第7話 特大のダイヤモンド
六月三日は沙希の誕生日だ。
自他ともに認める朴念仁の俺だが、プレゼントに何をあげようかと必死に考えた。こんな時、身近に相談できる女性がいるといいのだが。姉とか妹とか。あいにく俺は一人っ子だった。うちの親は少数精鋭主義らしいが、どうせ下手な鉄砲なんだから、数打たなきゃハズレばっかりなのに。
いろいろ悩んだ末、ようやく一人だけ、真面目に相談に乗ってくれそうな人がいることに気づいた。
保健室のドアの前で、俺はためらっていた。沙希を抱えて何度もくぐったドアなのに、一人だとこんなに入りにくいのはなぜだろう?
意を決してドアをくぐる。保健の天城先生が、回転椅子ごとこちらを向いた。いつものようにタイトのミニで、脚まで組んでる。……この人、こうやって男子中学生をからかうのが趣味じゃないのか?
「あら、霧島君。今日は一人なの?」
「ええ」
「珍しいじゃない。どこか具合でも?」
「全然。あの……実は相談したいことがあって……」
先生は、目を細めて面白がるような顔になった。俺は慌てた。
「いえ、違います! そうゆうんじゃなくって、ただ沙希が……」
「うん、うん、よくわかるわぁ」
「わかってない! 全然わかってない! 違うんですよ! 俺はただ……」
息が切れた。何度か息を大きく吸って、気を落ち着けた。
「ただ……沙希の誕生日に、何を贈ったらいいか、わかんなくて」
「へぇー」
心底驚いたって感じで、先生は俺の顔をじろじろ見た。
「すごいじゃない。そのまんま、恋する少年の顔ね」
「……からかわないでください」
「声変わりもまだなのに。心の方が先に成長してるのねぇ」
「あのー」
「わかったわ。相談に乗ってあげましょ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
早速、先生は贈り物候補のリストを作ってくれた。保健室を出てから、俺はそのリストをしげしげと眺めた。自分が中学生の頃にもらって嬉しかったもの、というのだが……装身具とか洋服ばかり。ひょっとして、今欲しいものリストじゃないのか、これは?
でもまあ……予算があればいいかもしれない。俺は流行の服を着てアクセサリーをつけた沙希を想像してみた。きっときれいだろう。そう……それらが似合う歳になれば。
不意に気づいた。いや、思い出した。くしゃり、とリストが手の中でつぶれる。沙希は、それまで生きられないかもしれないのだ……。
俺は考えた。今度こそ、必死で考えた。今、沙希がほんとに必要としているものは何なのか。たとえ……たとえ明日、命が尽きてしまっても、無駄にならないものは何なのか。
渡り廊下の手すりにもたれ、夕焼けを見上げながら考えた。今年は入梅が遅いらしく、まだ一週間くらいは天気が持ちそうだ。
……結局、俺に思いつけたものは、たった一つだった。俺は保健室に引き返すと、天城先生に尋ねた。
「先生が中学生の時、どこに連れて行って欲しかったですか?」
先生は、にっこり笑って教えてくれた。
誕生日の直前。学校の帰り道で、周りにうちの生徒がいなくなるのを見計らってから、俺は勇気を振り絞って沙希に言った。
「沙希」
「なあに?」
天真爛漫という言葉がぴったりの笑顔で、沙希は俺の方に向き直った。
「誕生日、おめでとう」
ちょっとびっくりした顔。やがて満面の笑みがこぼれる。
「……ありがとう。覚えてくれてたんだ」
涙ぐんでる。言って良かった。でも、まだあるんだ。
「それで……プレゼントなんだけど……実は……」
「あ、いい、いい。なくてもいいの。今の一言で充分」
「いや、贈り物ってんじゃないけど……今度の日曜、どこか行かないか?」
「え?」
心底驚いた顔。
「あのさ……えーと、車でドライブなんか」
「車って……運転はどうするの?」
「キヨさんが連れてってくれるってさ」
「そうか、それなら大丈夫ね」
「で、天城先生も一緒なんだ」
天城先生が教えてくれた「連れて行って欲しかったところ」とは、「大好きな人と一緒にいられるところ」だった。だから、行き先は沙希に直接聞くことにした。ついでに、運転手のあてがあるというので聞いてみたら、なんとキヨさんだった。天城先生とキヨさん……美女と野獣といったらはまりすぎだが、なんとなく似合いのような気もした。
