第18話 雪の道
暦の上では春になったころ、遅い初雪が降った。
俺たちの新居は、大学病院に近い新築のアパートだった。もちろん、学生の身なので、親のすねをかじりまくってしまった。もう骨しか残ってないだろう。なにしろ、都内で3LDKだから、敷金・礼金だけでも相当なものになった。
四月からは、この大学病院が俺の職場になる。癌の治療の分野で、都内で最も優れた成果を出しているので選んだのだ。
ほんとは、沙希の祖母の川村静江さんにも同居するよう申し出たのだが、頑なに拒まれてしまった。俺に対する反感は消えていたので、純粋に住み慣れた家を離れたくないのだろう。それに、自分の店までこの新居から通うのは結構難しい、というのもある。店は、あの木造アパートの裏手にあるのだ。
朝、荒川のアパートへ聡美を迎えに行くと、聡美はがらんとした沙希の部屋であの写真を眺めていた。
「聡美、おいで」
そう呼びかけて、聞こえないことを思い出す。なかなか、こうした日常的なことは身につかないようだ。そばへ行って、そっと肩を叩く。
振り返ると、いつものように満面の笑み。この子が、学校で集団不適応を起こしていると聞いたときはびっくりした。この打ち解けようは、俺を最初から身内として見てくれていたからなのだ。
習いたての手話で、「新しい家に行くよ」の意味を伝える。元気よくうなづく。教科書を入れたランドセルと胸に大事そうに抱えた写真。それだけが荷物だった。
静江さんに見送られて、俺たちは懐かしい木造アパートを出た。
今朝の雪は思いがけず積もってしまい、小さな聡美は膝の上まで雪に潜ってしまうので、俺が背負ってやらなければならなかった。堤防の上の道は、車がほとんど通らないため新雪がそのまま積もっていた。聡美を背負って、えっちらおっちらと歩く。二人とも黙ったまま。実際は、背負った相手と手話で話すのは難しいからだ。どちらかが両手を離せば落ちてしまうし、片手では手話はできない。指文字というのもあるが、会話を楽しむには不便だ。
この先、聡美と一緒に生きていくのなら、色々な工夫が必要だな。そんなことを考えながら歩きつづけ、ようやく駅に着いた。
聡美を下ろして切符を買い、ホームで電車を待つ。ようやく、父娘の会話の時間の訪れだ。聡美の手話はものすごく速い。俺はまだ、沙希のようにスムーズに読み取れないし、本に出ていない単語もたくさんある。どうやら、沙希と聡美だけで作った単語がたくさんあるらしい。事実、本に出ているのは手話の共通語のようなもので、実際には手話のコミュニティーごとに方言や造語がたくさんあるらしい。
漠然と、手話は万国共通などと思い込んでいた俺は、自分の浅学を恥じるしかなかった。
やがて電車が来た。二人で乗り込む。
『明日、お父さん、遊んでくれる?』
聡美が手話で聞いてきた。俺も答える。
『大学、休み、聡美と遊ぶ』
手話には「てにをは」がないので、文字で書くと「インディアン嘘つかない」式になってしまう。その分、表情や身振りでアクセントを加えるので、聡美の表情は誰よりも変化に富んでいて、見ていて飽きない。慣れれば、それらで「てにをは」を補えるようになりそうだ。
『わたし、嬉しい。お父さん、大好き』
『お父さんも、聡美、大好き』
ボキャブラリーが少ない分、表現はいたってストレートだ。声に出したら恥ずかしくなりそうなことを、手話だと平然と言えてしまう。しかも、過剰なほどの表情というおまけつきで。聡美はよほど嬉しかったのか、電車の中だというのにピョンピョン飛び跳ね出した。
『聡美、静かに、他の人、迷惑』
聡美はシュンとなってしまった。かわいそうなので、頭を撫でてやる。栗色の巻き毛に指を絡める。
聡美は小学四年生だが、背丈は三年生にも負けてしまうだろう。この子にはもう一つ、生まれつき免疫力が弱いというハンデがあるのだ。そのため、ちょっとした風邪でも回復に時間がかかり、学校も休みがちになる。成長が遅いことにも影響しているようだ。おそらくは、実の父親の血を、二重に受け継いでしまったがために……。
これも知らなかったことだが、聡美のような聾唖の子供は、最近では普通学級に通わせるのが通例だという。なんでも、聾唖者が社会に溶け込みやすくするためだというのだが……。聾唖者は聾唖学校に行くものと思い込んでいた俺には意外だった。同時に疑問も感じたのだが、普通学級の担任として手話の技能を持った教師が十分にいなければ、きちんとしたケアができないのではないだろうか?
案の定、聡美の集団不適応は、言葉の問題と休みがちな点が原因だという。話を聞いた限りでは、どうも今の学校の現状では、聡美の抱える問題を解決する余力はなさそうだった。
俺は、聡美のためにやるべきことがいくらでもあることに、最近になって気づいた。手話を覚えるだけでは足りないのだ。医者の卵としては、時間がいくらあっても足りない。
聡美は、頭を撫でていた俺の手を取って、自分の頬に当てている。柔らかい頬。聡美のしぐさは沙希によく似ている。それがまた、愛しさを募らせるのだ。
聡美はそのまま手話を紡いできた。
『お父さん、知ってた?』
『なにを?』
俺は反対側の手で聞き返した。聡美は、にっこり笑うと紡いだ。
『お父さんに会うために、わたし、生まれたの』
つぶらな瞳で見つめながら。……俺はもう、なにも言葉が出なかった。なんだよそれ。ハートを一撃だぞ。
そうこうしているうちに、電車は駅に着いた。人通りが多いので、このあたりの道は雪が少ない。俺は聡美の手を引いて歩き出した。まあ、時間だけを考えればおぶっていった方が速いのだが、甘やかしすぎるのも聡美のために良くない。……このあたり、多少は父親らしくなっただろうか?
やがて、俺たちの新居のアパートに着いた。階段で二階へあがる。一段ごとに、聡美の興奮が足音からわかる。聡美には部屋の番号を教えてある。我慢できなくなったのか、ぱっと駆け出して呼び鈴を押した。
ガチャリ。中からドアが開く。聡美はジャンプして沙希に飛びついた。
「あらあら、赤ちゃんみたいね」
両手がふさがってるので、沙希は口を大きく動かしながら喋った。聡美は
聡美は意味がわかったらしい。真っ赤になって自分から降りる。俺はといえば、そんな二人を眺めながら、無上の喜びを噛みしめていた。
祈りが通じたのだろうか、成功率四十パーセントと言われた手術は成功した。その結果、沙希はかろうじて普通に暮らせるだけの体力を取り戻したが、右の肺に続いて胃のほとんどを失うことになった。
感染症の恐れがあり、術後の回復が遅れがちだったのだが、先日ようやく退院できたのだ。担当医を説得して、手術で摘出する範囲を、腫瘍の周りぎりぎりに限ったのがよかったらしい。再発を恐れて回りの組織を大きく切り取ってしまえば、それだけ回復が遅れ、後遺症も残りやすい。だから、再発は覚悟の上だった。
沙希は、どうしても新居の準備を自分でやりたいと言うので、昨日直接こっちに来て引越しの荷物の受け取りなどをしていたのだ。俺としては、無理をしやしないかとはらはらしていたのだが、荷物の動かし方一つとっても、身体に負担が来ないように実に良く考えているので、かえって感心してしまった。
「この身体で十年も暮らしてきたんだから」
そう言って沙希は笑うのだ。こうなると、脱帽するしかない。
つくづく、時の流れは不思議だと実感する。沙希の外見は、十年前とほとんど変わらない。だが、内面は驚くほど深みを増していた。体育で走っては倒れ、給食を食べきれず戻していた、か弱くてはかない沙希。だが、それは昔のことだ。
女は弱し、されど母は強し。昔から言われてきたことだが、確かに聡美を育てることで沙希は強くなっていた。
沙希は祖母の静江さんの店を辞め、この家で専業主婦になる。本人の強い希望だ。これからは俺や聡美のために、自分の時間をすべて費やしたいというのだ。穏やかな中に強い意志が感じられる。
「もう、俺が抱きかかえていなくても、ちゃんとやっていけるな」
そう言うと、沙希は笑って言った。
「やだ、手は握っててくれなきゃ」
……何はともあれ、新居に入らなければ。
「うー、冷える冷える。中に入ろう」
「あ、ちょっとまってね」
沙希は聡美を連れて玄関に上がる。そして、自分と並ばせて廊下に三つ指を着いた。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
一緒にお辞儀する。
「おいおい、俺はお客さんかい?」
「変かしら?」
「変」
うーん、と考えてから、やり直す。
「いくわよ。えー、ふつつかな母娘ですが、よろしくお願いします」
ま、いいか。
「こちらこそ、不出来な夫で父親ですが、よろしくお願いします」
深々とお辞儀する。
三人でクスクス笑い、笑いながら部屋に入っていった。
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