第9話 沙希がくれたもの

 時々俺は、どうしても考えてしまうことがある。自分が沙希の病名を知っていることを、沙希に告げるべきだったのではないかと。

 結局俺は、最後まで黙ってた。


 沙希は、自分は長く生きられないと思っていた。だから、俺の好意を嬉しく思う反面、自分の死で俺が傷つくことを恐れていた。もし俺が、「沙希が癌だと知っている」と告げていたら、沙希はどうしただろう。俺が、傷つくことを覚悟しているとを知ったら。

 こればっかりはわからない。沙希のことだから、余計に負い目を感じてしまうかもしれない。しかし、それ以上に、俺の方にも恐れがあったのだと思う。心のどこかでは、沙希が癌だと信じたくない気持ちがあったのだ。この幸せがいつまでも続くと、信じていたかったのだ。


 ひとたび二人の間でそれを口にしてしまえば、もはや取り消しはきかなくなる。


 癌。当時は、今以上に不治の病という意識が強かった。だから、夏休み前の検査で、沙希の再入院が決まった時には、目の前が真っ暗になった。俺が一番恐れていたこと。癌の再発の疑いが濃くなったのだ。


 あの雷雨の日以来、俺は沙希の父親の浜田氏から一目置かれるようになったらしい。終業式の前日、夜遅く塾から戻ると、家の前に浜田氏が立っていた。幽鬼のような顔で俺に沙希の再入院を告げる。名目は長期検査。肺を摘出した予後を詳しく調べるため。しかし、実際には再発した癌を見つけ出し、早期につぶすことが目的だった。若年性の癌は進行が早い。入院は明日からだった。

 どさり。俺の手から、鞄が落ちた。手を見ると、震えがきている。

「それじゃ……いよいよ……」

「ああ」

 誓ったのだ。俺は、最期まで手を握りつづける。そう誓ったのだ。

「沙希は……どうしてますか?」

「落ち着いてる」

 なら。俺も落ち着かなければ。いつもと変わらない様子で、沙希に接してやらなければ。

 そう思いながら浜田氏と別れ、家に入る。すると、階段の下で母に呼び止められた。

「聡、表にいた人だけど……」

「浜田さん? クラスメイトのお父さん」

「さっき見えられて、おまえに話があるって」

「うん。もう聞いた」

「……母さん、なんだか心配で」

「なんで? いい人だよ」

「なんかこう……思いつめたような感じで。さっきも、上がって待ってもらおうと思ったら外で結構ですって」

「遠慮深いだけじゃん」

 母はため息をついた。

「母さん、やなのよ。この間だっておまえを泊めたじゃないの」

「しょうがないよ。ずぶ濡れになっちまったんだから」

 何が言いたいんだか、さっぱりわからない。

「娘さんなんでしょ? お子さん」

「だから何なの?」

 いらいらしてくる。それでなくても、思春期は母親が疎ましく感じられるものなのに。

「変なことに、なってないんでしょうね」

 俺はかっとなって思わず叫んだ。

「なるもんか!」

 階段を一気に駆け上がり、自分の部屋にこもる。

 畜生。俺の気も知らないで。

 とはいえ、親には沙希とのことはほとんど話していない。だから知るわけがないのだが、この時の俺はまだ、理屈を越えたものを親に期待していたらしい。それは、俺がまだまだ子供だということの証拠だった。


 ベッドに寝転び、考える。沙希は、父親とどんな言葉を交わすのだろう。なんとなく、言葉など要らないような雰囲気があった。浜田氏は、俺にも多くを喋らない。それでいて、なぜか全部わかってしまうのだ。沙希と話す時は、もっと言葉少なで、黙っていても伝わってしまうのだろうか。

