第16話 入院

 翌日、沙希は入院した。


 手術のためにいくつかの検査が必要で、あわただしく準備が進んでいった。

 その一方で、俺は沙希との婚姻届を準備していた。二人とも成人だから、本人同士の署名捺印だけで済む話だ。だが、今後のこともある。俺は両親に全てを話した。沙希の病状、子供のこと、俺の願い……。ただ、聡美のことは、俺の子だと伝えた。これ以上、話をややこしくしたくなかったからだ。

 もちろん、母は泣いて反対したが、意外なのは父だった。

「医者として、男として、恥ずかしくない生き方をしなさい」

 それだけだった。俺は、初めて父と気持ちが通じたような気がした。


 沙希の病室には、先客がいた。小学校から帰ってきた聡美だ。ランドセルを脇において、母親のそばに腰を下ろしている。俺が入っていくと、先に沙希がこちらに気づいた。その視線を追いかけて、聡美も俺に気づく。

「!」

 言葉は出ないが、満面に笑みをたたえて、俺のほうに突進してくる。俺は両手で聡美を抱き上げ、そのまま何度かぐるぐる回って、床の上にトン、と降ろす。聡美は俺の身体に抱きついた。

 小さな聡美。沙希の小型版。この子のおかげで、沙希の見舞いの喜びは二倍になった。

 聡美の手を取って、沙希のベッドへ向かう。

「具合は?」

「平気」

 そういいつつ、キスをねだる。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 いつものキス。

 くい、くい。すそを引っ張られた。見ると、聡美が自分を指差し、口をとがらせた。

「聡美もキスが欲しいってさ」

「まあ、おませさん」

 俺たちは笑ったが、聡美はすねてしまった。機嫌を直してもらわないと困るので、おでこにキスしてあげた。額に手をやり、恥ずかしそうに微笑む聡美。

 俺はショルダーバッグから書類を取り出した。

「ほら、婚姻届」

 沙希に渡す。それを見ながら、またもや沙希は涙ぐむ。

「あとは、おまえが署名捺印するだけだよ」

 手術の手続きのため、実印は持ってきてあるはず。

「ほんとに……いいのかしら」

 まだ迷いがあるらしい。

「俺の気持ちは、言ってあるはずだ」

 沙希の肩に手を置く。

「もしも、おまえが明日死ぬのなら、俺は今日、結婚したい」

 沙希はうなずいた。

「でも……大事なことだから、一晩待ってくれる?」

「いいけど……まだ死ぬなよ」

 死という言葉をみだりに使うことを、不謹慎と思うかもしれない。だが、沙希と一緒に生きるのなら、死は身近な話題になる。


 問題は聡美だ。幼い心に、母親の死がどれだけ重い影を落とすか。聡美の方を見やる。パイプ椅子に向かって床に膝をつき、教科書を開いて、学校の宿題をしている。かわいらしいしぐさ。だが、何か気になる点があった。なんだろう?

「聡……」

「なんだい?」

「わたし、まだ話してないことがある」

「聡美の父親のこと?」

 うなづく。

「それと……クリスマスイブのこと」

 そうだ。沙希はパーティーに来なかった。そして、別離。

「少し……時間をくれない? きちんと整理して話したいから」

「ああ、いいとも」

 この日は論文のゼミがあったので、早めに病室を後にした。病院の玄関までついてきた聡美に手を振り、地下鉄で大学へと向かう。無邪気な笑顔が、俺の心を暖めてくれる。さっきも宿題をしながら……。


 手すりを握る手に、思わず力が入った。何か気になっていたことがあった。それがはっきりしたのだ。


 聡美が開いていた教科書……それは小学四年生のものだった。ということは、聡美は九歳か十歳ということになる。ならば、沙希が身ごもったのは、中一の夏から中二の春の間でなければならない。

 俺は、鞄を開いて書類をあさった。手続きの一環で、沙希の戸籍謄本をとってあったのだ。まだ詳しく見ていなかった。書類を開く。聡美の誕生日は……六月二十三日。

 俺は脚ががくがくしてきた。これは……どういうことだ? 沙希が身ごもったのは、俺と一緒にいた時期だった。だが、俺はほとんど毎日沙希と会っていたのだ。いや、事実上いつもと言っていい。学校でも、登下校でも、病室でも、俺以外に誰かが入り込む余地はなかった。思い込みではない。物理的に不可能なのだ。


 あの時期、沙希が愛した男が他にいた? まさか。沙希にそんな器用なことができるわけがない。では……では、一体誰が。

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