第21話 参観日
四月下旬の日曜日。
聡美の通う学校で、父兄参観があった。沙希は無理をするなと言っていたが、俺は絶対に行くつもりでいた。
ゴールデンウィークも近いので、確実に休めるように、夜勤もいくつか入れた。その分、聡美といる時間が減ってしまうのだが、きちんと理由を話してやった。
『お父さん、聡美の学校、見たい』
『わたしも、見て欲しい』
『だから、お父さん、夜も仕事する。いい?』
『……いいよ。お父さんと遊びたい、でも、我慢する』
納得してくれた。子供でも、ちゃんと話せばわかるのだ。
聡美も、そろそろ反抗期に入ったのか、時々沙希に口答えをするようになっている。沙希はそんな時、辛抱強く話しかけている。手話で話すのは、声で話すより時間がかかる。専業主婦になったのは正解だった。いくらでも、子供との対話のために時間が使えるのだから。それこそが、沙希がやりたがっていたことなのだ。
不思議なのは、俺に対してはまったく口答えがないという点だ。わがままを言うことはある。甘えたりもする。だが、俺が「こうしなさい」というと、けなげなほどに従うのだ。
「聡美は、なんでおまえにばっか口答えするんだろうな」
「そうねぇ……」
「俺に対して、遠慮でもしてるんだろうか」
「そんな感じがする?」
「……いや」
沙希は、静かに微笑んでる。
「聡なら、いずれわかるわ」
「わかるかな」
「絶対に」
沙希は、何か知っているらしい。当然かもしれない。聡美が生まれたときからずっと一緒なのだから。俺なんか、出会って半年足らずの、にわか父親だものな。まだまだ勉強が必要だ。
「それに、教えられないこともあるの」
まあそうだ。父親の心得は、父親にしかわからないだろうし。
やがて、参観日になった。事前に、沙希から注意を受けた。
「あんまり、過大な期待はしないでね」
「え? どうゆう意味?」
「学校とかによ。いろんな制約があるんだから」
「まあ、そうだけど」
「聡って、完全主義者なところがあるから」
「俺が?」
「他人が、できるはずの事をやらないと、すごく腹が立つでしょ?」
確かに。自分に対しても、他人に対しても、どうしても厳しくなってしまうのかもしれない。職場でも、それで衝突してしまうときがあった。
「もっとも、お医者さんがちゃらんぽらんだったら、患者はたまらないけどね」
それもそうだ、と二人で笑う。
聡美の小学校は、アパートから歩いて十分のところにある。子供の足でも十五分だ。最近は子供の数が減っているので、一学年二クラスしかない。聡美のいるはずの五年二組を探す。
……滅茶苦茶目立ってしまった。小学五年の子供を持つ父親といえば三、四十代。その中に、つい先月まで学生だった俺が混ざっているのだ。目立たないわけが無い。教室中の視線の集中砲火を浴びることしばし。
聡美も、ちょっと居心地が悪そうだ。
聡美の担任は、三十代のベテランだった。教え方も、生徒の扱い方も心得ているようだ。授業は割とスムーズに進んでいく。近頃問題になっている学級崩壊などは心配なさそうだ。だが……沙希の忠告にもかかわらず、俺は次第にやきもきしだした。
担任は、手話はできないらしかった。聡美に質問するとき、意識して口を動かしているが、あれでは不十分だ。せめて、黒板に書いてくれないものか。
聡美は懸命に声で返事をする。耳が聞こえないので、どうしても発音は不明瞭になる。そのたびに他の生徒が笑うのだが、担任は注意しない。聞き取る方で精一杯なのだ。
生徒に教科書を順番に朗読させるときも、聡美は一生懸命なのだが、その言葉は聞き取りにくい。俺でも、手話を伴わないとほとんど理解できない。それが、一般の生徒にはおかしくて仕方がないらしい。そこまでは予想していた。覚悟していた。だが……。
教室の後ろに一緒に並んでいる父兄からも、失笑の声が漏れたとき、俺は必死に自分を抑えなければならなかった。
なぜ……笑う? そりゃ、発音は変だ。おかしく聞こえるだろう。だが、障碍を持っている子供が頑張っている姿を、一体どうしたら笑えるんだ?