『一応、中学生なんだし、保護者同伴でないとね』
こういう時だけ子ども扱いされる。……まあ、ものは考えようだ。今、沙希と二人きりでどこかに出かけても、きっと意識しすぎてぎこちなくなっちまうに違いない。キヨさんも天城先生も、今まで俺達をずっと助けてくれてきた人たちだ。きっと、そのほうがお互い素直な気持ちでいられるだろう。
『これって、ダブルデートね』
天城先生に臆面もなくそういわれてしまうと、純情な中学生は赤面するしかない。
「へー、天城先生と清永先生かぁ。ちっとも知らなかった」
「俺も」
「なんだか……ダブルデートみたいね」
顔を赤らめながら、沙希まで同じようなことを言う。「デート」という単語に反応して赤面してしまうあたり……二人とも、どうしようもなく
向かい合ってると余計に意識してしかたないので、歩きながら話を進めた。
「えーと。それで、行き先なんだけど」
「うん」
「海とか山とか。それとも名所旧跡とか」
「うーん、空気のきれいなところがいいかしら」
「オーケー、じゃあ山の方がいいね。天気もよさそうだし」
「そうね。新緑がきっときれいでしょうね」
新緑より、その中にいる君のほうがきれいだよ。そのくらい気の利いたことを言ってやりたいのだが……なぜかうまく言葉が出ない。
ちら、と横を歩く沙希を見る。夕日に染まった顔は、幸せそうに輝いていた。
「……きれいだ」
「え?」
沙希が振り向く。目が合ってしまうともうだめ。言えない。
「夕焼けが」
二人で、茜色に染まった空を見上げる。
「ほんとね」
一番星が輝いていた。
結局、行き先は奥多摩に決まった。日曜の朝、俺は沙希の家があるマンションに行った。ゆうべはなんとなく寝付かれず、おまけに今朝は日の出と共に目がさめてしまった。これでは遠足の日の小学生だ。
寝不足気味のはずなのにどうにもじっとしておれず、ホールにある内線のインターホンを押したのは、約束の時間より十分ほど早かった。
「はい、浜田です」
間髪おかずに沙希の声が響く。まるで待ち構えていたかのようだ。
「おはよう、沙希」
「おはよう、聡」
二人してクスクス笑う。
「ひょっとして、待ってたの?」
「うん。なんか、すごく早く目がさめちゃって」
「俺も」
またしても笑う二人。
「ちょっと待ってね、すぐ行くから」
「慌てなくていいからな」
そう言ったにもかかわらず、ホールに下りてきた沙希は息を切らしていた。
この頃の沙希は、無理しないようセーブして体育の授業にも出ていたので、多少は走っても呼吸困難にはならなかった。
「おいおい、大丈夫か?」
「へ……平気。ちょっと、エレベータがなかなか来なくって」
はぁはぁと息をつく。高潮した頬にはうっすらと汗が浮いている。健康的な汗だ。脂汗とは違う。手には大き目のバスケットを持っていた。
「ひょっとして、五階から駆け下りてきたの?」
「うん」
俺は、怒っていいのか喜んでいいのか悩んだ。……まあいいや。喜んじゃえ。俺達はホールを出ると、マンションの玄関前にある花壇のへりに並んで腰掛けた。朝日がまぶしい。昼頃には結構暑くなりそうだ。
今日の沙希の服装は、ピンクのTシャツに青いデニムの短いキュロットスカートだった。伸びやかな白い脚がまぶしい。長い髪は後ろで黄色いリボンで結んであり、ロングのポニーテイルにしてある。
そういえば、俺は沙希の服といえば、病院の真っ白い夜具とセーラー服しか見たことがなかった。俺のほうは、夕方と土日は塾や家庭教師だし、日曜日は運動不足にならないようにとスイミングスクールにも行かされている。沙希のほうも土曜日は病院で検査がある。だから、一緒にいるのは学校とその行き帰りばかり。それ以外で会うのは、この日が初めてだった。
親に無理を言って一日空けたのは正解だった。
俺の視線に気づいたのか、沙希は立ち上がると目の前でくるりと回って見せる。
「どう?」
俺はめまいがするほど感動しているのだが、うまく表す言葉が見つからない。
「うん……なんかすごく、普通に見える」
沙希は両手を腰に当てて、ちょっと怒ったような声で言った。
