第22話 初夏の奥多摩
ゴールデンウィークが始まった。
俺は、この日のために、冬休みを利用して運転免許を取得しておいたのだ。その分、沙希の見舞いが減ってしまったのだが、これで埋め合わせができる。
「ドライブに行くぞ」
夕食の席でそう宣言すると、沙希も聡美も大はしゃぎになった。
「車はどうするの?」
堅実な沙希が聞いた。
「レンタカーを借りる」
思ったほど値が張らなかった。これなら、今後も月に一回くらいなら行けるだろう。……休みが取れればだが。
『どこへ?』
聡美が聞いた。目が輝いている。
『奥多摩』
沙希の顔がぱっと明るくなる。そう。あの思い出の場所だ。
だが、聡美はぽかんとしている。
『どこ?』
奥多摩がどこかわからないのだ。
『ちょっとおいで』
聡美を手招きして、席を立つ。
ここの部屋割りは、リビングを中心に三部屋がある。それぞれ書斎、夫婦の寝室、そしてSATOMIとネームプレートの下がった部屋だ。
『入るよ』
そろそろ年頃だから、一応断らないと。聡美はうなずいた。
普段は、ノックしても聞こえないので、呼び鈴代わりのボタンを押している。これを押すと部屋の四隅にある回転灯がつき、聡美がどっちを向いていてもわかるようになっているのだ。例の、トイレ事件の反省。
中に入る。さすがに女の子の部屋だ。俺が買ってやったぬいぐるみがいたるところにある。物を買い与えすぎだと、何度も沙希に叱られるのだが……悪い父親だな。
目的のものは、学習机の上に置かれていた。聡美は、毎日この写真を見つめているのだ。飽きもせず。
『ほら、ここだよ』
写真を指差す。指文字でもう一度。
『お、く、た、ま』
聡美は理解した。喜びに目を輝かし、涙すら浮かべている。
写真を手に取り、じっと見つめた。少年の頃の俺が少女の頃の沙希の肩に手を回し、河原の石の上に座って、二人してはにかんだ顔で写っている。
お、く、た、ま。
聡美の口が、何度もその形を描く。昔からの憧れの場所。母親から聞いた、愛の記憶。そこに行けるのだ。
聡美が抱きついてきた。俺はその身体を抱き上げて、部屋の中でくるりと回った。
「大きくなったな」
沙希の病室で抱き上げたときより、確実に重くなっている。嬉しい重みだ。
ドライブの当日。
レンタルしたワゴン車をアパートの前に乗り付ける。親子三人が並んで座れるように、コラムシフトでベンチシートの車を選んだのだ。後部座席を倒して、そこにバーベキューセットを積む。これもレンタルだ。
河原で焼くバーベキューは、さぞかしうまいだろう。
問題は、沙希の健康だ。ゆっくりとだが、下降気味に思える。昔から食は細かったが、胃がほとんど残っていないので、まともなものはほとんど食べられない。おにぎり一個を十分かけて少しずつ食べ、それで満腹してしまうのだ。それでは体力が維持できないので、一日に五回も六回も分けて食べる。
「牛みたいに、一日中反芻しているみたいなものよ」
笑って言うのだが、これは結構しんどい。胃癌がひどくなっていたここ何年かは、ずっとこんな調子だったという。
荷物が積み終わった。後部ドアを閉めて、空を見上げる。日頃の行いが良いせいか、聡美が作ったてるてる坊主のおかげか、五月晴れの青空が広がっている。
中一の五月を思い出す。あの時は、ゴールデンウィークだというのにどこにも行かず、ひたすら沙希を見舞っていた。いつもより長く一緒にいられる。それがものすごく嬉しかった。病室に沙希を残して、どこかへ行くなんて考えられなかった。
沙希の時間は、どれだけ残っているのだろう。このまま、もしかしたらずっと一緒に暮らせるのではないか。どうしても、そんなことを期待してしまう。癌の病巣は、沙希の体中に散らばっている。もし、それらを全部取ろうとしたら、沙希の身体はもぬけの殻になってしまうほどだ。医学の常識から言えば、絶望的な状況。
