第5話 委員はつらいよ
悪い予感というものは、なぜかよくあたる。
翌朝、沙希のマンションに寄ってから一緒に登校すると、教室の後ろの黒板いっぱいに相合傘だのハートマークだのがでかでかと描かれていた。
「いよ! ご両人」
「夫婦で登校かよー」
はやしたてる男子生徒たち。あまりにお約束どおりの反応なので、俺は怒る気にもなれなかった。もうちょっと大人になれよな、と心の中で毒づく。とか言う自分だって十分ガキだったんだが。その証拠に、顔が火照っている。
一方、女子のほうは教室のあちこちでかたまり、横目でちらちらと沙希を見ながらひそひそ話している。うー、言いたいことがあったら、はっきり言わんかい。
沙希の方を見やると、真っ赤になってうつむいている。
「来いよ」
沙希の手を取り、廊下側一番後ろの沙希の席へ向かう。ここぞとばかりにはやしたてる男子ども。
「もうキスはしたのか?」
「式の日取りは?」
「奥さん、子供は何人まで?」
芸能レポーター気取りで、ノートを丸めたものをマイク代わりに突きつけてくる。俺は精一杯の迫力でにらみつけたが、まるで意に介さない。
沙希を席に着かせると、俺は男子どもに振り返って言った。
「さあさあ、席に着いた! HRが始まっちまうぞ。キヨさんに
やがてHRが始まった。はやしたてていた男子どもはキヨさんに頭をはたかれ、黒板の落書きも消すように命じられた。まあ、当然だな。
俺の席は前から真中へんの窓際。沙希の席は右後方になる。こっそり様子をうかがうには、なんとも不利な位置だ。次の席替えでは、なんとか……。
ふと視線を感じて振り返ると、沙希がこっちを見つめていた。もう落ち着いたのか、顔の赤らみは抜けていた。親指を立てて微笑むと、沙希も微笑み返してきた。これでよし。
次の休み時間、小学校時代からの悪友の吉田拓郎が近寄ってきた。親の趣味丸出しな名前だが、気のいい奴だ。……ひどい音痴だが。
「霧島ぁ、やったじゃんよぉ。どうやって口説いたんだ?」
そう言って、俺の背中をバンバン叩く。くそ。沙希のところへ行ってやりたいのに。
「そんなことしないって。俺、保健委員だから」
さらりと言ったつもりだが、吉田はニキビだらけの顔を近づけてニタニタ笑う。声変わりのガラガラ声。おまけにうっすらと髭も。
「うん、保健委員だもんな」
「なんだよ」
「毎日見舞いに行ってたんだろ」
げ。なんでおまえが……。
「おまえさぁ、ここしばらくやたら付き合い悪かったじゃん。だから俺、つけてったんだ。そしたら病院だろ。ピンと来たね」
前言撤回。こいつは嫌な奴でスケベで下品で、おまけに……。
「吉田、おまえ今朝、何食った?」
「納豆」
俺は鼻をつまんで言った。
「臭うんだよ。ちょっとあっちへ行ってろ」
手を振って追っ払う。納豆は、自分が食う分はいいが、他人の口から臭うのは許せない。……それはそれとして。
沙希の方を見る。彼女は自分の席に座って本を読んでいた。背筋をぴんと伸ばし、静かにページをめくる。絵になってる。だけど……。
沙希の周囲、半径二メートルくらいは、がらんと空いていた。クラスメイト達は、男子も女子も遠巻きにしている。誰も話しかけない。沙希は孤独だった。この教室には四十人もの生徒がいるのに。
こんな時、俺は何も考えられなくなる。考えずに、勝手に身体が行動を始めてしまうのだ。気がつくと俺は、沙希の席の前に立っていた。
「浜田……」
声をかけてから、何を言うか考えていなかったことに気づく。沙希は本から目を上げて答えた。
「なあに? 霧島くん」
早速、イヨッ、熱いよ! などと冷やかす奴が出る。吉田だ。あんにゃろー、人の気も知らないで……知られても困るが。
クラス中の視線が集まってるのが背中に感じられる。沙希も、居心地悪そうにうつむいてしまう。……ええい、何しに来たんだ、俺は。
「ちょっと、出よう」
