第12話 白いタクト
後から思うと、あの夜のことは、浜田父娘にはめられたような気がする。
沙希と父親の間には、母親の死を乗り越えてきたことによる、普通の親子以上に深いつながりがあるように思えた。意図的でなくても、浜田氏は無意識のうちに娘の望みを理解し、家を空けるような原因を作り出していたのではないか。そんな風に思えるのだ。
それは、わずかに残った罪悪感をごまかすための言い訳かもしれない。だが、なぜか確信を持ってそう思えるのだ。
もちろん、はめられたとしても恨む気持ちはない。親に言えない秘密ができてしまったが、話すときが来たら胸を張ってそうするつもりだ。俺たちは、残り少ない時間を、精一杯生きようとしているだけなのだから。何を恥じることがあるだろうか。
秋はどんどん深まっていった。それは、沙希の病状の悪化に比例しているようだった。あの夜以来、沙希は入院生活が続いている。学校には週に一、二度来る程度で、ほとんど病院からの通学だった。そのため俺たちの関係も、「挨拶のキス」程度にとどまっていた。
病院と学校の往復と、病院への見舞い。最近は看護婦にからかわれることもなくなった。すっかりあたりまえのことになっていたのだ。帰る時の挨拶のキスなど、廊下ですることもあった。
「また明日」
「うん」
そしてギュッと抱きしめる。
朝、病院に迎えに行っても、治療などの都合で休まないといけない場合があったが、そんな時のキスは「いってらっしゃい」なのだ。当然、夕方のほうは「お帰りなさい」になる。
「なんか、新婚夫婦みたいだね」
沙希にそう言われると、いまだに赤面してしまう。
学校では、秋の行事がいくつも進んでいた。十一月三日の文化祭、三十日の合唱コンクール。文化祭の方は参加できなかったが、治療が一段落したので合唱コンクールなら沙希も参加できそうだった。
(歌がすきなの……)
残酷なものだ。沙希の肺が両方あれば、絶対にソロが歌えるのに。時々、沙希が小声で歌っているのを聞いたことがある。鈴を転がすような声というのは、こういうものを指すのだと思う。だが、人に聞かせるような声量は、今の沙希にはない。
クラスで合唱の練習が始まった。沙希は歌えないのと、練習にたまにしか来れないことから、指揮者の役に選ばれた。誰もが無難な人選だと思った。
だが、異議をとなえた人がいる。ミスゴンだった。
ミスゴン、本名は山本礼子。音楽教育三十ン年。オールドミスでおっかないからと、身も蓋もないあだ名をつけるのが中学生だ。
「浜田さん、もう一度」
「はい……」
これで何度目だろう。クラスの全員がうんざりしていた。俺など、沙希が倒れやしないかと、はらはらしていた。今日の授業が始まってから、レッスンの順番は沙希のところで停まったままだった。ちなみに、今日は女子の後ろからはじめたので、沙希でまだ五番目だ。
沙希は言われたとおり、もう一度最初から歌い始めた。消え入りそうなか細い声。
「もっとはっきりと!」
「は、はい」
無理だ。沙希の肺は片方しかないのに。常人の半分の肺活量なのに、こんなに長いフレーズを一息でうたえるはずがない。
やはり、途中で息が途切れてしまう。
「誰が大声を出しなさいといいましたか。はっきりと歌いなさい」
「は……はい……」
限界だ。沙希は肩で息をしている。思わず、口を挟んでしまう。
「先生、沙希は……」
「お黙り!」
ピシリと言われた。まるで、口から鞭が飛び出したようだ。
「歌声は、肺活量で出すものじゃありません。最小限の息で最大の声を出すには、もっと響かせればいいんです」
ミスゴンは教壇から降りると沙希の前に立った。
「ここです!」
ドス。沙希のみぞおちに拳がめり込んだ。
「あ……う……」