「なにそれ? いつもは変なわけ?」
「え……いや、そうじゃなくて……」
なんて言ったらいいのやら。必死に考えて、一番ましな言葉を捜す。
「沙希が、普通に元気な女の子に見えるんで、すごく嬉しい」
「……うん、許してあげる」
とりあえず、納得してくれた。
そう。この日の沙希は普通の女の子に見えた。
ごく普通に、走ったり飛び跳ねたり、大声で笑ったりはしゃいだりできる、普通の女の子のように。相変わらず肌は白く、手足は華奢というより細すぎるぐらいだが、いつもの控えめな表情ではなく、素直に喜怒哀楽を表している分、元気が溢れているように見えた。
俺は、それが無性に嬉しくて仕方がなかった。
ふと、沙希が足元に置いたバスケットに目をやる。
「これ……もしかしてお弁当?」
「そう」
沙希はさっと拾い上げると、ふたを開いて見せてくれた。……見せたくてたまらないらしい。
「うわ、すごい」
サンドイッチにおにぎりをはじめ、タッパーの中にはミートボールやソーセージ、サラダなどの沢山のおかずが入っていた。これは、本格的だ。俺のナップザックの中身など、途中で買ってきたコンビニのおにぎりと惣菜だったりする。到底見せられない。
「ひょっとして、これ……全部沙希が作ったの?」
「もちろん。うちのお父さん、家事全然ダメだから」
「じゃ、毎日食事作ってたの?」
「うん。……お母さんが入院してから」
う。まずい方に話が行きそう。
「えーとさ、これだけ作るのにどのくらいかかったの?」
「そうねぇ……」
俺達は、いつも話さないようなことを色々話した。家にいる時のすごし方。見ている番組、好き嫌いのことなど。驚いたことに、俺達はお互いのそんな普通のことをろくに知らなかった。
「え、じゃあなに、納豆は食べるけど臭いは嫌いなのね?」
「いや……他人が食べた臭いが許せないんだ」
「えー、それってワガママじゃないの?」
「そうかなぁ」
話題は尽きなかった。俺達は今まで毎日何を話してきたのだろう。学校のことや友達のこと、沙希の健康のこと。大事なことだと思う。でも、何かもっと大事なものを見落としていた気がする。
昨日までは、二人で一緒にいるだけで満足だった。今日は、二人で一緒に何かをしたい。そんな気分になっていた。
目の前に自動車が停まった。真っ赤なスポーツセダン。
「よう、お二人さん。遅くなってごめん」
運転してるキヨさんを見て、俺達二人は爆笑してしまった。アロハシャツにサングラス。
「に、に、似合いすぎ!」
腹が苦しい。沙希も指をさして笑い転げる。
「けーさつ、けーさつ呼ばなきゃ」
助手席で立ち上がった天城先生がサンルーフから手招きする。白いドレスがまぶしい。
「二人とも、早く乗って。三十分も遅れちゃったわ」
「え、そんな時間?」
俺はびっくりして時計を見る。九時三十分。ここで四十分近くも話し込んでたのか。
俺達が後部座席に飛び乗ると、車はタイヤを鳴らして急発進した。
「きゃあ!」
「キヨさん、飛ばしすぎ!」
エンジン音で俺達の声が聞こえないのか、キヨさんは振り返って怒鳴る。
「ずいぶん待ったろ。ちょっとエンジンがな」
沙希が叫ぶ。
「待ってません、全然待ってません!」
俺も叫ぶ。
「頼むから、前見てよ、前!」
とりあえず前は向いてくれたが、今度はガハハハハと大笑いしだした。なんか、アブなくないか? このひと。
「気にしないでね、ハンドル握るといつもこうなの」
「天城先生、平気なんですか?」
沙希が聞くと、涼しい顔で答える。
「もう慣れたから」
この図太さ。ひょっとして、似合いのカップルなのかも。
「しかし、なんだなぁ。時間のたつのも忘れてたとか?」
キヨさんが言うと、天城先生はクスクス笑う。
「恋人同士の時間は速く流れるものよ」
俺達は、二人並んでボッと真っ赤になった。
サンルーフから巻き込む風が頬を撫でる。さしずめ俺達は空冷二気筒か。
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
川のせせらぎの響く中で、国語教師らしく暗唱するキヨさんだが、どこかの組長みたいな服装で仁王立ちでは、あまりにもおかしすぎる。俺達は流木をベンチがわりに腰をおろし、笑いをこらえていた。
