第13話 聖夜に降る雨

 沙希の病室に、賞状が届いた。合唱コンクール特別賞の賞状だ。


 あとから知ったことだが、コンクールのルール上は、指揮者は歌ってはいけないことになっていたそうなのだ。だから、俺たちは本来なら失格だった。沙希がキヨさんにお願いしていたのは、失格しても良いか、という点だった。

 キヨさんの返事は「順位が全てじゃないからな。わかった、まかしとけ」だったそうだ。結局、キヨさんの提案で事前に特別賞が新たに設けられ、演奏後の審査員の投票で決まったのだそうだ。


 それともう一つ、ビデオがあった。コンクールの当日は残念ながら浜田氏は仕事で来られなかったのだが、別な父兄が……実は安堂由香の父親なのだが、娘の晴れ姿を撮るつもりでカメラを構えていたのだ。が、思わず沙希の姿に焦点が合ってしまい、肝心の娘を撮り損なってしまったらしい。

 娘には不評だったようだが、作品としては逆にいいできになったと思う。なんせ、安堂は一番背が低いので、上の段の端にいたのだから。そのまま撮っていたら、よくある親馬鹿の証拠ビデオになってたはずだ。

 安堂には悪かったが、そのビデオを沙希と見ながらその話をして、結構笑ってしまった。しかたがないのだ。病室には娯楽が少なすぎる。特に、今の沙希には。

 天城先生の言ったとおり、沙希の症状はかなり悪化していた。全身にできた腫瘍のうち、いくつかは大きくなりつつあり、危険なサイズに近づいていた。造血機能の低下も気になる。吐血はまだないが、貧血の度合いは増えてきた。

 病状が安定するまで、沙希は学校を休むしかなかった。そのため、期末試験も病室で受けることになってしまった。まあ、成績の方は何とかキープできたと思う。だから、進級はできるはずだ。体力さえ持てば。


「ただいま、沙希」

「お帰りなさい、聡」

 ベッドに半身を起こした沙希と、挨拶のキス。もう、横に立っている看護婦も慣れっこになっているので何も言わない。

 俺は沙希の姿をしみじみと眺めた。沙希の自慢の、ゆるくカールした長い髪。夏頃、制癌剤のせいで抜け毛が増え、ひどく嘆き悲しんでいた。しかし、もうそんなことはない。どちらがいいのだろう。髪の毛は女の命とよく言うが……。


 俺は、沙希の髪の毛に触れ、ほお擦りした。

「聡……」

「ごめん。あんまり綺麗だったから」

 沙希は赤くなった。でも、嬉しそうだった。

 俺も、素直に本当のことが言えるようになった。ちょっとは大人になったのかな?

「それじゃ浜田さん、用意の方、よろしくね」

 う、看護婦がいるの、完全に忘れてた。

「はい」

 看護婦が出て行く。俺の頭上には疑問符が浮いていた。

「何の用意だって?」

「うふふ」

 幸せそうな沙希。

「長期外泊」

「え、いつまで?」

「冬休みの間」

「……すごいじゃないか!」

 俺まで有頂天になってしまった。

 なんでも、薬を変えたので、血小板の減少がおさまり、内出血の危険性がほぼなくなったためだという。これは、とてもよい兆候に思えた。


「久しぶりに帰れるな」

「うん……聡が来てくれるから、ここも悪くないけど」

 言ってくれる。そう、マンションよりも病院の方が学校に近いし、塾へも俺の家からより近いので、多少は一緒の時間が増えるのだ。だが、やはり病院から出られるのはいいことだった。

「じゃあ、クリスマスイブには外に出れるね」

「ええ」

 言おうか言うまいか。いや、ためらっている暇はない。

「それじゃあさ……うちに来ない?」

「え?」

「毎年、クリスマスパーティがあるんだ。結構派手に」

 息子の誕生日も祝わない不精な両親が、信仰してもいない宗教の行事を祭るのは変な話だ。だが、病院というところは結構人間関係がややこしくて、こうして関係者を招いてもてなす機会がないと円滑に動かないらしい。

 そういう場所であれば、体面を重んじるうちの親が、自分が勤務する病院の患者を邪険に扱うはずがない。だから、その場で沙希を紹介して、正式な交際を認めてもらう算段だった。まあ、中学生としてはうまい方法だと思っていた。

