでも悔やみきれない。自分の知識が呪わしかった。知らなければ、盲目的に奇跡を信じていられたものを。
なぜ俺は、医者になどなったのだろう。沙希を救えぬまでも、せめて安らかに死なせてやるためではなかったのか? なのに、このままなす術もなく、もがき苦しみ死んでいく沙希を、ただ見ていることしかできないとは……。
突然、背中に飛びついてきた身体。
「ごめんなさい、先生」
また、香川淳子だ。
「あんなふうにからかったりして。先生と奥さんは……」
「離れろ」
びくっ、と身を引く香川。
「仕事中だ。回診の時間だろ」
「はい……」
香川はおとなしくついてきた。
やつあたり。自分への苛立ちを、俺は香川にぶつけている。最低だ。
最低の俺でも、自分の患者には最高の治療をしてやらなければならない。なんたって俺は……完全主義者だから。
仕事を終え、家に帰る道々、考える。夏の夕焼け空を見上げながら。
……俺はいい。沙希が死んだらどうなってもいい。発狂しようが、自殺しようが、もがき苦しもうが。……そう思っていた。しかし、もう、そうはいかない。
聡美がいる。俺には聡美がいる。
ガキだったあの頃は、守るべきものがいれば、いくらでも強くなれると思っていた。
甘かった。
俺は、狂気にも死にも逃げ込むことはできない。聡美を守ってやらなければいけないからだ。
俺は恐ろしい。沙希の死によって、自分がどうにかなってしまうことが。沙希の死によって、聡美を守れなくなることが。沙希の死によって、聡美の心が傷つくことが。
俺には、苦しみつづけることすら許されない。それでは聡美も苦しみつづけるからだ。沙希のことを忘れて、二人で生きていかないといけないのだ。
忘れるなんて。心から消し去るなんて。それこそが、耐えがたい。
「……ただいま!」
偽りの元気。リビングに入ると、聡美が気がついて微笑んできた。
『おかえりなさい』
手話を紡ぐ。俺も答える。
『ただいま』
沙希は台所らしい。音がする。
「あー、腹減った」
テーブルの上では料理が湯気を立てていた。
「おかえりなさい」
沙希は味噌汁をよそりながら言った。
「ちょうど良かった。今、できたところ」
「うーん、いい匂い。いただきます」
なんとか、夕食の間は持ちこたえることができた。
この先、どのくらいこうやってだましつづければいいのか……。
聡美には、なんと伝えてやればいいのか……。
その夜、聡美が宿題をやるため自分の部屋に行くと、俺は沙希にすべてを話した。
「ついに、来たってわけね……」
「すまない。何もできなくて」
沙希は俺の鼻を指で弾いた。
「ばかね。何かできるってもんじゃないんでしょ?」
そうだ。誰にも何もできやしない。だから、罪悪感など有害無益。理屈はそうだ。しかし、理屈どおりに行かないことも多い。
「聡美には……なんて言えばいいんだろう」
「わたしから言うわ」
そうしてくれると、俺としてはありがたい。だが、今ここで頼ってしまったら、頼りっぱなしになってしまう。もうすぐ、頼れなくなってしまうのに。
「俺が言わなくっちゃ」
「でも……」
「大丈夫、なんとかなる」
俺自身は、全然そうは思っていなかったが、無理やりそう思い込む。
沙希が明日の着替えなどを準備している間、おれは聡美に話すことにした。しかし、聡美の部屋の前で何度もためらってしまう。合図のボタンを押そうとして、手の震えに気づいては、落ち着こうとしてかえってあせるのだ。
このままでは堂々巡りだ。覚悟を決めて、震える指でボタンを押そうとしたその時。ドアが開いて、聡美が顔を出した。もう、パジャマを着ている。
聡美の部屋の中で、床に腰を下ろして聡美を待つ。トイレに行ってくると言っていた。ゆっくりでいいのに、すぐに聡美は戻ってきてしまった。俺の前に座り込む。
『お母さんの病気のこと?』
手話を紡ぐ。鋭い子だ。俺の表情でわかってしまうのだ。うなづくしかない。
『悪くなったの?』
うなづくしかない。聡美は震えだした。
『死ぬの?』
両目を見開いて、激しくわなないている。俺は両肩にそっと手をかけ、ゆっくりとうなづいた。聡美は、その手を振り払うように、床に突っ伏した。
「おい、聡美!」
無駄だとわかっていても、声をかけてしまう。背中に手をやると、びくっと痙攣が走った。
「あ……あぐ、えぐ……」
様子がおかしい。
「どうした、大丈夫か?」
聡美は吐いた。俺は背中をさすってやることしかできなかった。
無力な父。無力な医者だ……。
結局、そのあと沙希を呼ばなければならなかった。俺が床を掃除している間、沙希は汚物にまみれてしまった聡美を風呂場で洗ってやった。そこでいろいろ話したのだろう。着替えて戻ってきた聡美は、かなり落ち着いていた。
『ごめんなさい』