「筆者は誰だ? 霧島!」
方丈記は二年生でやるんだけどなぁ。意地が悪いんだから。
「鴨長明です」
「よーし。意味は? 浜田!」
沙希はちょっとだけ考えて答える。
「……人生は続いていくけど、同じ日は二度と来ない」
キヨさんはサングラスをはずすと、びっくりしたように沙希を見た。
「百点満点!」
満面の笑みで、またガハハハと笑う。
「文学作品の意味にゃ正解はない。いい答えと悪い答えがあるだけだ」
小石を拾う。
「今のは最高だったぞ、浜田」
ヒュ、と投げる。川面を何度も跳ねて、小石は向こう岸まで届いた。
俺は、天城先生の様子が気になっていた。沙希の答えを聞いた瞬間、表情が曇ったように見えたのだ。……知っているのだろうか。
「うし、飯を食う場所を作るぞ。霧島」
「はい」
俺はキヨさんと一緒に河原にシートを敷き、風で飛ばないように小石で押さえた。女性軍は早速その上にあがり、キャイキャイ言いながら弁当を並べ始めた。
「みんなのお弁当、共有にしましょ」
天城先生の提案に一同賛成し、俺もナップザックから弁当を取り出した。
「……歴然としてるわね」
あきれたように天城先生がつぶやいた。先生も立派な手作りのお弁当だったが、俺のはコンビニのおにぎりと惣菜だし、キヨさんに至っては日の丸弁当、おかず無しバージョンなのだ。
「なんだおまえ、飯ぐらい自分で炊けよな」
「……おかず無しよりマシですよ」
「なに言うか。俺はもらえるあてがあるから、これでいいんだ」
俺達の低次元な口論に、女性軍は顔を見合わせて笑った。
まだ昼にはちょっと早かったが、やたら早起きしてしまった俺は、猛烈に腹が減ってた。
「いただきます!」
沙希のサンドイッチから頬張る。無茶苦茶うまい!
あれだけあった弁当が消え去るのに、たいした時間はかからなかった。沙希でさえ、かなりの量を食べた。
食後、沙希と天城先生は空になった容器を洗いに川へ降りていった。俺はキヨさんとシートをたたむと、手伝うために二人を探した。
……見当たらない。しばらく川べりをうろうろしていると、大きな岩の向こう側から二人の話し声が聞こえてきた。
「……じゃあ、沙希ちゃんは何が不満なの?」
天城先生の声だ。
「不満じゃないの。……不安、なのかな」
沙希の声。
「聡は……いつもわたしを助けてくれるの。いつも気遣ってくれるの。どんなに疲れても、どんなに苦しくても」
「素敵じゃないの。そんな男、なかなかいないわよ」
「違うの。わたしなの。問題はわたしなの」
沙希……泣いているのか?
「わたし、何もしてあげられない。聡のために、何かしてあげたいのに」
いいのに。俺はおまえといられるなら、何もいらないんだ。
「できることがあるじゃないの」
「……」
「とりあえずは、適度に食べて、適度に運動して、元気になること。それから、元気でいつづけること」
「……」
「その後のことは、その時考えればいいでしょ? なによりも、あせらないことね」
「わたし……元気になれるかな」
「すくなくとも、退院直後よりかはね。見違えるようよ」
「ほんとですか?」
「ほんとほんと。別人みたい」
こうして聞いていると、姉妹のような感じだ。が、そろそろ戻った方がよさそうだ。そっとその場を離れ、車のほうへ歩く。
(……沙希にできること、か)
俺は、見返りのことなんて何も考えていなかった。そのことで沙希が悩むなんて、さらに考えていなかった。
(俺が沙希にして欲しいのは……)
首を振って考えを振り払う。危ない危ない、中一でそれはマズイ。第一、お願いなんてできっこない。そんな勇気はない。
小石を拾う。キヨさんがやったように水面に投げる。二、三度はずんで、小石は潜ってしまった。何度か繰り返していると、沙希と天城先生が帰ってきた。
キヨさんがカメラを持って待ち構えていたので、何枚か記念写真を撮った。この写真は、今でも俺の宝物だ。
その後、俺は沙希とあたりを散策した。
「沙希、気分は大丈夫か?」
「平気よ」
「しかし、おまえもよく食ったなぁ」
「……女の子に言うことじゃないわ」
きっとにらまれてしまった。
「……ごめん」