 沙希にはその辺はぼかしておいた。単に、両親に紹介すると話しておいた。それで充分だった。沙希はさっそく何を着ていくかを考え始めた。

「困ったなー、外に行く機会がなかったから……」

「ちょっとフォーマルで清楚な感じのものでいいな」

「……」

「なんならセーラー服のままでも」

 オジサンどもに受けるかも。

「ダメよ」

 ダメか。

「センスが無いなんて思われたくないもの」

「そうか……」

 そんなものが俺に無いってことだけはわかるんだが。

「それにね……あの……えーと」

「どうした?」

 沙希は真っ赤になってもじもじしている。


「ちゃんと……しておきたいから」


「何を?」

「だから……こんどこそ……誕生日のプレゼント」

 今度は俺のほうが真っ赤になった。

「ね? そういう時に、制服だとなんか、変でしょ?」

「変かなぁ……」

 そうは思わなかったが、反論はしなかった。

 クリスチャンの人が聞いたら目をむきそうな話題だろうが、俺は天罰が下っても構わないと思っていた。

 ……だから、あれは天罰だったのかもしれない。


 パーティーの当日。俺はスーツに蝶ネクタイなどを着せられていた。馬子にも衣装で、これで多少は雰囲気に溶け込める。予報では、今夜は雪になるといっていた。あたれば、久しぶりのホワイトクリスマスになる。

 パーティーが始まるまではまだ一時間あったが、リビングや客間には医大の教授達が夫人同伴でやってきて、カクテルを賞味している。沙希は多少遅れそうなことを言っていた。浜田氏にエスコートしてもらってくる予定なのだという。沙希によれば、父親と一緒に来たほうが、きちんとした娘に見えるだろうから、ということだった。

 ちょっと気になるのは、未だ現れない、その浜田氏だった。あの日、沙希の長期外泊が決まった後で会ったのだが、以前にもましてやつれてきているように見えるのだ。本当に身体の方は大丈夫なのだろうか……。


 パーティーが始まる時間が過ぎた。しかし、沙希はまだ来ない。ひどく遅れるようなら電話をくれるはずだ。もう少しして来なかったら電話をしてみよう。

 三十分たった。いくらなんでもおかしい。まさか、容態が急変したとか言うのでは。俺は電話機のところへ行った。

 沙希の家に電話をかける。もはや、目をつぶっていても一瞬で押せる番号。ベルが鳴る。もし沙希がいれば、必ず十回以内に取るはず。

 一回、二回…………八回、九回、カチャ。

「もしもし、沙希か?」

 返事がない。

「沙希! そこにいるんだろ! どうした? 何があった?」

 ヒュ、とかすかに息を呑む声。

「何かあったんだな! 発作か? 黙ってちゃわからないよ、話して!」

 その時。かすかな音が聞こえてきた。聞き覚えのある、胸を締め付けられるような音が。

 泣いている。沙希が泣いている。本当に悲しい時、沙希は、息を詰めて、ただはらはらと涙を流しながら泣くのだ。初めて会った時のように。

「待ってろ、今行くから!」

 再び、息を呑む声。プツリ。電話は向こうから切れた。

 何かがあった。何かが沙希の身に起きた! どうして……どうしてこの時に!

 俺は、靴を履くのももどかしく、玄関から飛び出した。外は……雨。

 ホワイトクリスマスになり損ねた水滴が、無情にも天界から降り注ぐ。俺は空をにらみつけて叫んだ。


「もし、神がいるのなら、この借りは、必ず返してもらうぞ!」


 突き刺さるような氷雨の中へ、俺は飛び込んでいった。走る。走る。走る。滑って何度も転び、泥だらけになって走る。三十分後、浜田家のあるマンションの前にたどり着いた時、俺は寒さとも怒りとも恐怖ともつかないもので震えていた。

 マンションの五階にある浜田家の窓はどれも真っ暗で、一見、留守のように見えた。しかし、なぜか感じられた。沙希はあの中にいる。凍えて、うずくまり、恐怖と絶望に震えている。行かなきゃ。早く行かなきゃ。


 マンションのエントランスホールに入る。ここは電子ロック式で、中へ入るにはホールからインターホンをかけて、部屋の中からリモコンでエレベータホールへのドアの鍵を開けてもらわないといけない。俺はインターホンにすがりつき、震える指で浜田家の部屋番号を打ち込んだ。インターホンのベルは……話中。受話器がはずされているのだ。

 沙希。教えてくれ。何があったんだ。どうして何も話してくれない。教えてくれ。顔を見せてくれ。お願いだから……。

 ホールにうずくまり、震えながら、俺は明け方まで同じことをつぶやき続けていたらしい。マンションの管理人が発見した時は、肺炎を起こしかけていたそうだ。

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