聡美はそう紡ぐと、俺にしがみついてきた。上を向かせる。
『聡美は、悪くない』
目に涙をためて、聡美は紡ぐ。
『わたしは、悪い子』
『悪くない』
『悪い子』
『悪くない』
しばらく押し問答になってしまった。
親の死を、自分のせいだと思い込んでしまう子供は多いらしい。そうした自責の念から、心や身体の問題が引き起こされることがある。
沙希から借りた、児童臨床心理学の本に載っていた。聡美をそうさせるわけには行かない。
『聡美』
言い方を変えてみる。
『お母さんの病気は、昔から』
必死に伝える。
『聡美が生まれる前から』
黙って俺を見ている。涙が溢れてくる。
『聡美のせいじゃない』
涙が流れ落ちた。おずおずと、手話を紡ぐ。
『聡美を、嫌いに、ならない?』
『絶対に、ならない』
懸命に伝える。
『聡美に何があっても、聡美が何をしても、お父さんは、聡美が大好き』
ぎゅっ。しがみついて、俺の胸に顔をうずめて、聡美はいつまでも泣いていた。
* * *
病室というのは、なぜこうも似通っているのだろう。
ドアを開けると、ベッドの上から半身を起こした沙希が、白い夜具をまとって微笑んでいる。あどけない中学生の沙希。その姿が落ち着いた大人の沙希に変わる。
何もかも、あの日に戻ったようだった。思えば、沙希の癌が再発したのも夏だった。沙希は、あの時静かに自分の運命を受け入れたように、今も穏やかな表情をしている。
沙希は入院した。胸の痛みがひどくなったせいだ。残った肺にできた腫瘍が、すぐそばの神経を刺激している。こうした痛みなら、モルヒネ……鎮痛剤で抑えられる。
沙希のいるこの病棟は、ホスピスだった。末期患者から苦痛を取り除き、できるだけ安らかに死を迎えさせるための場所。沙希は、もうここから退院することはない。外泊であのアパートに戻るときはあっても。
沙希は大丈夫。気になるのは聡美だ。
泣いて嘔吐したあの夜以来、笑わなくなった。学校でも、まるで死人のように落ち込んでいるらしい。心配した担任から電話が来たことがある。俺は事情を話した。心からの同情を寄せてはくれたが、何もできないのは俺と一緒だった。
「聡美は?」
沙希が聞いてくる。一番、聞かれたくない質問だ。
「家にいる」
「そう……」
今日も、何度も誘ったのだが来ようとしない。このごろは、暇さえあれば自分の部屋で、この間奥多摩で撮った写真を眺めている。セルフタイマーで撮った、家族三人の写真。俺を真中にして、左右から沙希と聡美が抱きついている。幸せの断片。
「聡美のことが心配だ……」
患者に悩みを相談するなんて、ひどい医者だ。だが、俺にはどうしていいかわからなかった。わかるのは、今の聡美の状態が良くないということだけ。
「しばらくは、そっとしておいてあげて」
「でも……」
「あの子は賢い子よ」
「……聡美は、おまえの病気は自分のせいだと思っているんだろうか」
俺は疑問を口にした。
「そうらしいわ」
「でも、なぜ?」
沙希は黙り込む。何か、思い当たるふしがあるのだろうか。
「たのむ。教えてくれ」
沙希は答えずに考え込み、やがて言った。
「聡美に、話があるから、と伝えて」
無理に聞き出すわけにも行かない。俺は伝えることを約束して、仕事に戻った。
帰宅してから、聡美の部屋を訪れる。ドアを開けた聡美は、今日も奥多摩の写真を胸に抱きかかえていた。聡美に沙希の言葉を伝えた。今度はうなづいてくれた。
翌日は日曜だったので、聡美と俺は一緒に沙希の病室をおとずれた。ここへ来るまで、聡美はずっと押し黙ったままだった。しかし、沙希の顔を見ると泣き出し、おずおずとベッドへ歩み寄っていく。俺は、黙って見守るだけだ。
沙希は両手を広げて出迎え、やさしく娘を抱きしめた。そして、そっと身体を離すと、ゆっくりと手話を紡ぎだす。
『心配しないで。お母さんは大丈夫』
聡美は泣きながら紡ぐ。
『ごめんなさい』
『聡美は、悪くない』
ゆっくりと、言い聞かせるように。
『聡美がいたから、お母さんは今まで生きてこれたの』
泣き濡れた目で、聡美は母親の顔を見つめる。
『もし、聡美がいなかったら、お母さんはずっと前に死んでいた』
また、涙が溢れてきた。しかし、今度の涙はどこかが違う。
『聡美が、お母さんをお父さんと会わせてくれたの』
去年の晩秋。
落ち葉の中を駆け寄ってきた聡美。ありったけの想いを込めて、俺を倒れている沙希のところへ引っ張っていってくれたのだ。
俺は聡美の肩にそっと手を置く。聡美がこちらを向く。
『ありがとう』
俺の手話に、沙希も合わせてくれた。
『ありがとう、聡美』
俺たちは抱き合った。去年、病室でそうしたように。
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