第24話 夢の中
聡美が十一歳の誕生日を迎えて一週間ほどたった頃。
雨の中、俺が早番で帰宅すると、沙希も聡美も姿が見えなかった。鍵が開いているので、出かけたはずは無い。
「ただいまー」
ちょっと大きく言う。
「聡なの?」
沙希の声だ。聡美の部屋から聞こえる。
「俺だよ。入っていいか?」
「え? あ、ちょっと待って」
「なにか、困ったこと?」
「違うの。……あとで話すから」
なら、しょうがない。適当に着替えて、冷蔵庫から缶ビールを出して、飲みながら夕刊を見る。うーむ、今日の野球は中止か。
やがて、沙希だけが部屋から出てきた。
「どうした? 聡美が熱でも?」
「病気じゃないわ」
なんだか、楽しそうな、おかしがっているような表情。余計に気になってくる。
「いいこと?」
「とっても」
いいかげん、もどかしくなってきた。
「おい、教えてくれよ」
いたずらっぽく微笑むと、沙希は耳元で囁いた。
「聡美にね、お客さん」
「え?」
「わからないの?」
「わかんないよ。友達でも来たのか? なら、めでたいことだけど……」
沙希は、「ほとほと呆れた」という感じで肩をすくめた。
「ようするに、初潮よ」
ビールを思いっきり噴き出した。
「もう、汚いわね」
沙希は雑巾……のかわりに、脱ぎ散らかしてあった俺のTシャツで床を拭く。それで洗濯するわけだ。沙希流の合理的家事。……じゃなくて。
「だ……だって、あいつはまだ……」
「最近だと、早い子は四年生よ。わたしもそうだったし。聡美も、春から背も伸びてきたから、そろそろだと思ってたの」
「……信じられない。もし今、聡美が……その、なんだ、セックスをしたら、子供ができちまうなんて……」
呆れたように、沙希は両手を腰に当てて言った。
「何言ってんのよ。お医者さんでしょ?」
……たしかに。
「聡は、聡美に子供のままでいて欲しいんでしょ? いつまでもそばにいて、甘えて欲しいんでしょ?」
……そうかもしれない。
「なあ」
「ん?」
「俺は……聡美にどんな顔をして接したらいいんだ?」
「別に」
「別にって……」
「お父さんもそうだったけど、父親って、こういうことには無関心を通してていいのよ」
「……そんなもんか?」
「そんなもんでしょ。変に関心もたれても、娘としては困るもの」
……難しい注文だ。
古風かもしれないが、その晩、沙希は聡美のために赤飯を炊いた。俺は、無関心を装うために新聞とにらめっこをしていた。
「うーむ、今日の野球は中止か」
さっきから、ずっと同じところを読んでる気がするが、ページをめくる気になれない。うっかりすると、沙希と聡美の会話に目が行きそうで。
ぽんぽん、と肩を叩かれる。振り返ると、聡美の顔のアップがあった。
「う」
思わずうめいて、顔をそらす。
ぱんぱん。今度は強く叩かれる。勘弁してくれ、俺は無関心なんだ。
ぱこん。ぐーで殴られた。
「い、痛いじゃないか」
振り返ると、聡美のふくれっつらがあった。まずい、本気で怒ってる。その向こうで、沙希は口元を押さえて身体を震わせている。
「沙希……笑ってないで、なんとかしてくれよ」
「だって……だって、あははは」
ひどいやつだ。笑い転げながら、沙希は聡美に手話を送る。
『お父さん、聡美が大人になったので、恥ずかしがってる』
俺は真っ赤になった。くそ、それだと、聡美が困るんだろ?
「けらけらけら」
……笑ってやがる。なんてこった。
女軍団にさんざん笑いものにされて、俺はますます不機嫌になった。
……しかし、今後のためにも、なんとかして娘との交流を深めないといけない。夕食後、俺は意を決して聡美の部屋のボタンを押した。これで回転ランプが灯って、聡美が開けて……くれないな。もう寝ちまったのか?