 それは……いいことなのか悪いことなのか。沙希は、誰からも癌の告知を受けていないのだろう。父親から知ったのだ。言葉によらずに。


 俺も沙希とそうなりたいのか。何ひとつ秘密がもてないような、濃密な心の交流。憧れと同時に、恐れもある。癌だけではない。俺の心の中で日増しに強くなっていく衝動。沙希を抱きたい。抱きしめるだけでなく、男と女として一つになりたいという、狂おしいまでの熱情。知られたくはない。今はまだ。……俺達が大人になるまで。

 もし、なれるものなら。

 考えながら、いつしか眠りに落ちた。


 翌日。沙希は終業式に出られなかった。HRで、キヨさんがみんなに沙希の入院のことを告げ、明日は有志を募ってお見舞いに行くことを提案する。当然ながら、反対するものはいなかった。


 沙希はクラスから浮いた存在で、相変わらず俺以外は話し掛けるものがほとんどいなかったが、決して嫌われていたわけではない。ただ、なんとなく近寄りがたい。そうみんなが感じていたに過ぎない。それは、程度の差はあれ、俺自身に対しても当てはまった。この頃の俺は、吉田をはじめとした昔からの悪友数名を除けば、必要最小限の付き合いしかしなくなっていた。


 ……このあたり、俺は浜田氏と似ているのかもしれない。


 沙希の病室は、以前と同じ五〇一号室だった。この部屋がこんなに多くの人で埋まったのはおそらく初めてだろう。有志といいながら、半分以上のクラスメイトが来てくれたのだ。

 見舞いの花束に埋もれて、沙希は涙ぐんでいた。そんな姿を、俺は部屋の隅で眺めていた。この時くらいは、クラスの一体感に身を任せてもいいだろう。だが、俺はそれが長く続かないことを知っていた。

 やがてクラスメイトは三々五々帰っていった。俺は花に埋もれた沙希に歩み寄る。

「良かったな、みんな来てくれて」

「うん。今日だけでもね」

 気づいていた。何でもわかっちまうんだ、沙希には。そう、みんなにはそれぞれやることがある。今日のように大勢が来ることはそうそうない。明日は、おそらく数名。そのうち週に一人、やがて思い出したようにたまに来る程度になる。

 沙希は、もらった花束に顔をうずめて、香りをかいでいた。やがてうっとりとした表情でつぶやく。

「いい匂い……花瓶にいけなきゃ」

「俺がやるよ」

 花束を受け取ると、大き目の空っぽの花瓶を持って水場へ向かった。花瓶に水を差し、花束をばらしてさしていく。みようみまねだが、もう何度もやっているので、そこそこ様になる。流しの上に花瓶を置き、自分の作品をしばし眺める。悪くない。

 だが……この花もいつかはしおれる。それまでに沙希は退院できるだろうか。その頃に、次の花束を持ってきてくれる人はいるだろうか。


(誰もいなけりゃ、俺が持ってくるさ)


 そう誓うと、俺は花瓶を取り上げ、病室へと戻っていった。

 病室に戻ると、沙希はうつむいていた。声をかけようとして、俺はためらった。沙希は泣いているのだ。

「いや……もういや……助けて……聡」

 シーツを握りしめる。その上に落ちる涙。肩が震える。

 どんなに疎外されていても、この人気のない病室よりは、みんなのいる教室の方がいいのだろう。沙希は……春に見舞いに来ていた時には、こんな姿は決して見せなかった。ひょっとして、いつも俺が帰った後で、こうして泣いていたのだろうか。

 ドアの外で花瓶を抱えたまま、俺は立ちすくんでいた。何もしてやれない自分がもどかしい。何の力もない自分が情けない。こんな風に、何もできずに涙を浮かべる自分が許せない。


 俺はそっとその場を離れると、水場に戻って頭から水をかぶった。うっかり水を出しすぎてしまい、ずぶ濡れになってしまった。そのまま花瓶を抱えて、わざと足音も高く沙希の病室へ走っていく。