にもかかわらず、沙希は余命半年と言われてから十年以上も生きつづけてきている。まさに奇跡だ。奇跡に多くを望んではいけないとは思いながらも、どうしても期待してしまうのだった。
運転席から若葉マークの磁気ステッカーを取り出し、車の前後に張る。
ほとんどペーパードライバーに近い俺だが、教習所の教官は慎重さを高く評価してくれていた。今日は、最愛の妻子を乗せるのだからなおさらだ。
アパートの方を振り仰ぐと、丁度二人が出てくるところだった。沙希はピンクのチェックの半袖シャツに水色のスラックス。聡美はおそろいのシャツにデニムのズボンだった。こうしてみると、母娘というより姉妹だった。沙希は、十代だといっても充分通ったろう。
やはり、大きなバスケットを持っている。力作が詰まっているのだ。
「お待たせ」
沙希がにこやかに言う。
「よし、乗った乗った」
聡美を真中に挟んで乗り込む。三人とも安全ベルトを締めたのを確認してから、ゆっくりと発車する。
すると、沙希がクスクス笑い出した。
「すごかったわね、清永先生の運転」
俺も思い出してしまった。
「それよりも、あの格好だよ」
沙希も噴き出した。
俺たちの会話に入ろうと、聡美が盛んに手を振る。沙希が手話を駆使して詳しく説明しだした。
俺は運転に集中する。何しろ、真中の席にはエアバッグがないのだ。それに、聡美の身体はシートベルトにはまだ小さすぎる。もし、事故を起こしたら、真っ先に危ないのは聡美だ。それだけは絶対にあってはならない。
安全運転を心がけつつ、奥多摩に入る。
車外を流れていく緑溢れる風景に、沙希も聡美も目を見張っている。これまでは遠足で行く程度だったろう。それも、ひ弱な聡美はなかなか参加できなかったらしい。これからは、できるだけ連れ出してやりたいものだ。
やがて、目的の河原にたどり着いた。十二年前に行った場所とはおそらく違う場所だが、細かいところは気にしない。
さっそく、バーベキューセットをおろして組み立てる。昼までには充分時間があるが、薪は少し離れた薪置き場に取りに行かなければならない。
沙希は聡美と一緒にビニールシートを広げた。聡美はさっそくその上に横になって空を見上げていた。真っ白い雲がゆっくりと流れていく。沙希はその横で、バスケットの中身を広げだした。
『聡美、薪を取りに行こう』
誘うと、聡美はぴょこんと起きて走ってきた。手をつないで、森の中の道を登っていく。ひんやりとした木陰が気持ちいい。
戻ってみると、沙希はシートの上に腰を下ろして、川の流れを見つめていた。
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
あの方丈記の一節を思い出す。そして、沙希の解釈をつぶやく。
「人生は続いていくけど、同じ日は二度と来ない」
沙希が振り返って微笑む。
「覚えてたのね」
「忘れたことはないさ」
互いの顔に浮かぶ、過ぎ去りし日への郷愁。今の俺たちは、あの日よりも輝いてるだろうか。
手がきゅっと握られる。聡美が物問いたげに見上げていた。うーむ、小学生には難しいかな。でも、試してみよう。
『お父さんと、お母さんは、昔のことを思い出していた』
『どんなの?』
うーむ。困った顔でいると、沙希が助け舟を出してくれた。
『いらっしゃい、教えてあげる』
聡美は沙希のところへ行った。しばらく、手話で色々話しているので、その間に火を起こすことにする。