俺は飛び上がったが、ミスゴンの気迫に押されて凍りつく。
「さあ、腹筋で押し返して」
「う……」
「そうそう。そのまま最初から」
沙希は歌いだした。その声は、大きくなかったが以前より響いた。音楽教室の端にいた俺にもはっきり聞き取れた。沙希が……歌ってる。しかも、フレーズを歌いきったのだ。
「よくできました。座ってよろしい」
がくり、と沙希が腰をおろした。俺のほうはへなへなと腰が抜けた。
「いいですね。今の感じを忘れずに」
「……はい」
涙声で沙希は答えた。その時、チャイムが鳴り出した。
次の教室への移動中。俺は興奮していた。
「やったじゃないか、沙希。歌えるんだよ、おまえ」
だが、沙希は答えない。
「沙希?」
沙希は立ち止まると、壁の方を向いて胸のスカーフをはずしだした。
「お……おい!」
俺があっけに取られていると、今度は胸元のホックをはずしていく。
「バ、バカ何やってんだよ、こんなところで」
俺は慌てて沙希の身体を隠すべく両手を広げた。沙希は開いた胸元から中をのぞいている。
「あざになちゃった」
「へ?」
「みぞおちのところ。見る?」
「な、何言ってんだよ」
そんなところのぞき込んでいるところを他人に見られたら、なんと言われることやら。
「わかったから。天城先生に見てもらおう。な?」
沙希を保健室へ連れて行く。
「これは内出血ねぇ」
天城先生は髪をかきあげながら言った。
「ひどく殴られたの?」
「いえ。ちょっと痛かったですけど」
「ふーん」
俺はついたてのこちら側。なにが起こったのかわからず悶々としている。
「まあ、あなたの場合皮下脂肪がほとんどないから、あざになりやすいんだけど」
「そうなんですか?」
「ちょっと分けてあげたいくらいね」
「……遠慮しときます」
俺は……不謹慎にも、触った感触を思い出していた。
やがて先生だけが出てきた。
「霧島君、ちょっといい?」
「あ……はい」
先生は俺を連れて保健室を出た。渡り廊下の手すりに寄りかかり、ポケットから出した煙草に火をつける。
「……校内禁煙ですよ」
「硬いこと言いっこなし」
どっちが教師なんだか。
「で、何の用ですか?」
「君……浜田さんの病状について、どのくらい知ってる?」
「……俺も聞きたかったんです。先生はどうなんです?」
黙って煙草をふかしている。大人はずるい。はぐらかすのに小道具なんて使って。
「奥多摩で、沙希が方丈記の意味を答えた時、先生は何を感じました?」
「……ずいぶん前の話ね」
「答えてください」
「君の想像どおりよ。主治医の先生から聞いてるの」
「やっぱり」
先生は俺の目を見据えていった。
「じゃあ、君も全部知ってるのね」
ゆっくりとうなづく。
「浜田さんから?」
「浜田のお父さんから」
どっちも浜田でややこしいので、正確に言った。先生は驚いた様子だった。
「……そうなの。他には?」
「沙希のことを、頼むって」
「ふーん」
灰がポロリと落ちた。
「彼女、そろそろよ」
恐ろしいことを平然と言う。
「内出血が起こりやすいのは血小板が減ったから」
「それって、白血病ですか?」
「そればかりじゃないけど。造血機能が衰えてるわね。じきに貧血が多くなるわ」
煙草をふかす。
「吐血があれば、時間の問題」
十一月だからか。今日はやけに寒い。
「どっちにしろ、もう化学療法は手詰まりね」
ついに……。
「……キヨさんはこのことを?」
「知らないし……教えるつもりもないわ」
「なぜ?」
「医者の倫理よ。覚えておいてね。患者のプライバシーを守るの」
「はい。でも、なぜ俺には?」
先生は最後まで吸うと、手すりにこすりつけ、庭に投げ捨てた。……大人のマナーが悪くなるのは、心配事を抱えた時なのだろうか?
