第8話 信頼の証
今年の梅雨は、始まるのが遅かったかわりに終わるのも早かった。多分、もうじきひどい水不足になるだろう。
まあ、例えばそれでプールが閉鎖になっても問題ない。どうせ、沙希と一緒には行けないのだ。手術の痕が気になるといって、体育の水泳はいつも休んでいるくらいだから。
あれは七月の第二週だった。夏の青空にむくむくと入道雲が湧いていた。雨がないくせにやたら蒸し暑い。こんな日に海や山へ行ければいいだろうに。そんなことを考えながら、沙希と一緒に校門を出た。
「なーに考えてるの?」
「もうじき夏休みだな」
沙希は顔をしかめる。
「その前に期末試験でしょ」
「何とかなるさ」
ほう、とため息をつく沙希。
「勉強できる人は違うわねぇ」
「まあね」
代償は払っている。沙希をマンションまで送ったら、塾や家庭教師の毎日。土日も勉強。だから、試験だからといって特別な勉強はいらない。そのかわり、俺達が一緒にいられる時間はほとんどない。せいぜい、こうして帰り道を遠回りするくらいだ。
「じゃあ、今度教えてやるよ」
「ほんと?」
「ああ。そのかわり、まっすぐ帰らないとな」
ささやかな贅沢を諦めることになる。それでもいい。沙希と一緒の時間なら。
「それじゃさ、わたしの家へ来る?」
願ってもなかった。沙希のマンションには何度も行ったが、上がりこんだことは一度もない。いつも、エントランスホールのインターホンで話すだけだ。
「うん、行くよ」
「決まりね」
「じゃ、今日は最後の寄り道だ」
たまにバーガーショップでおしゃべりすることもあるが、普通は散歩の方が多い。そのほうが健康にいいというのもあるが、いまだにどうも面と向かって話すとぎこちなくなってしまうのだ。それは、最近になって俺の身長が伸びだしたことや、沙希の身体に女らしい丸みが目立つようになったのと関係があるようだ。俺達は、毎日どんどん変わっていく。
……夏休みになったら、海に行こうか。山に行こうか。またキヨさんと天城先生に連れてってもらえるかな?
公園のほうを回り、そんなことを話しながら木陰を歩く。そろそろ帰ろうかと、木立を抜けて空を見上げると、頭上の入道雲が膨れ上がり、黒ずんできていることに気づいた。
「やべ。夕立になるかも」
「ほんと? やだ。傘、持ってない」
そのとたん、ピカッときた。間髪おかずにバシャーンという轟音。
「きゃ!」
沙希がしがみついてくる。
まずい。すぐ近くだ。おまけに、特大の雨粒がボタボタと落ちてくる。あっという間に、息もつけないほどの土砂降りになった。俺達は鞄を頭上にかざして走った。
実際、この日の豪雨はすごかった。都内ではいくつかの地下鉄の駅が浸水し、JRの方では、壁の隙間から泥が噴出して埋まってしまった駅もあったらしい。
「こっち!」
手近な木の下に入ったが、たいした雨よけにはならない。小一時間たっても、雨脚は強くなるばかりで、気温も急速に下がってきている。吐く息が白くさえ見える。おまけに、さっきから雷の音が近すぎるのが気になる。今、この木に落ちたら……。
小学生の頃、近所の雑木林に落雷があった。翌日おそるおそる見に行くと、子供の腕ではふた抱えくらいもある巨木が、真っ二つになっていた。そのそばに倒れていた、黒焦げの野良犬の死骸……。
ぶるっと頭を振って、不吉な考えを追いやる。そうそう雷なんて落ちるもんじゃない。大丈夫だ。……たぶん。
それ以上に気になるのが沙希だった。全身ずぶ濡れで、鞄を両手で抱え、寒さと恐怖で震えている。唇が真っ青だった。上着があればかけてやるのに、濡れそぼったワイシャツでは仕方がない。このままでは体温が奪われるばかりだ。
(くそ! 寄り道なんかするんじゃなかった)
俺は考えた。この公園からなら、沙希のマンションまで十分足らずだ。俺の家まではゆうに二十分はかかる。選択の余地無し。
「沙希、おぶされ!」
沙希に背を向けしゃがむ。
「え……」
「いいから、早く! 死ぬぞ!」
「か、鞄が……」
「置いてけ! 後で拾いに来る」
沙希はしばらくためらっていたが、その瞬間近くで稲光が光った。悲鳴をあげて、俺の背中にかじりつく。よし。
俺は立ち上がると、沙希の位置を直すため何度かゆする。地面に落ちた鞄を木の根元にけりこんで、役に立たない雨宿り場所を飛び出す。足元で盛大に水が跳ねる。
「うわっ!」
公園の門を出たとたん、目の前をトラックがかすめる。跳ね散らされた泥水をよけるまもなく、頭から浴びてしまった。ののしりながら走り出す。
その時、肩越しに俺の胸に回されていた沙希の両腕が、力なくだらんと下がっていることに気がつく。まさか。立ち止まり、背中に向かって叫ぶ。
「おい、沙希! 大丈夫か?」
返事がない。
「バカ! 寝るな!」
何度ゆすっても返事がない。急がないと!