川沿いの森の中の道を歩く。新緑は濃さをましており、気持ちよい日陰を作っていた。時々立ち止まって木の実を拾う沙希を、木漏れ日が照らす。ちょっと見とれてしまう。
「なに見てるの?」
「沙希を見てる」
「……やだ」
真っ赤になる沙希。俺も、自分で言っておいてなんだが、やっぱり照れてしまう。なんだかぎこちない。すると、珍しく沙希の方が話題を変えてきた。
「……一つだけ、やなことがあるの」
「なにが?」
「わたし……聡より二歳年上になっちゃった」
「あ……そうだっけ」
確かに。俺の誕生日は十月だから、それまでは二歳違いだ。
「金のわらじだ」
「え?」
「諺だよ。二つ年上の女房は、金のわらじで探して来いってね」
「ほんとに?」
「うろ覚えだけど」
くすくす笑う沙希。
「戻るか?」
「……うん」
俺達は河原に戻って行った。途中、沙希がつまずいたので手を掴む。
「……ありがとう」
「あ……ごめん」
真っ赤になって手を離そうとしたが、沙希は掴んだまま。
「このままでも……いいでしょ?」
沙希も真っ赤になっていた。
手をつないだまま、なるべく平坦な道を選んで歩きつづける。汗ばんでくるのは、日差しのせいではなかった。
戻ってみると、キヨさんは昼寝をしていた。天城先生の膝枕で。平らな岩の上に腰掛け、同じく岩の上に寝ているキヨさんの頭を、その膝の上にのせているのだ。
……なんだかうらやましい。
そんな気持ちが読まれたのか、沙希が言い出した。
「やってみたい?」
「え?」
「膝枕」
顔から火が噴き出した。
「い……いいよ!」
「やなの?」
傷ついたような顔。
「じゃなくて……その……お願いします」
沙希は天城先生のそばに腰を下ろすと、両膝をぽんぽんと叩いた。
「さ、おねーさんの膝にいらっしゃい」
まったく。年上なのはいやだって言ったのは誰だよ。
「お……お邪魔します」
天城先生がくすくす笑ってる。まさか、先生の横でこんなことするとは思わなかった。
俺はキヨさんとは逆向きに寝転び、沙希の膝の上に頭を乗せた。沙希の素肌の感触と体温が感じられる。それと、かすかに香る、沙希の匂い。
「気持ちいい?」
俺の顔を見下ろして、沙希は聞いてきた。
「うん……」
「ほんと?」
「ほんとに気持ちいよ……でもさ」
「なに?」
「おまえ……もうちょっと太ってもいいぞ」
「なによ、いきなり。もう」
「いてて」
鼻をつままれた。
つい、感じたままを言ってしまった。触れてみてはじめてわかる。沙希の手足の肉が、いかに薄いかを。後頭部に感じるのだ、沙希の腿の骨を……。
いかん、話題を変えないと。
「方丈記、もう読んだの?」
「え?」
「さっきキヨさんが出した問題」
「あ、あれ。方丈記っていうの」
「知らなかったの?」
「初めて聞いた文章だったけど、なんとなくあんな意味なのかなって」
「ふーん。それもすごいな」
人生は続いていくけど、同じ日は二度と来ない。
「沙希は、感じているんだな。今日という日は二度と来ないって」
「うん。聡が病院に来てくれた日からね」
「俺が?」
「そう。聡が来るまでは、毎日が同じことのくり返しで、辛かったの。でも、あの日以来、一日一日が、わたしの宝物になったわ」
俺は目を閉じた。開けていたら、涙腺が緩んできたのがばれそうで。
「でも今日という一日は……特大のダイヤモンドね」
額に柔らかくて温かい感触。え、これって……。
「ありがとう、聡」
……うぉっほん。
でっかい咳払いがすぐそばでしたので、俺も沙希も飛び起きた。
「あー、お二人さんせっかくのところ邪魔してすまんが」
いつのまにかすぐそばに立ってたキヨさんが、わざとらしい大声で言う。
「あー、そろそろ日が翳ってきたので家路に着こうと思うのだが、よいかな?」
良いも悪いもないだろう、これでは。
帰りの運転はすごく穏やかだった。この車の後部座席は非常に狭いので、俺と沙希は再び肩をぴったり寄せ合って乗った。沙希はほどなく、俺にもたれかかって寝てしまった。俺は……沙希の体の感触が気になって、眠るどころじゃなかった。
む……無防備すぎる!
……こうして、沙希の誕生日のプレゼントは終わった。
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