第23話 誕生日
もうすぐ、沙希の誕生日だった。今回は、俺には計画があった。
夕食後、聡美の部屋の前でボタンを押す。呼び鈴代わりに室内のランプが灯り、聡美に合図ができる。まだ寝ていないはずだ。
中で「たたっ」と小走りで近づく音。カチャッとドアが開き、聡美が顔を突き出す。話がある、と手話で伝えると、ニコッと笑って迎え入れてくれた。
男親にとって、娘の部屋に入る機会は少ない。入った瞬間、ぬいぐるみたちの視線を四方から浴びてしまった。さすがに買い与えすぎてしまったな、と反省。そういえば、聡美の誕生日も近かった。考えておかないと。……が、まずは目前の方だ。
聡美は勉強机の椅子に座り、どうぞ、という感じで床のクッションを手で示した。こんなちょっとした大人びた仕草が嬉しく思えるのは、やはり親馬鹿なんだろうか。
クッションに腰をおろして、おほん、と咳払いする。聡美は興味津々。
『もうじき、お母さんの誕生日』
俺の手話に、聡美、こくんとうなづく。
『聡美、プレゼント、考えた?』
ちょっと表情が曇る。ゆっくりと首を振る。
『一緒に、プレゼントしよう』
ぱっとにこやかな顔。ほんとに、この子の表情は豊かだ。聡美は『何を?』の手話を紡いだ。
『一日、お母さん、楽にする』
考え込む表情。『どうやって?』の手話。
『お母さん、休む。聡美とお父さん、家の仕事する』
満面の笑み。ぴょこん、と立ち上がり、両手を胸の前で組んでその場でくるくる回る。
『いい考え』
そう紡ぐと、俺に抱きついてきた。ほんとにいい子だ。
『頑張ろうな』
聡美は、思いっきりうなずいた。
今年の六月三日は月曜日だった。この日にあわせて休みを取ったので、俺は朝から張り切っていた。夕方、聡美が帰ってきたら、一緒に夕食の支度をする約束になっている。
「ほんとに、大丈夫なの?」
「心配するなって。俺だって、学生時代に一人暮らししてたんだから」
……その悲惨な実態は伏せておこう。
とりあえず、朝食だ。自分と聡美のためにトーストを焼き、沙希のためにおかゆを作る。……焦げすぎたトーストは、俺の皿に真っ黒になった面を下にして盛り付ける。聡美のほうは程よく焼けたし、野菜の入ったおかゆもまずまずのできだ。
眠そうな目で聡美がおきてくる。夕べ、興奮して眠れなかったらしい。
『聡美、頑張ろう』
手話を向けると、『頑張る』と答える。よしよし。
『買い物、お願い』
そう手話を送って、リストを渡す。聡美はこくんとうなずいて、スカートのポケットに大事そうに入れた。
食事が終わると、沙希がいつもの習慣で食器をまとめ始めるので、慌てて座らせる。
「俺がやるから、座ってて」
「いいのに、お皿くらい」
「だーめ」
やがて、聡美が学校に行く時間となった。時計を指差すと、聡美はぱっと立ち上がり、ランドセルを背負う。
『遅刻するなよ』
一目散に玄関に向かう聡美には見えないだろうが、一応手話で送りだす。
「やれやれ」
沙希をソファに座らせ、俺は食器を片付けて洗う。
「テレビでも見てなって」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
朝のテレビ番組を見ている沙希を横目に、俺は食器を洗った。うん、こんな一日もいいものだ。病院の毎日も活気があって良いが、昼間の家の中には、沙希の持つ伸びやかな雰囲気が溢れていた。
そうか……これが沙希の毎日なんだ。
食器を洗い終えて、キッチンからリビングの沙希を眺めながらそう思う。いつだったか、沙希は俺のことを完全主義者と呼んだ。沙希は、もしそんな言葉があればだが、充分主義者だ。満ち足りる、ということを知っている。
胃を取ってしまったから、一度にたくさん食べられない。だから食事のときは「もうこれで充分」と納得する。病弱だから、家事も一気に片付けられない。だから、「今日はこれで充分」と、翌日に回す。
なるほど、これなら体に負担がかからないわけだ。
「やだ、何見てるの?」
沙希がはにかんだように言う。
「元気の素」
「なにそれ」
「うーん、元気になりたいな」
そういいつつ、沙希の横に座る。
「なら、元気をあげましょーか?」
沙希は俺の首に両腕を回した。
「くれ!」
さっと沙希を抱き上げ、寝室へ向かう。
……うーむ、初っ端から予定が狂ってしまったような。まあいいか……。
聡美が帰ってきたのはかなり遅かった。おまけに泥だらけで、泣きべそをかいていた。
『どうした?』
びっくりして問いただすと、聡美は声をあげて泣いた。滅多にないことだ。泣きながら手話でわけを話す。こういうときは、手話も便利だ。
『公園で転んで、買い物の紙、池に落ちた。探したけど、見つからない』
やれやれ。そこまでしなくても、帰ってくればもう一度リストを書いたのに。まあ、これも責任感のあらわれだ。叱ったらかわいそうだ。
『泣かない。聡美は悪くない』
まだしゃくりあげている。
『着替えて、一緒に買い物行こう』
うん、うん、とうなずきながら、まだ泣いている。
「早く拭いてあげなきゃ、風邪引いちゃうわよ」
バスタオルを持った沙希が声をかける。
「シャワーの方が良さそうだ」
聡美を抱きかかえて、脱衣所へ向かう。
びしょぬれの服に手をかけると、聡美がびくっと見を引いた。泣き濡れた瞳が俺を見据える。しまった。聡美の仕草が幼いので、うっかりしていた。もう、父親に裸を見られても平気な歳じゃない。
『ごめん、一人でできるな?』
真っ赤な顔でうなづく。俺はすごすごと退散し、ドアを閉めた。やがて水音がしてくる。
このあたり、だんだんやり難くなっていく。仕方のないことだが。ため息をつく。
「聡美、様子が変ね……」
後ろで沙希がつぶやく。
「そうかい?」
母親の勘だろうか。どうも、父親の勘ってのは鈍すぎるらしい。とにかく、今のうちに記憶を頼りに買い物リストを再現しないと。
「あ、それ買いに行くんだったら、卵もお願い」
「よし。他には?」
「えーとね……」
一通り書き上げて、ふと目をあげると、聡美がバスタオルを巻きつけただけの格好で、廊下の端からこちらを見ている。泣き腫らした目が、まだ潤んでる。風邪を引くぞ。
『早く着替えて、買い物に行こう』
こくん、とうなずいて、自分の部屋に入る。
「これで全部?」
リストを沙希に確認する。
「これで充分」
思い出して、吹き出してしまった。
「なに?」
「……充分主義者」
「なあに、それ」
沙希が腰に手を当てて言う。
「いつか俺のことを、完全主義者って」
沙希、ちょっと考える。
「あ……そういえば」
「おまえは、いつも充分って言うから、充分主義者」
二人してクスクス笑う。
「それ、気に入ったわ」
もう一度、腰に手を当てて言う。
「充分主義者の霧島沙希です」
あはは、と二人して笑う。ふと気がつくと、部屋の前で聡美が立っていた。
「お、着替えたな。じゃ、沙希、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
挨拶のキス。だが、終わると沙希は、ちら、と聡美に目をやった。
「どうした?」
「ううん、なんでもない。待ってるわよ、聡美」
「ああ」
聡美を連れて、買い物に出る。確かに、どことなく元気がない。
『聡美、どうした?』
手話を送るが、こっちを向いてくれない。これでは、耳を塞がれているようなもんだ。聡美の両肩を掴んで、こっちを向かせる。
『聡美、変だ。どうした?』
ギョッとした。聡美が泣いている。何があった? 今までを振り返る。思い当たるのは……。
『お父さんとお母さん、声で話してた。聡美、仲間はずれに感じた?』
沈黙。やがて、ためらいがちにうなづく。そうだったのか。
『ごめん、聡美。仲間はずれにしない。約束』
聡美はぎゅっと抱きついてきた。
この子は、ほんとに繊細な子だ。俺みたいながさつな父親じゃ、ほんとにかわいそうだ。
『買い物、行こう』
手を差し出すと、しっかり握ってきた。これでよし。
あれこれ買い込んで、二人で分担して荷物を持つ。聡美にはちょっと重そうだが、一生懸命な姿がけなげだ。最後に、小さなケーキを買って帰る。俺は甘いのは苦手なので、沙希と聡美の分。ほとんどは聡美が食べるだろう。荷物を分けなおして、聡美には卵の入った小さな袋と、ケーキを持たせた。
『気をつけろよ』
こくん、とうなづく。よしよし。しかし、すっかり遅くなってしまった……。
アパートに戻ると、沙希はソファでうたた寝をしていた。沙希の寝顔。俺の一番好きな顔かもしれない。病気のつらさから解放された、無我の境地。
聡美に向かって、静かに、のジェスチャを送る。こくん。二人して、静かに近づく。そっと沙希の肩に手を触れようとした瞬間。
バチャッ! いきなり響いた音に、俺ばかりか沙希も飛び上がった。振り返ると、聡美はケーキと卵の包みを見下ろして呆然としている。卵は割れ、ケーキは飛び散ってる。……やってくれた。
が、背後の沙希の息遣いがおかしいのに気づき、驚いて抱き起こす。ショックで呼吸困難を起こしている! 俺は素早く気道確保を行うと、マウスツーマウスで人工呼吸をはじめた。沙希の呼吸が落ち着くまで続け、しっかりと抱きかかえてやる。
「大丈夫か、沙希」
「え……ええ」
よかった。ようやく余裕が戻ってきて、聡美のほうを見る。
聡美は、まだ呆然と足元を見ている。母親の危機に気づかなかったのか?
「聡美!」
声をかけても無駄なのに、思わず叫んでる。
『どうしたんだ、今日は変だぞ!』
手話にも目を向けない。
『お母さんのために、頑張るって、約束したろ?』
目を伏せたまま。俺は両肩を掴むと、無理やりこっちを向かせた。
反抗的な目。初めて見る聡美の表情。
バシッ!
右手がびりびりと痛む。この手は……今、何をした?
聡美の両目が、驚愕に見開かれている。涙が溢れてくる。歯を食いしばった口元がぶるぶる震え、やがて、声が漏れてきた。手負いの獣のような悲鳴が。そのまま自分の部屋へと逃げ込む。
俺は……怒りに任せて娘を殴ったのか? 自分が信じられなかった。まさか、まさか聡美を殴るなんて!
「畜生!」
左手で右手を殴りつける。
「畜生! 畜生! 畜生!」
テーブルに右手を押し付け、何度も左の拳で殴りつける。赦せない。赦せない。自分が赦せない!
「やめて!」
沙希が後ろから抱きすくめる。俺はずるずるとくず折れた。
「沙希……俺は……俺は……」
「大丈夫、大丈夫だから」
「聡美が……」
「聡美も、大丈夫だから」
子供をあやすように俺に言うと、沙希は聡美の部屋に行った。
俺は、そのままそこにへたりこんでいた。何も考えられなかった。大切な、かけがえのないものが、砕け散ってしまった。そう感じていた。
……どのくらいたったのか。
肩に、小さな手が置かれた。顔を上げる。
泣き濡れた聡美の顔があった。
『ごめんなさい』
小さく手話を紡ぐと、膝を着いて頭を下げた。床につくくらいに。そのまま震えてる。
「聡美……ごめんな」
聞こえないのに声で謝り、震える両肩に手をかけて起こす。
ご、め、ん。
唇が読めるようにはっきり動かす。
今度こそ。しっかりと娘を抱きしめる。身体を震わせ、声も無く泣きじゃくる娘を。
ふわり。
温かい空気に包まれた。沙希が俺たち二人を抱きかかえている。壊れかけた父娘の絆を繕うように。
さんざんな誕生日だった。床を拭いて、ケーキと卵のないパーティー。でも、沙希は充分主義を発揮して、心底喜んでくれた。
今、沙希は俺の胸で眠っている。安らかな寝顔。かけがえのない存在。
何があっても沙希を守る。少年の日からずっと、その誓いを守るために生きてきた。だが……守られてきたのは、支えられてきたのは、俺のほうだった。
沙希は、いずれ死ぬ。
覚悟していたはずだ。その日に備えてきたはずだ。なのに、俺も、聡美も、こんなに沙希を必要としている。頼っている。
あんまりだ。あまりにも、残酷じゃないか。
沙希の髪を撫でながら。俺は声も無く泣きながら祈った。
どうか、沙希を、奪わないでください、と。
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