沙希の腕を掴んで、ドアに向かう。ささっと人垣が割れ、そこをすり抜けて教室を飛び出した。出口からいくつも顔がのぞき、冷やかしの声が追いかけてくる。振り切るように階段を上り、屋上へ出る。
あいにく空は曇っていたが、うるさい視線から逃れられてほっと一息つく。だが、沙希の方を振り返った時、自分をののしりたくなった。
沙希はぜいぜいと肩で息をしていた。なんてことだ。忘れるなんて。沙希は片方の肺しかないのだ。なのに、手を引いて階段を一気に駆け上ってしまった。
「浜田、大丈夫か!」
必死に気遣う。それしかできない自分がもどかしい。だが、何度か深く息を吸った後、沙希はにっこり笑って言った。
「大丈夫……ああ、走ったのなんて久しぶり」
「ごめん……おまえの身体のこと、忘れるなんて」
「いいのよ。わたしもう、病気じゃないんだから」
そういうと、沙希はガッツポーズをとった。俺は……そのポーズだと胸のふくらみが目立つのに気づき、慌てて目をそらした。
沙希は、自分の身体を見回して、ため息をつく。
「一年間寝ていて、背だけ伸びちゃって恥ずかしいわ」
いや、他にも発育のよさげなところが……。じゃなくて。
「……残念だなぁ。晴れてりゃ良かったのに」
必死に話題を変える。
「この方がいいわ。そろそろ日差しが強いんだもの。そばかす出ちゃう」
そう言うと、今度は「うーん」と背伸びをした。俺は、またもや目のやり場に困ってしまった。沙希の制服は去年のままらしい。白い腹部におへそまで見えてしまったのだ。
セーラー服の夏服をデザインした奴は、絶対スケベに違いない。俺はそいつのことを呪うべきか感謝すべきか迷っていた。
毎日がこんな調子だった。皆が沙希を疎外し、俺が近づくとはやしたてる。近づくも地獄、離れるも地獄。いや、地獄ってほどひどくはないが、うんざりしていた。
そんなある日、四限目の体育の時間だった。男女に分かれ、俺達一組は隣の二組と合同で行うので、男子は隣の教室に移動して着替えることになる。俺がさっさと着替えて出ようとすると、痴情最強の男、吉田拓郎が立ちふさがった。相変わらず、ニキビ面でニタニタ笑っている。こいつとは早々に絶交しないと、沙希に変な誤解を与えそうだ。
「楽しみだろ~」
「何がだよ」
こいつの言いそうなことは分かってるんだが。
「沙希ちゃんのブルマ姿。うーん、細いあんよが魅力的!」
見てきたかのようなことを言いやがる。おまけに、「沙希ちゃん」だと? 許せん!
「さ……浜田が体育に出るわけないだろ。見学だよ、見学」
つられて、名前で呼ぶところだった。あぶないあぶない。
「なんで? 退院したんだろ?」
「だって、あいつはガ……」
あやうく言いそうになった。癌……。
「ガ?」
「ガマン強いんだけど、その、なんだ」
しどろもどろになってしまった。
「行くぞ、もう。最後になっちまったじゃないか」
そう言って教室を出た瞬間、信じられないものを目にした。
女子は着替えに時間がかかる。俺達が廊下に出た時、ちょうど女子も出てくるところだった。
その中に、体操着姿の沙希がいた。
俺はその場に凝固してしまった。よほどマヌケ面をしていたのだろう。その横を、沙希は「?」な顔をしながら通り過ぎる。振り返りざま、俺は沙希の腕を掴んだ。
「まさか……体育に出るとか言わないよな?」
「出るわよ」
当然のように言う沙希。
「だって、おまえ、退院したばっかで……」
「病気が治ったから退院したのよ」
「そ、そりゃそうだけど……」
「肺が片方ないだけ。あとは問題ないんだから、少しは身体を動かさないと」
ごもっとも。正論だ。反論の余地無し。完敗。
俺は沙希の後姿を見送りながら、呆然としていた。吉田のバカが近寄って来なけりゃ、そのままずっと固まってたかもしれない。
「うんうん、おまえの気持ちはわかるぞ、霧島。あの足の細さ、白い肌、男なら独り占めしたくなるよな」
俺は吉田の足を思い切り踏みつけた。
「うぎゃ!」
「何してんだ、行くぞ」
グラウンドへ走り出る。
男子の体育は、準備体操が終わると恐怖の筋トレになった。運動部なみのハードなトレーニングを、本人の体力にはお構いなしにやらせるのだ。帰宅部の俺には結構辛い。沙希が女でほんとに良かった。
今日のメニューは逆立ち腕立てからだ。二人一組になって、逆立ちして相棒に足を持ってもらい、腕立て伏せをする。俺は吉田と組になり、俺が先にやることになった。かなりきつい。腕がズキズキする。
吉田の番。文化部なので、こいつも腕力が足りない。腕を曲げると伸ばせないのだ。
「ううう、霧島、たすけてくれ~」
情けない奴。俺は脚を抱えて引っ張りあげた。ようやく腕が伸ばせたので、二回目、三回目と続ける。これでは、補助する方も結構疲れる。
その時、グラウンドを走る沙希の姿が見えた。女子はランニングらしい。トラックの周りを走りつづける。
走ってる。沙希が走ってる。トボトボと歩くくらいの速度で、他の女子みんなに抜かれっぱなしだが、確かに走っている。
頑張れ、沙希。俺は祈るように見守る。
「これ、霧島! なに見とれてんじゃあ!」
ぺし、と頭をはたかれる。体育教師の遠藤修作だ。もちろん、クリスチャンでも作家でもない。陸上部の顧問で、鬼のしごきで有名だった。みんながゲラゲラ笑う。笑わないのは、必死の形相で腕立てをやってる連中だけ。
その時、トラックの向こう側で沙希が立ち止まったのが見えた。バカ、止まるなよ、どやされるぞ。そう思った瞬間、沙希はがっくり膝をつくと、苦しそうに胸を押さえて倒れた。背中がひくひくと痙攣している。
「ひべ!」
足元で変な声がした。俺が手を離したので、吉田が顔から墜落したらしい。だが、そんなことにかまってられない。俺は猛然とダッシュした。
「ぎえ!」
背後で悲鳴が上がった。倒れた吉田の背中を踏みつけたらしい。だが振り返りもせず、足も折れよとばかりにグラウンドを駆け抜ける。
「沙希!」
顔が真っ青だった。脂汗すら浮かべている。こうゆうの、看護婦がチアノーゼって言ってたっけ。
「バカ! 死ぬな!」
俺は沙希の身体を両手で抱き上げると、校舎に向かって全力疾走した。靴も脱がずに廊下を走り、渡り廊下を駆け抜け、北側の第二校舎一階の保健室へ飛び込む。ドアが開いていなかったら、突き破っていたところだ。
「先生! 沙希が、沙希が死んじまう!」
弾かれたように立ち上がる女医の天城先生。俺は沙希を抱えたまま、どうしていいかわからず立ちすくむ。
「君、速くここへ!」
シャ、とカーテンを開き、ベッドを指差す。俺はよろよろと歩みより、沙希をそっとおろした。
「……手が」
沙希の体操服を掴んでいた手が、どうしても開かない。指を一本ずつ引き剥がし、俺はそこにへたり込んだ。手が震え、脚ががくがくする。
天城先生は手際よく処置をしているらしい。が、おれは見上げる元気もなかった。目が回る。頭がくらくらする。目をつぶり、床の上に大の字になって喘いだ。
「大丈夫、君?」
しばらくすると、天城先生が俺のそばにしゃがみこんでいた。タイトスカートのミニで。普段なら、この悩殺ポーズに眼のやり場がなくて困るんだが、今の俺には体力的に無理だ。
体を起こす。わき腹がしくしく痛む。腕も脚も、酷使しすぎて今にもつりそうだった。
「俺、大丈夫です。沙希は?」
「今は眠ってる」
良かった……。
ベッドにつかまり、沙希の顔をのぞき込む。頬に赤味が戻ってきていた。
「何があったの?」
「こいつ……校庭を何周も走って。俺は止めたのに」
拳で床を叩く。
「先生……沙希は、右の肺が無いんです」
「聞いてるわ」
先生は立ち上がった。
「まったく。一年近くも寝たきりだったんだから、運動は徐々にやらないと」
次に、俺に人差し指を突きつける。
「君も君よ! そうゆう時は人工呼吸の一つもできないと。彼女を守りたいんでしょ?」
じ、人工呼吸! マウスツーマウス?