「聡美、入るぞ」
どうせ聞こえないのだが、一応断ってドアを開ける。すると。
部屋の真中で、聡美が立っていた。
こちらを向いて、下着一枚の姿。
顔は……隠れていた。シャツを脱ごうとして、巻き毛が引っかかってしまったらしい。うーうーとうなりながらもがいている。
「うわっ」
思わずうめいて、ドアを閉じる。
よろよろとソファまで歩き、身体を沈める。目を閉じたが、はっきり焼きついてしまった。
聡美の胸は、形がわかるまで膨らんできていた。今まで気づかなかったが、確かに成長が始まっていたのだ。
「俺は……聡美にどんな顔をして接したらいいんだ?」
頭を抱えてしまう。
ぽんぽん、と肩を叩かれる。身体を起こすと、目の前に聡美が立っていた。パジャマを着ている。胸のふくらみに目が行きそうになってあせる。
「うう」
思わずうめいて、顔をそらす。
ぱこん。いきなり、ぐーで殴られた。
『痛いじゃないか、聡美』
『お父さん、わたしが嫌い?』
聡美は手話を紡いだ。真剣な表情。
『嫌いじゃない』
手話を返す。
『なら、なんで、わたしを見ないの?』
こうなったら、認めるしかない。
『聡美が、大人になったから、お父さん、どう話し掛けたら良いのか、わからない』
『お父さん、困ってるの?』
『困ってる』
聡美は、俺の横に腰掛けるとしがみついてきた。膨らみかけてきた胸が、腕にあたる。それが、困るんだってば。
『聡美は、大人になっても、お父さんが大好き』
『……ありがとう、お父さんも聡美が大好き』
聡美が、あまりにいい子なので、俺の悩みは尽きなかった。
腕の中の沙希の匂い。汗の匂い。他人だったら「
他の夫婦がどうかは知らないが、俺たち夫婦のセックスはほとんど毎日だった。というより、沙希の体調次第だ。
最近はすぐれない時が多くなってきたが、体調さえ良ければいくらでも。
ふと、気になったこと。沙希は、誰からセックスのことを聞いたのだろう? クラスメイトというのはありそうにない。母親が死んだのは小学生のときだ。父親から……まさか。
そんなことを考えていたら、沙希が眠そうに目を開けた。
「何してるの?」
「……考えてた」
「何を?」
「女の子は……セックスのことを、誰から聞くのかな」
沙希はくすくす笑った。
「……真面目なんだけど」
沙希は、ひとしきり笑ってから答えた。
「保健体育」
「いや、具体的な話だよ」
「多分、年上の女の人ね」
「母親かい?」
「わたしの場合は、看護婦さん」
なるほどな。くそ、あいつら、俺をからかう一方で、沙希をたきつけていたんだな。
「感謝してるわ」
「面白おかしく話してくれたんだろ」
「とんでもない」
びっくりしたように言う。
「わたし達のこと、温かく見守ってくれてたのよ」
……あれが?
「なんか……俺に対するときと、態度がずいぶん違ったみたいだな」
「そうなの?」
「さんざん、からかわれた」
……今もだが。
「そう? わたしには、いろいろ役立つことを教えてくれたのに」
「一体、何を?」
「こんなこと」
右手をシーツの中に滑り込ませる。
「あっ、こら」
「元気になったでしょ?」
……あいつら、なんてことを……。
「このままだと、つらいでしょ?」
……つらい。
「いいのよ」
お許しが出たけど……感謝すべきなんだろうか、この場合。
……なんとかことを済ませると、俺は消耗しきっていた。耳鳴り……いや、自分の心臓の音しか聞こえない。
しばらくぐったりと沙希の上に身体を横たえていると、沙希の身体に緊張が走った。目を開けると、沙希が視線を俺に戻した瞬間だった。
「どうした? 沙希」
「ううん……なんでもない。シャワー浴びてくるね」
ずり落ちたシーツを身体に巻くと、沙希はドアにそっと歩き出す。俺はその姿を横目に身ながら、ベッドの上に裸でうつぶせに寝ていた。……おや、ドアが開いている。閉めておいたはずなんだが……。
沙希が出て行くと、俺は眠りに落ちた。
……うつらうつらしていると、やさしく背中を撫でる手を感じる。
「沙希」
仰向けになる。俺は夢を見ているらしい。幼い頃の沙希の夢。沙希は、ためらいがちに俺に身を寄せてくる。震えている。
「寒いのか? 沙希」
沙希の幻をやさしく抱きしめ、俺は再び眠りに落ちた。
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