林間学校でさんざんやらされていたので、この手のことはお手の物だ。学級委員も楽じゃない。石を組んで簡単なかまどを作り、薪を隙間が開くように積んで、新聞紙にマッチで火をつけて……。
火が起こせたので、その上に組み立てたバーベキューセットを載せると、沙希がタッパーを持ってきた。中にはタレにつけてくしに刺しておいた牛肉が入っている。俺は火の具合を調節しながら焼き始めた。
焼けたそばから皿に盛り、三人で食べる。一応、三人前用意してあったが、俺は二人前くらい食ってしまった。聡美もかなり食べた。しかし、沙希はほんの一、二切れと小さなおにぎりがやっとだった。聡美の半分にも満たない。
癌は、沙希から様々なのものを奪っていく。はじめに、人並みに歌う楽しみを。次に、人並みに食べる楽しみを。あの日は、沙希も人並みに食べられたのに。
「ああ、おなか一杯」
満足そうに言う沙希。だが、さすっているおなかはちっとも膨らんではいない。
食後、聡美にせがまれて、流れの方に行く。聡美は、靴と靴下を脱いでズボンのすそをまくると、浅瀬におそるおそる入っていく。きゅっと眉が寄る。
『つめたい』
手話を紡ぐ。
『でも、気持ちいい』
にっこりする。
「お、魚だ」
種類はわからないが、聡美の足のそばをすり抜ける。聡美に手を振り、足元を指差す。水の中を走る影に気がつき、びっくりする。こっちを見て、顔の前で人差し指を立て左右に振る。
『何?』の手話。
『さかな』
手話で返す。興味を持ったらしく、顔を近づけてのぞき込む。
ぱしゃ。魚が跳ねた拍子に、聡美の顔に飛沫がかかる。
「はくぅ!」
目をつぶり、思わず声が漏れる。よほどびっくりしたらしい。顔をこする。
聡美は、声を出すのを嫌がる。学校でさんざんからかわれるからだ。沙希に似て、綺麗な声なのに。
振り返ると、沙希がこっちを見て笑っていた。シートの上に座って、ナプキンなどをたたんでいる。そろそろ戻ろう。聡美に手を振り、手話を送る。
沙希は、座ったまま目を閉じ、何かに耳を済ませているようだった。
「何を聞いてる?」
「風の音」
隣に腰をおろす。聡美も寄り添ってくる。
さわやかな風が吹いていた。周りの木々の葉ずれの音がさわさわと囁きかける。
「気持ちいいね」
「ほんとに」
聡美は眠そうだ。
やがて、そっと沙希が言った。
「膝枕……しようか」
「いいね」
沙希は脚を伸ばして座った。俺はその上に頭を預け、横になった。聡美は俺の腹に寄りかかって寝る。青空に浮かぶ雲を見上げ、葉ずれの音を聞きながら、静かに時を過ごす。ふと気がつくと、聡美はすうすうと寝息を立てていた。
「沙希」
「なあに?」
「歌って……くれないか」
大勢に聞かせる歌は無理でも、俺一人のためなら。沙希は微笑んだ。いつものように、すっと背筋を伸ばすと、小さな声で囁くように歌いだす。
思い出の曲、翼をください。そして懐かしい歌をメドレーで。吉田に貸したままになった、昔の流行曲。次から次へと歌った。
沙希。もし、癌にならなければ、おまえは歌手になれたかもな。
俺は、目を閉じて思う。
もし癌にならなければ、俺たちはどうなっていただろう。おまえは先輩、俺は後輩。多分、部活で一緒にでもならない限り、出会う機会はなかっただろう。そして、俺に寄り添って寝ている、かわいい聡美も産まれなかったはずだ。
俺は……それを望むべきなんだろうか。
俺たちは、出会わないほうが幸せになれたんだろうか。
俺にはわからない。
ただ言えることは一つ。
もし、祈れば願いが叶うというのなら。
今、この瞬間で、時間を止めて欲しいということ。
……叶わぬ願いと知りながらも。
日は、すでに傾きはじめていた。
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