第20話 イニシャルはS.K.

 そもそもは、聡美がローマ字を読めるようになったのが発端だった。

 小学五年生になった春のこと。聡美はローマ字に夢中だった。学校で習ったのかどうかは知らないが、よほど気に入ったらしく、何でもローマ字で書いてみないと気がすまないのだ。それで気がついたことが一つある。

 俺達、霧島家の家族構成は、聡、沙希、聡美。三人とも、イニシャルが同じS.K.になるのだ。聡美は、何度も俺たちの名前を紙に書いた。

 SAKI、SATOSI、SATOMI。

 特に、俺と聡美が一字違いになるのことにご満悦だった。さっそく、サインペンを取り出して、自分の持ち物にS.K.とイニシャルを書きだした。教科書、ノート、筆箱、などなど。沙希も、面白がっていろいろなものに書いていた。ちょうど新学期が始まる前だったので、イニシャルを書く持ち物には事欠かなかった。

 ……それが、ちょっとした騒動を起こすとは思いもよらなかった。


 四月になって、俺はめでたく例の大学病院に就職した。とはいえ、まだ研修中なので薄給だ。しばらくは親のすねをしゃぶらないとやっていけない。単純に、医者になれば儲かる、というわけではないのだ。

 研修中だからといって、医者としての責任が軽くなるわけではない。だから、初出勤の朝、俺は結構緊張していたのだと思う。テーブルの上に置いてあった大小二つの包み。両方ともS.K.とイニシャルが書かれた布で包んであったので、当然大きい方が俺の弁当だと思って、鞄に入れてしまったのだ。

 聡美が元気よく登校していく。それを見送った後、玄関で、沙希と行ってらっしゃいのキス。うん、新婚はこうでなくちゃ。


 大学病院までは歩いて五分。天気も良くてのんびりした気分だった。だが、それも病院につくまでのこと。白衣に着替えたとたんに、戦場に身を投じることになる。新米の俺は、ベテラン看護婦にどやされながら、病院内を駆け回る。病室から病室へ。患者から患者へ。カルテからカルテへ。

 ようやく一休みできたのは、午後もかなり遅い時間だった。休息室で鞄から弁当を出し、包みを開いた。

「なんだ、これ?」

 出てきたのは、ボール紙でできた箱だった。弁当を入れるには似つかわしくない。蓋を開けると……クレヨン、はさみ、糊といった品々。どれも丁寧にS.K.とイニシャルが書かれている。……聡美の道具箱だった。間違えて持ってきてしまったのだ。

 そういえば、小学校には給食がある。弁当を持っていくはずがないのだ。


 ……ということは。聡美が困っているに違いない。俺は自宅へ電話した。すぐに沙希が出る。

「沙希、まずいことになった」

「え、なに、一体?」

 俺の声が深刻すぎたか。もうちょっと軽く行かないと、余計な心配をさせてしまう。

「いやなに。弁当と間違えて、聡美の道具箱を持ってきちまったんだ」

「あら、やだ」

「すぐに来れる?」

「ええ、今すぐ」

 急ぎすぎるなよ、と言おうと思ったら切れてしまった。

 中学の校庭を、倒れた沙希を抱えて走ったことを思い出す。……まあ、今度は人工呼吸もOKだが。

 仕方がない。玄関で待とう。俺は道具箱を包みなおすと、病院の玄関に行った。

 案の定、沙希は走ってきた。片肺なのに、ぜいぜいと息を切らして。

「ばか、無理をするなよ」

「だって……大丈夫」

 困ったことに、沙希は自転車に乗れない。俺はポケットから千円札を何枚か出し、沙希に握らせた。

 ……ちなみに、大出血サービスだ。貧血で倒れるかも。

「タクシーを使え。いいな?」

「うん、わかった」

 素直に従ってくれた。手を上げると客待ちをしていたタクシーが寄ってくる。

「帰りもタクシーでいいから」

「え、だって……」

「健康が金で買えれば、安いだろ?」

「うん……」

 納得してくれたのか少々心配だったが、送り出した。そのとたん、腹が鳴る。

 うーむ、俺も少し自分の健康を気遣うか。


 売店でサンドイッチを買って、休息室でつまむ。弁当が届くまで小一時間かかるだろう。その間に急患でも入れば、食えるのがいつになるかわからない。

「あら、霧島先生、お弁当じゃないんですか?」

 戸口から首を突っ込んで、若い看護婦の一人が俺のサンドイッチを指差す。たしか、香川とかいった。

「新婚ほやほやだって聞いたのに。もう倦怠期?」

 ……大人になっても、俺は看護婦にからかわれる運命なのか。

「娘の包みと間違えちゃってね」

「えっ? もう、お子さん、いらっしゃるんですか?」

 やぶへびだった。さっさと食っちまわないと、面倒なことになる。

「ほら、仕事仕事」

 残りのサンドイッチを頬張りながら、看護婦を追い立てる。

 午後の間、忙しい最中だというのに、看護婦が二、三人固まってひそひそ話をしているのが目に付く。ちらちらこちらを見ているので、内容は聞くまでもないだろう。まあ、知れ渡るのも時間の問題だ。開き直るしかない。

 そこへ。沙希が弁当を届けに来た。聡美を連れて。

「ごめんなさい、どうしても一緒に行くって聞かないものだから」

 聡美はふくれっつらをしていた。珍しい。

「なんか、怒ってるみたいだけど」

「それがね……」

 沙希は、なんだか笑いをこらえているようだった。

「あいた!」

 聡美が、俺の足を思いっきり踏んだ。

『聡美、どうしたんだ?』

 聞いても答えてくれない。俺は沙希に質問を向けた。

「教室でからかわれちゃったの。授業中に早弁してるって」

 まあ、そうなるだろうな。

 しかし、聡美がちゃんと怒りを表現できるので、俺は安心した。相手から嫌われるのを恐れるあまり、怒るべきときに怒れない人がいる。それがストレスの原因となり、心ばかりか身体までも蝕んでしまうことがあるのだ。……臨床心理コースの受け売りだが。

 聡美は、きっと大丈夫。

『聡美、ごめん。お父さんが悪かった』

 手話で必死に謝る。何度も何度も繰り返して、ようやく機嫌が直った。ぎゅっと抱きついてくる。……やれやれ。


 二人を玄関から送り出して振り返ると。

 ああ、またこれだ……。

 看護婦どもが数名、興味津々といった面持ちでこちらを見ている。

「霧島先生、今の、奥さんと子供さん?」

「そうだ」

 開き直るしかない。

「でもでも、あの子、どう見ても小学三年生じゃ……」

「五年生だ」

 開き直るしか……。ええい、何でそんなに喜んでんだ、おまえらは。

「ひょっとして、ひょっとして、奥さんの連れ子?」

 開き直る。もう徹底的に開き直る!

「うるさいな! 俺と沙希が、中一の時に作った子供だ!文句があるか!」

 キャーッと、悲鳴だか歓声だかわからないものをあげながら、看護婦どもは散っていった。

 やっぱり俺は。

 一生の間。

 看護婦どもに冷やかされる運命なんだ!

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