走りつづけてようやくマンションにたどり着くと、エントランスホールでがっくり膝をついてしまった。
「沙希、着いたぞ、起きろ」
背中の沙希の身体からは、手足が壊れた操り人形のように下がっている。意識がない。いや、それ以上に背中に伝わってくるはずの体温がまるでない。氷のように冷えきってる。
ギョッとして床の上に降ろす。まさか、そんな。沙希の胸に耳を押し付ける。
……よかった。心音は聞こえる。だが、弱い。震えが止まっているのは、体力が衰えたからだろうか。だとしたら危ない。
早く部屋に連れて行かないと。そこまで考えて、俺は自分の失敗に気づく。鍵。それがなければ、入れない。
「沙希、鍵は? 沙希!」
頬を叩くが、意識はもどりそうにない。くそ、いつも沙希はどこから鍵を出していた? まさか鞄じゃないよな。いや、ポケットだ。スカートのポケットだったはず。
沙希の腰の両側を手で探る。あった。急いで立ち上がろうとした瞬間、右足がつってしまった。
「あうぅ!」
もんどりうって倒れこむ。チャリン、と鍵が床に落ちた。石のように硬くなった右のふくらはぎを押さえてのた打ち回る。右の足首が伸びきったまま戻らない。だが、ほぐしている時間などない。激痛に歯をくいしばりながら、ホールの隅に飛んだ鍵までにじり寄る。ネズミのキーホルダーを掴み、そのまま壁伝いに立ち上がると、インターホンの横の鍵穴に鍵を差し込む。エレベータホールへのドアが開いた。
右足をひきずり、沙希の所へ行く。開いてる時間は十数秒しかない。抱き上げる力も残ってない。俺は沙希の両手を掴み、そのままエレベータまで引きずっていった。
エレベータの中で、沙希の身体を何とか抱き起こし、肩に担ぎ上げる。ドアが開いた。もう少し。もう少しだから。頼む、沙希。右足を引きずりながら歩く。
玄関のドアを開け、靴を脱ごうとしたが脱げない。スニーカーが濡れて、紐がしまってしまったようだ。仕方がないのでそのまま上がる。廊下を進むとリビングがあったので、ソファの上に沙希を寝かす。
とにかく、暖めないと。部屋を見回した。エアコンに気がついたので、暖房をオンにする。あとは……まず乾かさないと。タオルを探しに浴室に向かう。あった。
戻ってみると、沙希の顔色は真っ青だった。タオルでこすっても赤味がまったく戻らない。胸がかすかに上下していなかったら、死んでしまったと思うところだ。エアコンから温風が噴出してきたが、濡れたワイシャツの背中にあたるとどんどん冷えていく。脱いで乾かさなきゃだめだ。でも……。
ずぶ濡れのセーラー服に目を留める。下着が白くが透けて見える。ごめん、沙希。目がさめたら、思いっきりぶってくれ。震える手で脱がしにかかる。
……思いがけずてこずってしまった。当然だが、セーラー服なんて着たことも脱いだこともないのだ。ようやく脇腹にあるファスナーに気づき、開ける。頭の方から肩を支えて持ち上げ、ぐっと引き抜く。バランスを崩して、尻餅をついてしまった。
起き上がった俺は……見てはいけないものを前にして、身体が動かなくなった。半裸の沙希。生気を失った、あまりに白い肌。両手を頭上に伸ばし、磔になったような無残な姿。
俺は目をつぶった。だが、まぶたに焼き付いて消えない。あまりの苦しさにうめくと、壁に手をつき、何度も額を叩きつける。
(なにをしてる! なにをしてる! こんな時に!)
