第14話 初雪に消ゆ

 医者の息子の不養生。


 病院のベッドで意識が戻った時、看護婦からそういわれたうえに、極太の注射を、よりによって尻に打たれた。激痛と屈辱。

 だが、沙希の身を案じて感じる苦痛に比べれば、どうでもいいことだ。あれから何度電話しても、受話器は外れたまま。病院を抜け出してマンションのホールからインターホンをかけても、何も答えず切られてしまう。

 わからない。何があったのか。なぜ何も話してくれないのか。会ってくれないのか。

 大晦日の夜、何度目かの病院脱走をとげた俺は、マンションのホールに立ち尽くしていた。何度もインターホンのボタンに手を伸ばしては、ためらう。


 今度……今度一方的に切られたら、もうおしまいだ。


 なぜか、そんな気がした。弱気とか、弱音ではない。そういう運命みたいなものが、ずっしりとのしかかっているように感じられたのだ。

 頭が痛い。まだ寒気がする。親父からは、脱走するたびに、寝てないと死ぬぞと叱られた。うん……このまま死んじまった方が楽かも。つい、そう考えてしまう。

 どうせ死ぬなら……もう一回絶望しても一緒だな。

 のろのろと指がボタンを押す。呼び出し音。カチャ。無音。だが、つながっていることはわかっている。

「沙希……俺だ」

 無言。だが、そこに沙希がいるのが感じられる。片肺で、苦しそうに息をしているのが感じられる。なぜか、感じられるのだ。

「俺を……裏切るのか?」

 息を呑む音。

「なぜだ?」

 声もなく泣いている。

「泣いてちゃわからないだろ!」

 泣いている。

「俺にどうして欲しいんだ!」

 泣いている。

「沙希!」

「……さようなら」

 消え入りそうな声で。

「裏切り者!」

 思わず叫んだ。受話器の向こうで、うぐっと喉を鳴らす声がした後、インターホンは切れた。


 終わった。……終わってしまった。


 壁を背にし、俺はずるずるとその場にくずおれ、幼児のように泣きじゃくった。だが、いくら泣いても、涙は一滴も出てこなかった。


 年が明けて、初雪が降った朝。沙希は消えていた。行方も告げずに。

 その日の夕方、担任からの電話で、沙希の父、浜田氏が自殺したことを知らされた。

 残された遺書によると、クリスマスイブは浜田氏が妻にプロポーズした日であり、また、臨終を迎えた妻が意識を失った夜だという。

 この夜、浜田氏は病院に戻るはずだったが、会社で残業していた。妻の苦しむ姿に耐えられず、仕事に逃げ込んだのだ。愛妻の手を握りつづけられなかった自分の弱さを悔いて、妻の命日であるこの日に、自ら命を絶つのだという。

 俺は思い出していた。春、沙希が退院する前夜、浜田氏と話したことを。沙希が死を迎えても、最後まで看取ってやると、俺は大見得を切ったのだ。ひょっとしたら、そうした俺の存在が自殺へとさらに追い込んでしまったのかもしれない。

 クリスマスイブからの十日間あまり。浜田氏は自宅に閉じこもり、自分で自分を追い詰めていたのか。その姿を間近で見ながら、沙希も苦しんでいたのか。母の手を、最後まで握り締めていたように……。

 馬鹿な奴。俺だって……俺だってそのくらいできたんだぞ、沙希。どうして、最後の最後で、背を向けちまうんだ。俺は、そんな日々にこそ、おまえのそばにいてやりたかったのに。

 警察からの情報では、沙希は母方の祖母に引き取られたらしい。しかし、その連絡先は誰も教えてくれなかった。何度も警察に行って尋ねたが、無駄だった。


 冬休みが終わり、三学期が始まった。だが、学校に行っても、沙希はいない。何があっても守ってやる、そう誓った相手の少女は、俺の前から完全に消えてしまった。

(裏切り者!)

 そう叫びながらも、俺は知っていた。沙希が裏切るはずがないことを。裏切れるはずがないのだ。あいつの心には、そんな都合の良い「機能」はついていないのだから。

 言ってはならなかった。たとえどんなに絶望しても、沙希にあんなことを言ってはいけなかった。だが、俺にはもう謝ることすらできない。

 沙希は、あの病状では長く生きられるはずがなかった。だからせめて、いつどんな様子で死んでいったのか、それだけでも知りたかったのだが……。


 春が来て、雪や氷が融けても、俺の時間は凍てついたままだった。

 何年も。何年も。

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