「うひー、沙希、タオル、タオル」

「どうしたの、聡」

 沙希は目のすぐしたまでシーツを引き上げていた。とっさにそうして涙を拭いたのだろう。

 俺は花瓶を台に置くと、タオルを探すため沙希の荷物を開いた。

「蛇口が調子悪いんで、ひねりすぎたら噴き出しちゃって」

 中身をごそごそと探る。水が目に染みてよく見えない。

 沙希が声を上げた。

「あ、待って! そこは……」

 適当な布を取り出し、顔を拭いてから気がついた。ピンクの花柄模様のこれは。

「ご、ごめん!」

 沙希は真っ赤になってシーツに潜り込んでしまった。下着を差し出すが、受け取ろうとしない。まあ……当然だろう。しかし、まさか持って帰るわけには行かないし。

「沙希……ごめんな」

 返事はない。

「ほんとにごめん。わざとじゃないんだ」

 水をかぶったこと以外は……。

 やはり返事がない。

「許してくれないと、明日から来づらくなっちまうよ」

 そーっと、シーツが目のところまで下がってくる。

「許したら、明日も来てくれる?」

「もちろんさ。毎日来るよ」

 沙希はようやくにっこりした。

「じゃあ、あげちゃう。それ全部あげちゃう」

「……そんなにもらっても、困る」

 真剣な顔で言う。しばらく見つめあった後、二人して笑い転げた。


 沙希は、よく「自分は何もあげられない」と言って悩んでた。奥多摩での一日でもそうだったし、その後もずっと引きずっていたらしい。

 でも、そんなことはない。俺は、沙希から何よりもまさるものをもらっている。こうして振り返るだけで、無数に浮かび上がってくる、輝かしい思い出だ。


 毎日が宝物だ、沙希はそう言った。俺にとってもそのとおりだった。沙希と過ごした時間くらい、かけがえのないものはない。楽しい時も、苦しい時も。もし、全能の神様が現れて、苦しい時を全て楽しい時に変えてやろうといってくれたとしても、俺は断っただろう。

 沙希のために泣いたこと。怒ったこと。悶え苦しんだこと。どれ一つとして、絶対に忘れたくない。


 約束どおり、俺は夏期講習の合間に毎日見舞いに行った。沙希は、結局夏休みをずっと病室で過ごすことになった。俺は看護婦連中とすっかり顔なじみになり、色々世話になってしまった。

 沙希の方は毎日が検査漬けで、いくつもの制癌剤が試されていた。中にはかなり強い薬も使われていたらしい。時折、激しい吐き気に苦しんでいた。だが、何ひとつ不満を言わないのだ。

 しかし、一度だけ沙希がひどく取り乱したことがある。その日、俺が病室に行くと、沙希はベッドに突っ伏して泣きじゃくっていた。俺が何を言っても答えてくれない。俺は、どうしていいかわからずうろたえてしまった。

 その時、足にあたるものがあった。床を見ると、手鏡とヘアブラシが落ちていた。そのヘアブラシには、沙希の髪の毛がごっそりとついていた。


 ……制癌剤の中には、髪の毛にダメージを与えるものが多い。幸か不幸か、そうした制癌剤は、どれも沙希の体質に合わなかったらしい。沙希の髪の毛はそれ以上抜けなかった。だが、その分治る見込みが減っていくのだ……。


 見舞いに行っても、沙希は薬の影響でずっと眠ったまま、という場合も何度もあった。そんな時は、じっと寝顔を見つめて時を過ごした。そんな何もない時間すら、俺にとっては沙希がくれた宝物だった。

 何もかも、春のころに戻ったようだった。表に出られないため、夏が過ぎても沙希の肌は白いまま。休みになったら海や山へ行こう。そうした約束も反故になってしまった。

 だが、変化は訪れていた。一つは、俺の声変わり。もう一つは、九月半ばに沙希が一時退院してきた時にわかった。俺の身長は沙希より十センチも高くなっていたのだ。

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