これ以上見たら、きっと理性が消し飛んでしまう。目を覆ったまま手探りでタオルを掴み、沙希の体にかける。本当なら下も脱がすべきなんだろうが、俺の理性が限界だった。タオルの上から懸命に身体をこする。
どれだけそうしていたことか。ようやく赤味がさしてくる。呼吸もしっかりしてきた。気が緩んだせいか、疲れがどっと押し寄せ、俺はソファにぐったりともたれかかり、そのまま意識を失った。
……煙草の臭いで目がさめた。目を開けても真っ暗で、一瞬目がどうかなったのかと思った。自分がどこにいるのかさっぱりわからない。
体を起こす。鼻をつままれてもわからない、とはこのことだろう。思い返す。そうだ、沙希を家に連れ帰って、身体を拭いて……。その時、自分がパジャマのようなものを着ていることに気がつく。着せてくれたのは沙希か? まさか、あんな状態では無理だ。なら、残りの可能性は……。
ベッドを抜け出す。手で探りながら進み、壁までたどり着く。スイッチらしいものに触れたので、押してみる。光が目を射た。
……目が慣れるまで待ってから見回す。本にうずもれた部屋だった。ベッドと机とドアを結ぶ線上しか、床が見えない。踏まずに済んだのは運が良かったのだろう。
俺は手近な一冊を手にとって見た。「データベースアプリケーション設計」……コンピュータ関係の本らしい。やはり。それ以外の本は、ほとんど洋書だった。
だが、この部屋にはどこか違和感を感じる。なぜだろう……。自分の服装を見る。かなりだぶついた、男物のパジャマだった。
部屋を出る。廊下の明かりは消えていたが、リビングの方からの鈍い光で充分見える。廊下のカーペットの上に残る足跡は、きっと俺のものだろう。それをたどり、そっとリビングをのぞき込む。……ソファに横になっていたのは、沙希ではなかった。
「浜田さん……」
腕枕をしたまま、天井を見上げているのは沙希の父親だった。
「沙希なら、部屋で寝ている」
「……そうですか」
「また……助けてもらったようだね」
「いえ、俺のせいです。遠回りなんてしたから」
「雷雨は君のせいじゃない」
「……」
「見に行かないのか?」
俺はちょっと驚いた。
「いいんですか?」
「信頼している」
されても困る。今度こんなことがあったら、自分が何をするかわからない。
「でも俺……家に帰らないと」
「もう遅い。泊まっていきなさい」
そう言われて俺は、今が夜中であることに気づいた。外の家並みの窓は、ほとんどが真っ暗だった。
「電話を入れておいたから気にしないでいい」
それだけ言うと、浜田氏は壁の方に寝返りを打って言った。
「おやすみ」
おやすみって、そんな……。
俺はしばらくバカみたいに突っ立っていた。浜田氏は寝てしまったのか、俺に関心を失ったのか。たぶん後者だ。だったら、ここにいても仕方がない。
浜田氏の部屋に戻ったが、全然寝る気になれない。もう一度見回してみる。何に違和感を持ったのか。
……そうだ。ベッドに臭いがつくくらいのヘビースモーカーなのに、部屋には吸殻どころか灰皿もないのだ。リビングにも、煙草のヤニがまったく染み付いていなかったことを思い出した。
机の上の写真に気がつく。浜田氏と沙希……いや、沙希の母親だ。生き写しと言えるくらいよく似ている。病弱な妻と娘を持ったため、家では一切煙草を吸わないのか。
俺は写真を手にとり、ベッドに腰をおろして考え込む。浜田氏も、この頃はにこやかに笑えたのだ。なのに今は……。
もし、沙希が死んだら……俺は浜田氏と同じようになるのだろうか。笑いを忘れ、人生に無関心になるのだろうか。俺を信頼しているといったのは、そうした親近感からなのだろうか。