「彼氏として失格よ」
「彼氏って……そんな」
そう呼ばれるの、俺に異存はないんだが……沙希がなんていうやら。
俺はそのまま、沙希が目を覚ますまで保健室にいた。どっちにしろ、運動は充分やったから、体育はもう沢山だった。
四限目が終わる少し前に、俺達は教室に戻った。その間、沙希は、ずっと黙ったままだ。俺も、照れくさくて何も言えなかった。
「じゃあ、俺、隣で着替えるから」
くい。体操服のすそを引っ張られた。振り返ると、すそを掴んだまま、沙希は真っ赤になってうつむいていた。
「沙希……」
「……ありがとう。ごめんね」
それだけ言うと、沙希は教室に駆け込んで、ドアを閉めた。
かわいい沙希。ドアの前でにやけた顔をしていると、廊下の向こうからだみ声が響いてきた。
「おー、一組のナイトくん!」
吉田の奴。こいつに今のにやけた顔なんか見られたら、なに言われるか分からない。さっさと隣の教室に入って着替えることにする。
次は給食の時間。今日の献立はビーフシチューだった。大好物。あんなに走ったので、俺はハラペコだった。
「頼む、大盛りで」
配膳係の女子に頼みこむ。小柄なその子は、にっこり笑うと奮発してくれた。なんか、今日はサービスいいな。
席に着くと、腹がぐうぐう鳴り出した。う~食いたい。早く食いたい。
その横を、沙希がお盆を持って通り過ぎる。びっくりしたような、困惑したような顔。ひょいとのぞき込むと、そのシチューもかなりの大盛りだった。
「……食いきれる? それ」
「……食べる」
時間ぎりぎりまでかかったが、沙希はほとんど残さず食べた。偉い。偉いんだけど……。
五限目は国語だった。キヨさんの授業は、これでなかなか面白い。今日は小説の朗読だった。題名は「最後の番長」。……なんだかなぁ。
「いいか、感情を込めて読むのは、こうするんだ」
手本を示すため読み上げる。
「……昨日の喧嘩は、近藤君が悪いんじゃないのよ、先生」
みんなクスクス笑っている。空手五段のごつい顔で、女の声音を使われたらたまらない。俺も、笑いをこらえるのに必死だった。横っ腹が痛くなってくる。そういえば、沙希はどうしてるだろう……。
斜め後ろを振り返ってギョッとした。沙希は真っ青な顔で、口を手で押さえている。だから言わんこっちゃない!
「先生!」
立ち上がった勢いで、ガタンと椅子が鳴った。教室中の目が集中する。
「浜田が気分悪そうなんで、行きます」
キヨさん、沙希をちらりと見て言う。
「おう、頼む」
俺は小走りで沙希の席へ行き、後ろから抱えるようにして立たせる。
「大丈夫か?」
こくん、とうなづく。が、どう見ても大丈夫ではない。沙希に人前で嘔吐させるわけには行かない。時間との勝負だ。
「ドア、開けて!」
これで今日は二度目だ。俺は沙希を抱き上げると、廊下へ飛び出した。
……健全なる男子生徒にとって、女子トイレは禁断の場所だ。が、緊急事態ならそうも言っていられない。俺は沙希を抱いたまま女子トイレに飛び込んで、そっと彼女を下ろした。沙希はよろよろと個室に入る。俺は廊下に飛び出し、床の上にへたり込んだ。
まったく……無理しやがって。
両手には、まだ沙希を抱き上げた時の感覚が残っている。軽い。軽すぎる。身長は俺とそう変わらないのに、体重は半分ぐらいにしか感じられなかった。寝たきりの一年間は、沙希の身体をひどく華奢なものにしてしまっている。手足も、胃腸も。
やがて水洗の音が聞こえてくる。続いて、流しで洗う音。うがいをする音。咳き込む音。そして沈黙。
「沙希……?」
返事がない。
「おい、どうした? 入るぞ」
そっとドアを開け、中をのぞく。
沙希は、流しに手をついて泣いていた。恥ずかしさに、自分の無様さに、惨めさに泣いていた。
「わたし……はやく丈夫になりたくて……それで……」
そっと肩に手を置く。
「無理すんなよ」
「……ごめんなさい」
「すこしずつ、行こうよ」
沙希は振り向くと、俺の肩にしがみついて泣きじゃくった。
やさしく背中に手を回して抱きかかえながら、俺はこの突然のご褒美に満足だった。ただ一つの点を除いて。
……ここ、女子トイレなんだよな。
俺達が教室に戻ると、みんなの拍手が迎えてくれた。一体何が起こったのかと思ったが、教壇のキヨさんがニカッと笑って親指を立てたので、なんとなくわかった。俺達のことで、クラスのみんなにお得意のお説教をしてくれたんだろう。
この時を境に、俺達の仲への冷やかしはぴたりと止んだ。クラスの中に、何らかのコンセンサスができたらしい。それは良かったんだが、良くないことが一つ。
それから一週間ぐらい、放課後になると遠藤先生に追いまわされるはめになってしまったのだ。おまえなら県大会を狙える、とか。陸上部で青春を! とか。
やれやれ。保健委員も楽じゃない。
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