「覚悟を決めてるんでしょ、君は」
答えるまでもないことだった。俺はうなずいた。
沙希は保健室で神妙に待っていた。
「先生と何を話してたの?」
「え……えーと」
「女心の扱い方よ」
背後から天城先生。
「えー、恋のレクチャーですか?」
「結婚式には呼んでよね」
話が変な方向に行きそうだ。
「沙希、もういいだろ、授業行こう、授業」
俺は沙希を連れて保健室を出た。
合唱の練習は朝夕のHRで行っていた。沙希が来ている日は指揮者つきで行うことができる。なにより、沙希は指揮者が似合っていた。元から姿勢がいいのもあるが、音楽に明るいので、色々アドバイスもできるのだ。
ちなみに俺はテナー。破滅的に音痴な吉田は、声は高い方なのに強制的にバスにさせられていた。吉田の音痴は筋金入りなので、今日の音楽の時間は聞かずにすんで助かった。ひどい歌は「ぬかみそが腐る」というが、こいつの場合は脳みそが腐る。
練習している曲は「翼をください」だ。提案したのは俺。沙希にはじめてあった日に、彼女が歌っていた曲だったから。反対意見も代案も無いので、これで決まった。
そういえば、この曲はたしか、癌で死んだ少女の映画の主題歌にもなっていた。不思議なめぐり合わせというより、沙希が自分にぴったりだと思ったのだろう。
その日の練習が終わると、沙希は何か考え込んでいた。
「沙希、どうした?」
「うん……ちょっと待ってて」
そう言うと、沙希はキヨさんのところへ行って何か話した。キヨさんはちょっとびっくりした顔をしたが、やがて大きくうなづくと、「わかった。まかせとけ」と言って肩をぽんと叩いた。
「何を頼んだんだ?」
「うふふ。ひ・み・つ」
いたずらっぽく笑う沙希。
いよいよコンクールの当日。歌う順序はくじ引きだったので、俺たちのクラスは最後になった。どこのクラスも猛練習を重ねただけあって、すごく上手だった。
「すごいな、一体どこが優勝するんだろう」
俺がため息混じりに言うと、沙希が笑う。
「うちのクラスだってなかなかのものよ」
「うん……」
吉田の声さえ聞こえなければね。とは言わなかった。
「でもさ、なんか今ひとつ足りないだろ?」
「ソロね」
合唱でメリハリを入れるなら、ソロが必要だ。しかし、そこまでの人材がうちのクラスにはいなかった。
「でも、なんとかなるわ。頑張りましょ」
「ああ」
もちろんだとも。なにしろ、沙希は……。いや、今は湿っぽいことを考えている場合じゃない。
俺たちの番になった。幕の後ろで俺たちは階段状の段の上に並ぶ。背の高い俺は一番前だった。指揮者は幕が上がってから舞台に出てきて、客席へ一礼してからこちらを向く。そういう手はずになっていた。
やがて時間がきた。放送部員のアナウンスが響く。
「エントリー番号十二番、一年一組。曲名は『翼をください』」
幕が上がった。舞台の左袖にスポットライトがあたる。沙希だ。背筋を伸ばし、こちらに歩いてくる。美しかった。白い肌に濃紺の冬服、軽くカールした長い髪にカチューシャをはめて。手に握られた、白いタクト。
沙希は舞台の中央まで来ると、客席に向かって一礼した。気品に溢れている動作。俺は誇らしくなった。客席から拍手が来る。
だが。拍手が鳴り止んでも、沙希はこっちを向かない。おかしい、どうしたんだ沙希?
その時。
沙希は歌いだした。
このおおぞらに つばさをひろげ とんでゆきたいよ
細い声だった。なのにはっきりと聞こえた。透き通るようなその声は、講堂の一番後ろで聞いていたキヨさんと天城先生にも鮮明に聞こえたという。
かなしみのない じゆうなそらへ つばさ はためかせ ゆきたい
アカペラで歌い終わると、沙希はくるりとこちらを向き、タクトを用意の位置に振り上げた。まぶしいくらいの笑顔でさっと全員の顔を見渡し、ピアノ伴奏のミスゴン……山本先生に目で合図して、タクトを振り下ろす。
沙希は指揮をしながら歌っていた。声は聞こえないが歌っていた。俺たちは歌った。沙希の声となって歌った。俺は歌いながら泣いていた。声が詰まらずに泣けるのだと、初めて知った。嬉しいのか、悲しいのか、わからずに泣いていた。一つだけ言えることは、十人並みの俺の声も、みんなの声と一つになれば、結構聞けるじゃないか、ということだった。
声なき声で歌う沙希の顔は、それまで見た中で一番輝いていた。まばゆいばかりに。
歌い終わると、沙希はもう一度客席に向かって一礼した。万雷の拍手に迎えられて。
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