第6話 苗字で呼ばないで

 俺と沙希が、お互いの気持ちを確認したのはどのあたりだろう。


 沙希を抱きかかえて走り回ったあの日から、二人きりの時、俺は沙希のことを名前で呼ぶようになっていた。それは自然な変化で、二人のどちらも気づかないうちにそうなっていたのだ。

 一方、沙希が俺のことを名前で呼ぶようになったのは、はっきりとしたきっかけがあった。それは、沙希にしてみれば、さぞかし勇気のいることだったろうと思う。


 この学校は、校内美化にすごく熱心だった。校内の汚れは生徒の精神的成長を妨げる、ということで、まあ、その点は異論ない。俺が吉田たちと廊下でふざけあって転がっても、黒い学生服に埃がほとんどつかないのはありがたい。男子中学生の健全な精神的成長には取っ組み合いが絶対必要だが、汚れなければ遠慮なくできる。

 そんなわけで、毎週月曜日は昼休みを早めに切り上げて、全校一斉の掃除が行われていた。面倒な掃除も、みんなでやればそれほどじゃない。というわけで、みんな真面目にやっていたし、意外と楽しんでさえいた。

 ……まあ、そうじゃない連中もいたようだが。

 その日、俺の班の分担区域は、北校舎の西側の階段だった。三階建ての校舎の屋上から一階まで箒で掃き、モップで水拭きをし、手すりを拭く。手際よくやれば三人で十五分くらいなので、残りの時間は遊んでいていいのだ。

 ところが、俺が下まで掃き終っても、手すり係の吉田と水拭き係がなかなか降りてこない。

 あんにゃろー、一番楽な仕事をさせてやってるのに。掃き集めたごみを捨てると、階段を駆け上った。

 吉田ともう一人は、二階と三階の間の踊り場に立って、窓から下を見ていた。

「おい、吉田」

 呼びかけても、ニキビ男は振り返らず、そのまま応えた。

「なあ、霧島。あれって、沙希ちゃんじゃねえか?」

 こいつ! 「沙希ちゃん」はやめろ、と言ってるのに。

 というのはさておき、沙希が外にいるのか? あいつ、南校舎の西階段の班だったはずなのに。俺は窓に取り付いた。

 確かに沙希だ。北校舎の裏側にはテニスコートがあり、テニス部の部室がある。そこに向かって歩いている。前後左右を二年生に取り巻かれて。怯えたような表情。部室の前で立ち止まり、ためらうが、二年生の一人が突き飛ばし、沙希は部屋の中に倒れ込む。ドアが閉まった。


 ……やばい。どう考えても、これはテニス部の勧誘じゃない。


 俺は吉田に箒を押し付けると、階段を駆け下りた。昇降口まで急ぎ、靴に履き替えてテニス部の部室に向かった。ドアの横に身を寄せ、中の様子をうかがう。が、窓は磨りガラスでしまっているし、中の声もほとんど聞こえない。じれていると、突然肩を叩かれ、ぎくっとする。

 振り返ると、吉田のニキビ面がニタニタ笑ってる。

「こっちこっち」

 手招きしながらささやく。

「おまえ……何してんだよ!」

 ささやき声で追い払おうとすると、

「中をのぞきたいんだろ? ならこっちだ」

 部室の建物の北側へ、忍び足で歩いていく。くそ、こいつ常習犯だな。だが、この際やむをえない。ついていく。

 部室の北側には、高い位置に窓がついていた。ここはガラスが割れていて、板で適当にふさいである。これに隙間があって、中がのぞけるのだという。吉田は音が出ないようにそっと箱を重ね、その上に乗れと手招きした。


「報酬は、例のテープな」

「わかった。貸すから、こんど」


 まだろくに聞いてない新曲テープだが、背に腹はかえられない。

 のぞき常習犯の吉田を追い払うと、おれは慎重に箱の上に乗った。さしずめ俺はのぞき初心者か。

 隙間からのぞくと、室内の様子が手にとるように見えた。沙希は部屋の真中に立たされ、テニス部の二年生らしき女生徒に取り巻かれている。そのうちの一人が、沙希の肩を小突く。

「なんとか言ったらどうなの!」

 沙希はよろけたが、踏みとどまる。その肩は震えていた。

「霧島君に迷惑ばっかりかけて! 一体どうゆうつもりなのよ!」

 俺に? ……ちょっとまてよ。迷惑なんて、いつ……。

「あんただけの霧島君じゃないんだからね!」

 ……俺って、公共物かなんかだったのか? でなきゃ、この二年生全員が俺の隠れファンとか? まさか。

 その時、沙希の後ろ、戸口の側の隅にいる小柄な少女に気がついた。あれは、同じクラスの安堂だ。この間、ビーフシチューを大盛りにしてくれた、笑顔がちょっとかわいい子だ。が、今日は笑っていない。泣き腫らした顔でうつむいている。


 ……そうか、こいつテニス部だっけ。小柄でかわいらしくて、目上の者には甘え上手。たしか沙希が退院する前、階段で転んで足をくじいたので、抱きかかえて保健室へ運んでやったことがあった。そのあと、しばらく冷やかされたもんだが、俺の方はなんとも思っていなかった。だが、彼女の方はそうでもなかったらしい。

 なるほど。なんとなく話が見えてきたぞ。しかし……どうしたもんか。今、踏み込んでも、のぞきがばれるだけで、沙希の立場はちっとも良くならない。

 沙希は、凍えているかのように両手で自分を抱きかかえ、うつむいたまま立っていた。


「わたし……霧島くんには感謝してます」


 か細い声で、沙希は言った。

「ほんとに、いつも迷惑ばっかかけてるし。わたしはなにもしてあげられないし……」

 沙希。迷惑なんかじゃないぞ。俺は、好きでやってるんだから。

「でも……いけないんですか?」

 沙希は顔を上げた。涙に頬が濡れている。

「好きになっちゃいけないんですか?」

 沙希……。

「わたしは身体弱いし、年上だし、かわいく振舞えないけど……だからって人を好きになっちゃいけないんですか?」

 おまえは……。

「わたしは、霧島くんが……聡が好きです」

 バシ。沙希の正面に立っていた二年が、沙希の横っ面をひっぱたいた。

「生意気なんだよ! このできそこないが!」

 沙希の口の端から血が滴ってた。中を切ったのだ。

 それを見た瞬間、体中の血液が沸騰して頭に上ってくるような感じがした。生まれて初めて、人を殺したいと思った。よくも、よくも……よくも沙希のことを!

「……わたし、できそこないです」

 言うな、沙希。

「走れないし。歌えないし。聡のために何かできるわけじゃないけど……」

 そいつらにゃ、わかるはずがないんだ。

「そばにいたいんです。いて欲しいんです」

 わかったから。もう何も言うな、沙希。

「一日でも長く……そばにいたいんです」

 きっ、と顔を上げて、沙希は叫んだ。

「それの、どこがいけないんですか!」


 沙希……。


 さっきの怒りは、もっと激しい感情に押し流されてしまった。俺は沙希を愛してる。沙希も俺のことを……。これ以上に、何を望むことがあるだろうか。

 その時、沙希の背後で泣きじゃくっていた安堂が、前に進み出てきた。

「先輩……もういいんです」

「由香! だって、あんた……」

 安堂は、沙希を殴った二年生に向かっていった。

「もういいんです。ありがとうございました」

 深々とお辞儀する。そして、沙希の背中に向かって話し出した。

「浜田さん、ごめんなさい。霧島くんの気持ちはわかってました。わたしを助けてくれたときと、あなたの時と、まるで違ってたから」

 俺は……よっぽどあからさまだったんだな。

「なのに、あなたが彼のことをどう思っているのか……ちっとも気にしていないような気がして。だったら、わたしの方がずっと、霧島くんのことが好きなのに。そう思ってたんです」

 鼻をすすり、涙をぬぐうと、安堂は無理して笑顔を作った。

「でも、もういいんです。わかっちゃったから。ほんとにごめんなさい」

 もう一度、深々とお辞儀すると、安堂は戸口に向かった。

 俺も、ここに長居は無用だ。そっとテニス部室を離れると、校舎北側の裏口から入り、南側の昇降口へ向かって走った。五限目の予鈴が鳴る。手にもった靴をしまい、上履きに履き替えると、ちょうどそこへ沙希が帰ってきた。

 沙希。ぐっとこみ上げてくるものがあったが、必死に押さえ込む。

「沙希、どこ行ってたんだ? 探したぞ」

「ごめんなさい、ちょっと……」

 口元には、まだ血がこびりついていた。

「血が」

「ああ、これ……ちょっと転んじゃって」

 下手な嘘だが、だまされてやらないと。

「口の中、切ったのか? 保健室へ行こう」

「え、でも、五限目が……」

「そんなの、後」

 手を引いて歩き出す。

「ごめんね、霧島くん。いつも迷惑ばっかかけちゃって」

「じゃあ、いいかな? お願いがあるんだけど」

 きょとんとする沙希。

「名前で呼んでくれよ。俺がしているみたいに」

 沙希は、ぽっと顔を赤らめた。

「それじゃ……えっと、聡くん」

「くん付けはだめ」

 あくまでもこだわる。真っ赤になってもじもじする沙希。

「えっと、えっと……さ、と、し」

 いい感じだった。

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