沙希は父親をどう思っているのか。そういえば、沙希が父親のことを話すことはめったにない。嫌っているそぶりもない。……心配しているのだろうか。
急に、どうしても沙希の顔が見たくなった。ためらってみたが、父親の許可が下りているのだ。行ってはいけないという理由がない。俺は写真を机の上に戻すと、沙希の部屋を探しに行った。
最初に開けた部屋は妙に殺風景で、空のダブルベッドがシーツも敷かずに放置してあった。おそらく、浜田夫妻の部屋なのだろう。妻の死後、使われていないようだ。俺が寝ていた部屋は、元は書斎だったのだろう。隣へ移動する。
そのドアには「SAKI」と書かれたプレートが下がっていた。探すまでもないじゃないか。一応、ノックしてみる。
「沙希。入るよ」
そっとドアを開けて入る。
窓から差し込む街灯の明かりで、室内の様子は結構よく見えた。いかにも女の子らしい部屋。本棚の上から古ぼけた人形がのぞき込んでいる。机の上には見覚えのある木の実があった。沙希が奥多摩で拾っていたものだ。そして写真。これは学校帰りに天城先生が二人一緒に撮ってくれたもの。机の下には学生鞄が二つ。沙希と俺のだ。浜田氏が拾ってきてくれたのか。なら、沙希は意識が戻ったのだろう。
顔をめぐらす。沙希はベッドで静かに眠っていた。その横に腰をおろし、寝顔を眺める。あどけない横顔。いくら見ていても、見飽きることはない。沙希の顔の向きにあわせて、自分の顔もベッドにのせてみる。沙希の息遣いに、自分の呼吸をあわせてみる。沙希と同じ空気を吸って、吐く。吸って、吐く。吸って……。
……すぐ目の前、鼻がぶつかりそうなくらいの至近距離に、沙希の顔があった。やさしく微笑んでいる。
「おはよう」
沙希がささやいた。あれ、俺は一体……。
飛び起きる。立とうとしたが、脚の感覚がない。そのまま尻餅をつき、両手で後ろ向きにいざり、頭を本棚に嫌というほどぶつけた。駄目押しに人形まで降ってくる。
「いてててて」
「大丈夫?」
頭の痛みが去ると、脚の痺れがたまらなくなってきた。
「うがーっ、ジンジンする」
両足を掴んで、殺虫剤をかけられたゴキブリのようにのた打ち回る。沙希はベッドで笑い転げていた。俺は起き上がると、脚を必死でもんだ。
「あー、死ぬかと思った」
俺ではなく、沙希が言った。
「それはこっちのセリフだ。笑いすぎだよ」
「だってー」
うーん、と背伸びをしてから、沙希も起き上がった。かわいらしい、淡いピンクの花柄のパジャマ。病室では見られなかった服装だ。両手を後ろについて、胸をそらしてこっちを見て微笑む。だから、そのポーズだと……。
「なんでそっちを向くの?」
沙希の声が俺の背後から聞こえる。理由なんて、言えない。
「おはようの挨拶がまだよ」
それどころじゃないんだって。
「お……俺、トイレね」
背を向けたまま立ち上がり、蟹歩きでドアへ進む。
廊下に出ると浜田氏と鉢合わせしてしまった。タオルを首にかけて洗面所から出てきたところだった。よりによって、沙希の部屋から出るところを見られてしまうとは。
「……おはよう」
「お……おはようございます」
大事なところを押さえながら、俺はトイレに飛び込む。突如として成長の証を主張しだした体の一部をもてあましながら、俺は頭を抱えてしまった。
お父さん、信頼にこたえるのって辛すぎます!
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