俺は歯を食いしばり、拳を握り締めて耐えた。聡美を笑った父兄を睨みつける。三十代半ばのそいつは、俺の視線に気づくと目をそらした。
担任は、俺の様子に気づき、早めに次の子に移らせた。聡美は、座るときにちらりと俺のほうを見た。
……見られてしまった。俺の苦悩にゆがんだ顔を。聡美はひどく傷ついたに違いない。うつむくと、声もなく肩を震わせる。
この子は、母親と同じ泣き方をする。深い悲しみは、声を奪う。ただ、ひっそりと涙を流すのだ。
怒りは、後悔の念に押しつぶされてしまった。よく頑張ったと誉めてやらなければいけなかったのに。反対に、俺は聡美の努力に苦痛を表してしまったのだ。怒りの向き先が誰であろうと問題ではない。自分の障碍が親を苦しめている。その事実に打ちのめされてしまったのだ。
(あんまり、過大な期待はしないでね)
沙希は、こうした思いをずっと昔から味わってきたのだ。だから、寛容になる。そうでなければ、聡美が傷つくのだ。
俺は……まだまだ修行が足りない。
授業の後、担任の方から俺に近づいてきた。
担任が口を開く前に、俺は頭を下げた。
「先ほどは、すみませんでした」
俺が謝ると、驚いたように言う。
「いや、こちらこそ。配慮が足りなくて申し訳ありません」
十歳は年下の俺に対して、丁寧に頭を下げる。
「なにぶん、聞こえない子を受け持つのは初めてなもので。それに、子供達も慣れてませんから……」
「いえ、先生はよくやってると思います。俺はただ……」
どうしても目が行ってしまう。あの父親は、別な父兄となにやら話しこんでいた。
「大人が笑うのだけは、赦せないんです」
担任もちらりと目をやる。ため息。
「わたしに言えるのは、親御さんにも色々いらっしゃるということだけです」
教師としては、それ以上何も言えないだろう。親を教育するわけには行かないのだ。
かわりに、俺は以前から持っていた疑問をぶつけることにした。
「……こんな風に、
「難しいですね……」
教室を見やる。子供のはしゃぐ声の中で、聡美は一人ぽつんと座っている。その姿は、中学時代の沙希と重なってしまう。こんなつらさを、母から娘へ受け継ぐことはないだろうに。
「わたしも、手話を覚えなければと思っているんですが、どうしても時間が……」
沙希からも聞いた。
原因の一つは、親が学校に多くを求めすぎるからだ。自分達ですべきしつけまでも、学校に押し付ける。生徒数が減っても、教師の負担はまったく減らない。
「なら、なぜ
国の方針を一教師にぶつけても仕方がない。それはわかってる。
実社会に出たら、健聴者に混じって暮らさなければならない。聾唖者だけの狭いコミュニティーに安住するわけには行かない。だから、一緒に学ばせる。それがこの国の方針らしい。
それもわかる。だが、現に学ぶ権利が損なわれているのだ。
担任も、解答は持っていないようだった。俺は一礼して聡美のところへ行った。
聡美は落ち込んでいた。俺の顔を見ると、おずおずと聞いてくる。
『わたしが読むの、恥ずかしかった?』
俺は胸が詰まった。
『恥ずかしくない。聡美は、恥ずかしくない』
懸命に伝える。
『他の人が笑うから、お父さん、怒った。聡美は、悪くない』
聡美の目に涙が浮かぶ。小さな手を俺の身体に回してしがみついてくる。その栗色の巻き毛を撫でながら、背が伸びていることに気づく。遅かった成長が、ようやく始まっているのだ。嬉しかった。
小学校から、聡美と一緒に帰った。手をつないで。
周りを見ると、こういうのは高学年には少ない。自分を振り返っても、五年生の頃にはもっと親と距離を取っていたと思う。聡美はまだまだ幼いのだろうか。それとも、十年分のスキンシップを求めているのだろうか。
そのどちらであっても、
聡美。
耳の聞こえない、沙希の娘。
俺の娘。
あの枯葉の舞う中で、この子はまっすぐ俺のところへ駆け寄ってきた。一人、部屋の中で、俺と沙希の写真を宝物のように抱えていた。きっと、物心ついてから、会えない父親をずっと慕ってきたのだろう。
ふと、目の前を歩く親子連れが目に止まった。さっき、聡美を笑った父親だ。息子と帰る途中だが、まるで別々に歩いている。知らなければ、親子だとはわからないだろう。
聡美が立ち止まる。
『どうした、聡美』
『あの子、キライ』
指差すのは前を歩く男の子。
『いじめるの?』
こっくり。
他人の痛みを思いやれない人間を親に持ったあの子は、どんな大人になるのだろう。こうして、冷たい人間の系譜も続いていくのだろうか。ここでも不幸は連鎖する。
どうしたらいいのだろう。不幸の連鎖を断ち切るには。
俺は聡美を見た。小さな聡美。クラスでは、まだ一番小さい。よく熱を出し、今月は三回も休んでしまった。いじめられても、俺に対してしたようには怒りを表現できないのではないか。ふと、そんな気がした。
『そうゆう時は、足を踏んでやれ』
バン、と足を踏み鳴らす。
『この前、お父さんにやったみたいに』
聡美はびっくりしたようだが、うん、と言うようにうなずいた。
聡美は、きっと大丈夫。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます