第17話 聡へ

 翌朝、沙希の病室に行くと、もぬけの殻だった。


 驚いて、通りがかった看護婦を捕まえて聞く。何でも、今朝早く様態が急変して、手術を早めたのだという。

 なんということだ。


 おれは、主治医の医師を探した。手術の成功率は、四十パーセントだという。そして、俺宛に預かっているものがあるといって、封筒を渡してくれた。中身は、署名捺印された婚姻届と、テープだった。ゆうべ、これを録音していて、症状を悪化させたのか?

 テープには、「聡へ」とだけ記されていた。

 沙希の手術の間、俺は手術室の前でそのテープを聞いた。沙希のソプラノが俺に語りかけてくる……。


* * *


 聡。今度の手術、成功率があまり高くないと聞いたので、このテープを残します。

 聡には、ほんとに良くしてもらって……感謝のしようもありません。なのに、わたしのせいで聡はいつも苦しんでたわよね。何度も命を助けられて、何度も励ましてくれたのに。わたしは何もしてあげられなかった。ごめんなさい。ほんとに、ごめんなさい……。

 もう、会えないと思ってました。謝ることすらできないと。だから、このチャンスは生かさないとね。……ほんとは、誰にも言わずにお墓の中まで持っていくつもりでした。でも、聡のことだから……。あなたは、真実を知らずに平和に暮らすより、真実を知って苦しみぬく方を選ぶ人だから……。話します。あの、十一年前の、クリスマスイブに起きたことを。

 …………。

 あの日、わたしはうちに帰ってから、聡の家のパーティーに何を着ていこうかと、ずっと考えていたの。わたしは、ほとんど私服で出歩く機会がなかったから、小学校時代の服しかなかったの。

 学校の制服以外は、ほんとに子供っぽい服ばかりで。聡が、わたしをご両親に紹介するって言ってたから、あなたに恥ずかしい思いをさせたくなくって……それで、お母さんの若いときの服を借りることにしたの。

 わたし、背丈の方はお母さんと変わらないくらいに伸びていたから、きっと似合うと思ったの。それで、以前お父さんとお母さんが使っていた寝室に入って、久しぶりにクローゼットをあけて、色々試してみたの。

 聡も、写真を見て知ってると思うけど、あの頃、わたしはもうお母さんにそっくりでした。お母さんの服を着て鏡の前に立つと、自分でもそこにお母さんが生き返ってきたような気がして。ちょっと泣きそうな気分になっちゃって。


 お母さんが生きてるときは、ほんとに幸せだったなーって。


 信じられないかもしれないけど、その頃のお父さんは良く笑う人で、いつも冗談を言ってはわたしやお母さんを笑わせてました。そう……お母さんの癌が再発して、激しく痛み出してから、次第に変わっていったんです。

 お父さんは……やさしい人でした。聡と同じくらい、やさしい人。やさしすぎたから、きっと、お母さんの苦しみを、わたしやお母さん以上に感じてしまって、……耐え切れなくなったんだと思います。

 クリスマスイブは、お父さんがお母さんにプロポーズした日でした。だから、毎年三人でお祝いをしていたんです。でも、お母さんが入院して……痛みがひどくなって、死ぬ前に意識を失った日でもあるんです。

 わたしは、ずっとお母さんの手を握ってました。怖くて、悲しくて、つらくて、寂しくって……わたしの方が死んじゃうかと思うくらいでした。でも、手を握ってると、痛みが和らぐって、お母さんが言うから……。

 その日、お父さんは仕事に行ってました。どうしても抜けられなくって。でも、お母さんが死んだ時、会社を辞めてでもそばにいればよかったと、お父さんは泣きました。それから、お父さんは笑わなくなりました。

 …………。

 ……話が、とりとめもなくってごめんなさい。大事なことを言う前に、色々知っていて欲しいから。

 …………。

 お父さんが、だんだんやつれていくの、聡、わかりましたか? わたし、心配でならなかった。お父さんは、お母さんの手を握っていてやれなかったことを、ずっと悔いていたんです。そして、わたしが癌になったとき、また最期まで一緒にいられないんじゃないかと、それを恐れていたんです。

 だから、聡が……わたしのことを想ってくれるので、すごく頼りにしていたんです。


 お父さんは、お母さんが死んだ後、しばらく病院に通ってました。ひどいノイローゼになっていたんです。でも、薬やカウンセリングでかなり良くなって、会社にも行けるようになっていたんです。聡と出会った頃には。でも、完全に良くはなっていなかったんです。だから……だからあんなことに……。

 …………。

 ……話を戻します。わたしは、聡のパーティーに行くため、お母さんの服を着てみました。それで……そう、わたしがいけなかったの。つい、試してみたくって。お母さんの化粧品を。ちょっとだけ、お化粧の真似事をしてみようと、すぐに落としてしまうつもりで。それで、お母さんの化粧台にすわって、お母さんのまねをして、髪を結ってみたり、口紅を試してみたりしてたら……。

 そのとき……お父さんが……お父さんが帰って来て。わたしを見て、「美希」って。

 ……聡。

 ……聡。

 ……聡。

 ……聡。

 ……聡。

 ……ごめんなさい。つらいときに、あなたの名前を呼ぶのが癖になっちゃって。いままでずっと、あなたに支えられて生きてきたから。

 勇気を出して言います。お父さんは、そのとき、正気を失ってしまったんです。わたしが何を言っても聞こえなくて、わたしをお母さんだと思い込んで。だから……だから……。

 お父さんはわたしを「美希」と呼びました。お母さんの名前で。わたしがいくら、「わたしは沙希よ、お父さん、沙希なのよ」と叫んでも、聞こえないんです。

 お父さんは泣いてました。「美希、ごめん、美希、ごめん」とくり返しつぶやきながら。そして、お父さんはわたしを抱きしめて。すごい力で。骨が折れそうなくらいに。

 そして……そして……お父さんは、わたしにキスをしました。無理やりに。怖かった。わたしは悲鳴をあげました。拳でお父さんを叩いたり、引っかいたりしました。でも、お父さんはやめてくれないんです。わたしを、お母さんだと思い込んでいるから。

 お父さんはわたしを抱えたまま、ベッドに向かいました。そして、わたしを押さえつけると、服を……服を脱がして……。わたし……恐ろしくて、もう何がなんだかわからなくて、身体が震えるばかりで。自分の身体が、自分のものじゃないような気がして……。

 うそだ、これは悪い夢なんだ、そう必死に自分に言い聞かせてたんです。だから、目をつぶって、起きなきゃ、目を覚まさなきゃ、って。でも……夢じゃなかった。

 わたしが何もできないでいるうちに、服は全部剥ぎ取られてしまいました。そして……舌が……わたしの胸を……。

 聡。あなたが触ってくれたときは、わたしはあんなに幸せになれたのに。お父さんのことも、聡に負けないくらい好きなのに。わたしは怖くって。気持ち悪くって。ただそれだけでした。なぜなのかしら。

 それから……覚えているのは、苦痛です。痛かった。身体を二つに引き裂かれるような痛み。いつまで続くのか、終わるときが来るのか、わからないような苦痛と恐怖。

 気がつくと、わたしは叫んでました。かたっぽの肺しかないのに、ものすごい声で悲鳴をあげてました。でも、わたしが叫んでたんじゃないんです。うまく言えないんですが……わたしが二つに分かれて、悲鳴をあげているわたしと、それを聞いているわたしがいる。そんな感じがしました。

 ……どれくらい時間がたったのか。わたしは裸でベッドの上に寝ていて、お父さんも裸で、わたしの上に乗ってました。お父さんは眠っていました。わたしは……わたしは……。

 お父さんの……性器が、わたしの中に入っているのを感じました。それで、何が起こったのかを、ようやく理解したんです。わたしは泣きました。泣きながら、お父さんを起こそうとしました。「お父さん、起きて、起きて」と。


 お父さんは、目を覚ましても、しばらく何もわからないようでした。わたしの顔を見ても、まだお母さんと区別できないみたいなので、なんどもくり返しました。「わたしは沙希よ、お父さんの子供の沙希なのよ」と。

 お父さんは、のろのろと起き上がりました。そして、身体を離してようやく、わたしが沙希だとわかったんです。

 お父さん……かわいそうなお父さん。自分が何をやったのか気がついたとき、お父さんは悲鳴をあげました。そして、わたしの上から飛び降りると、そのまま床の上にくず折れて、叫びながら泣いてました。狂ったように。

 わたしは、しばらく動けませんでした。体に力が入らなくって。でも、お父さんがどうにかなってしまうと、心配になって、体を起こしてみたんです。そうしたら……股の間がすごく痛くって。見たら、血だらけでした。貧血を起こしそうになりました。でも、このままではお父さんが気が狂ってしまうと思って、なんとか身体を起こして、ベッドから降りたんです。

 でも、今度は脚に力が入らなくって。その場にへたり込んでしまいました。だけど、お父さんのところへ行ってあげないと。そう思って、這っていきました。

 お父さんは、床の上にうずくまって震えてました。わたしが肩に触れると、びくっと怯えて。わたしは、声を落ち着けて、言いました。

「お父さん、わたしよ、沙希よ、大丈夫だから、わたしは大丈夫だから」

 お父さんが落ち着くまで、かなりかかりました。そのとき、電話のベルが鳴ったんです。せっかく落ち着いたのに、お父さんは、すごく怯えました。病院からの電話だ、と言って。だから、出なくちゃ。わたしが電話に出なくちゃ。そう思って、裸のまま、よろよろと立ち上がって電話に出ました。


 聡。あなたからだった。

 声が出なくなってしまったの。


「何があった?」

 そう聞かれて、一体何があったのか気がついて。

 涙が出てきました。わたしは……この身体は……あなたのものになるはずだったのに。あなたのしるしだけを刻んで、わたしの生きた証にしたかったのに。もうだめ。あなたに会えない。そう感じて……。

「今行くから!」

 あなたがそう言ったとき、怖くなりました。恐ろしくって、電話を切ってしまいました。インターホンがなるのが怖くって、はずしてしまいました。

 怖かった。今のわたしをあなたに見られるのが。お父さんを見られるのが。その夜は、裸のまま、うずくまってずっと震えてました。

 …………。

 聡。お父さんを赦して。お父さんは、心の病気なの。お願い、赦して。

 聡が赦してくれなかったら、お父さんがかわいそうすぎるから……。


 朝になると、お父さんはいつものお父さんに戻ってくれました。うずくまってたわたしを抱き上げ、風呂場で洗ってくれて、ベッドに寝かせてくれました。だから、その後何日かは、ごく普通に暮らせていたんです。でも、電話が……電話が鳴ると、お父さんは耳をふさいで震えてしまうんです。だから、受話器をはずしてしまいました。

 わたしの具合が良くなかったので、食事は店屋物がほとんどでした。だから、インターホンだけは使えるようにしたんです。でも、お父さんが怯えるので、出るのはわたしでした。

 だから……聡が二度目に来たときも、出たのはわたしです。

 ごめんなさい。心配して、何度も来てくれたのに。わたし、何も言えなかった。


 そして、最後のとき、


「裏切り者」と言われて……そうなんだ、わたしは聡を裏切ってしまったんだとわかって。そうしたら、急に苦しくなって、吐いてしまいました。

 それで……ごめんなさい、日数の記憶があいまいなの。何日かたって、生理が止まっているのに気がついて。以前から、薬の影響で間隔は不安定だったけど。まさか、と思って、前に看護婦さんにもらった妊娠検査キットを試してみたんです。

 陽性でした。目の前が真っ暗になりました。どうしたら良いのかわからなくって。すっかり混乱してしまって。それで、お父さんに相談したんです。

「お父さん、赤ちゃんができちゃった」って。

 心配でした。また、お父さんが狂ってしまうんじゃないかって。でも、お父さんは落ち着いてました。一言、「一緒に死のう」と言ったの。

 わたしも、もう生きていたくなかったから。聡のものになれなかった自分が、赦せなかったから。「うん」と答えてしまいました。

 お父さんは遺書を書きました。でも、わたしは書き残す人がもういませんでした。だから、お父さんが分けてくれた睡眠薬を、ただ飲んだんです。

 でも。わたしは死ねなかったんです。たぶん、胃が弱ってたから。気がついたら、ベッドから落ちて、床の上に飲んだ薬を吐いて倒れてました。わたしは、どうしていいかわからなくて、お父さんの書斎に行きました。


 でも、お父さんはもう死んでました。


 わたしはベッドのそばにへたり込んで、呆然としてました。涙も何も出てこないんです。心が空っぽになってしまって。

 どのくらいそうしていたのか、そのうちに、昔お母さんから教えてもらった、おばあさんの家の番号を思い出したの。おばあさんには、それまで会ったことはないんです。お父さんとお母さんは駆け落ち同然だったらしくて。でも、孫のためなら何かしてくれるはずだ、お母さんはそう言ってました。

 電話をすると、おばあさんが出ました。わたしはどこから話して良いのかわからなくて、お父さんが死んだことだけを話しました。

 しばらくすると、警察と一緒におばあさんがきました。わたしはおばあさんの家につれてこられました。警察の人にはいろいろ聞かれましたが、ほとんど話してません。わかってもらえる自信がなかったから。

 お父さんのお葬式は、ほんとに簡単なものでした。会社の人が何人か来て。それだけ……。

 おばあさんは、わたしの病気のことは知りませんでした。わたしは……病院へ行きたくなかった。病院に行けば、妊娠していることがわかってしまうから。

 自殺しそこなって、お父さんが死んでしまって、わたし考えたんです。もし、このままわたしが死んだら、お父さんとお母さんの人生ってなんだったんだろうって。わたしは、もう長くないと覚悟してました。でも、もし、おなかの中の子が元気に生まれたら、何かを残したことになるんじゃないかって。

 この子は、お父さんの子。だから、わたしの妹でもあるんです。その時は、弟かもしれなかったんですが、なぜか妹だという感じがしたんです。

 ずっと、妹が欲しかったから。一緒に遊んだり、おしゃべりしたり。わたしが死んでしまっても、元気で生きつづけてくれる妹が。


 不思議なものね。病院に行かず、薬を飲むのもやめてしまったのに、わたしの体調は悪化しませんでした。新しい学校にも、春まではほとんど休まずに通えたんです。

 妊娠していることは、誰にも言いませんでした。絶対に産むなと言われるから。でも、おなかが大きくなりだすと、そうもいきません。だから……ごめんなさい、聡。おなかの子供は前の学校で付き合ってた人の子だと、嘘をつきました。お父さんの子だなんて言えば、産ませてくれないから。


 病院に行くと、前の病院からのカルテが来ていて、大騒ぎになってしまいました。いろんな人が入れかわり立ちかわり説得に来るんです。このままでは危ないから中絶しなさいって。でも、わたしはお願いしたんです。産ませてください。わたしは長く生きられないから、この子だけでも助けてください。何も残さないで死ぬのは嫌ですって。

 説得するのは大変だったけど。ほんとに、泣いたり暴れたり、すごかったの。でも、最後には産むことを許してくれました。おばあさんも、最後にわかってくれました。

 結局、何度かひどい熱を出してしまって、六ヶ月の早産になってしまいました。でも、わたしは幸せでした。これで……これでやっと、生きてきた証を残せるって。


 娘の名前は聡美にしました。聡の名前と、お母さんのから一文字ずつもらって。それからは、聡美がわたしの生きがいでした。なんか、この子に生かされている、逆に生きる力をもらっている、そう感じました。


 聡美の耳が聞こえないとわかったのは、生まれて半年くらいです。多分、出産前の高熱と、早産が原因です。最初はショックでした。でも……変な話だけど、わたしは障碍をもって生きることに、あまり抵抗を感じないみたいです。きっと、聡みたいに、他人のために喜んで何かしてくれる人に、出会えたからでしょうね。

 残りの中学生活は、ほとんど育児で終わっちゃいました。昼間はおばあさんに見てもらって、学校から帰るとわたしが交替。おばあさんは小さな居酒屋をやっていて、それで暮らしていたんです。だから……高校へは行かず、そのお店を手伝うことにしたんです。そのほうが、聡美と一緒にいられるから。

 ……これで全部です。

 聡、ごめんなさい。それから、ほんとに……ほんとに、ありがとう。


* * *


 テープが終わった。俺は手術室の前のベンチですすり泣いていた。


(あなたは、真実を知らずに平和に暮らすより、真実を知って苦しむ方を選ぶ人だから……)


 沙希はそう言った。そのとおりだった。知るにはあまりにも重い事実。だが、知らずにいたら自分を赦せなかったろう……。

 沙希を想って泣いた。浜田氏のために泣いた。聡美……不幸な出生の秘密を背負ってしまった、小さな命のために泣いた。誰も悪くない。誰も罪を犯していない。なのに、誰もが苦しんでしまう。一体なぜ?


 沙希。死ぬな。絶対に、死ぬな。まだ死んじゃいけない。俺には、まだおまえに言わなければいけないことがある。浜田氏を赦すと。聡美を愛すると。それをおまえに伝えなければ。

 俺は祈った。神か仏か知らんが、とにかく祈った。


 贅沢は言いません、あと少しだけ、沙希に時間をください。

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