第4話 この世界のこと

「あんがと。それでこの世界のことについてだけど、何か聞きたいことはある? もうこっちでの生活に慣れ過ぎちゃって、何がわからないのかがわからなくって」


 頬杖をつき、グラスの縁を指先でなぞりながら、ビビアンがそう口にする。


「あの……日本には帰れないんでしょうか……?」


 魔法が存在すると聞いて一瞬気持ちがたかぶったものの、雫は途端に不安を感じ始めていた。

 いきなり別の世界に迷い込んでしまったのだから当然だ。


「うーん、いつになるかはわからないけど、まあその内帰れるわよ。実際、少し前に何人か帰っていったし」

「あ、そうなんですね。それならよかったです!」


 そう聞いて、雫はホッとしたように胸を撫で下ろした。


 しかしその直後、ビビアンの言葉に違和感を覚えた。

 それなら、なぜ彼はこの世界にいるのだろうか。


「あの、ビビアンさんは……?」

「ああ、アタシは好きでこっちに残ってるのよ。どうも居心地がよくてね」

「なるほど、そうだったんですね」

「ええ。お店まで持っちゃったし、多分こっちで骨を埋めることになると思うわ」

「お店? 一体なんのお店ですか?」


 雫が尋ねると、ビビアンは指をチョキの形にして開いては閉じを繰り返した。


「ああ、美容室ですね!」

「正解っ! 髪が伸びてきたら、アタシのところに来てちょうだいねんっ!」

「はい、わかりました!」

「うふふ。それより、あなたの今後についてだけれど、まずは王様に挨拶しなきゃね。お店の営業許可だって取らないといけないし」

「……えっ?」

「『えっ?』って何よ。帰れるまではここで営業をすることになるんだから、当然でしょ?」


 それを聞いて、雫はハッとした。


 確かに元の世界に戻れるまでは、ここで生活を送っていかなければならない。

 その生活費を稼ぐためにも、今まで通りバーを営業していかなければならないことにようやく気付いた。


「た、確かにそうですよね。でも、許可してくれるでしょうか……?」

「そのことなら心配は不要よん! むしろ喜んで許可してくれると思うわ。なんせ、この国はお酒が発展してなくてね。マズいビールとワインしかないんだからっ」

「へえ、そうなんですか。……あ! だからさっきの男の人はウイスキーやブランデーを知らなかったんですね!」


 ウイスキーやブランデーを飲んだことがないのはまだしも、その名前すら知らないのは少し珍しいなと雫も思っていた。

 しかし、そもそも最初から存在していないのなら、それも合点がいく。


「そうそう。アタシもこの国は大好きだけど、お酒に関してだけは不満でね。でも、雫ちゃんのおかげでそれも解消されたわ。きっとみんなも喜ぶわよ」

「それならよかったです! じゃあ、早速営業許可を取らないと!」

「明日の……じゃなくてもう今日ね。お昼でよければ、アタシがお城へ連れていってあげるわ」

「えっ、いいんですか?」

「もちのろんの助よんっ! そもそも一人じゃ辿り着けないだろうし」


 言われてみれば確かにそうだ。

 雫はビビアンの厚意に甘えさせてもらうことにした。


「じゃあ、お願いします!」

「ええ。じゃあ、12時にお店に来るわ」

「ありがとうございます! 助かります!」

「困った時はお互い様ってね。そうと決まったら早く帰って寝ないと。お会計頼めるかしら」

「はい! えーっと、1,200円になり――」


 雫は途中で言葉を詰まらせた。

 ここは異世界。日本円なんて存在しないことに気付いたのだ。


「……雫ちゃん。もしかしてゴンズちゃんから、通貨のことを聞いてないの?」

「……はい」

「だったら、あの筋肉ダルマは支払いをどうしたの? 『一杯飲んだ』って言ってたけど」


 その言葉に先ほどの客――ゴンズが言っていた言葉を思い出した。


「えーっと、『役立つ奴を連れてくるから、そいつに払ってもらえ』って……」

「まったくあのバカタレは……。いいわ、アタシが立て替える。それよりも通貨のことについても話しておかないとね」


 ビビアンはポケットから巾着袋を取り出し、カウンターの上に置いた。

 じゃりんという音から、複数枚の硬貨が入っているのがわかる。


「すみません、何から何まで……」

「いいのよ。じゃあ、まずこれが銅貨ね」


 カウンターの上に10円玉とよく似た、銅色のコインが置かれる。大きさも同じくらいだ。


「で、これが銀貨。銅貨10枚で銀貨1枚と同じ額面ね」


 次に置かれたのは銀色のコイン。これまた100円玉によく似ている。


「最後に金貨。これも銀貨10枚で金貨1枚の価値になるわ。といっても、本当に金やら銀やらが使われている訳ではないようだけど」


 最後は雫が予想した通り、金色の硬貨だった。これも先の二種類と同じ大きさだ。


「この三枚で経済が成り立ってるわ。大体銅貨5枚で普通の食事一食分。贅沢しなかったら、金貨12枚もあれば一ヶ月は暮らせるわね」

「なるほど……」

「それで、どの位に設定するのかしら? アタシとしては、タリスカーなら一杯で銅貨4~5枚ってところが妥当だと思うのだけど」


 恐らくビビアンは日本における一般的なバーと、この世界の物価を照らし合わせてそう計算したのだろう。

 しかし、雫は一般的なバーよりも少し安めに価格を設定していた。

 その姿勢はたとえ異世界であっても、貧乏を強いられたとしても崩したくない。


 その考えから一部の高級酒以外は一杯につき、銅貨3枚に設定することに決めた。


「じゃあ、一杯で銅貨3枚にします!」

「え、いいの? 客としては嬉しいけど、少し安すぎない?」

「大丈夫です! 多分……」

「そう。じゃ、お言葉に甘えて、アタシの二杯とあのバカの一杯を合わせて銅貨9枚ね。お釣りはチップとして受け取っておいて」


 雫はビビアンから銀貨を一枚受け取った。

 銅貨10枚分の価値であるということは、差額の銅貨一枚がチップということなのだろう。


「ありがとうございます!」

「ええ。それと当分の生活費は王様から貸してもらえるから、そこは安心なさいな」


 日本円が使えないとなると、雫の全財産はビビアンから受け取った銀貨一枚のみ。

 まさに一文無しの状態だが、借りられるのであれば一安心だ。


「はい! よかったです!」

「それじゃあ、そろそろアタシは……って、そうだ。雫ちゃん、家はどうするの?」

「ああ、二階が家になっているのでそこは大丈夫です!」

「そう、それなら心配いらないわね。じゃ、また12時に来るわ。じゃねー」

「本当に色々とありがとうございました! おやすみなさい!」


 ビビアンは手をひらひらとさせながら、店を後にした。


(本当にいい人だったな。って、もうこんな時間か。片付けしないと)


 右腕に視線を落とすと、既に深夜3時を回っていた。

 ドロップの営業時間は18時から翌日の3時まで。もう閉店の時間だ。


「……そうだった」


 グラスを洗おうと蛇口を捻るも水が流れない。

 そこで断水していることを思い出した。同時に停電していることも。


(昼になったらビビアンさんに相談してみよう)


 片付けはまた昼にすることにして、雫はもう休むことにした。


 店から出て、戸締りをしっかりと行った後、脇にある階段を上って扉を開く。

 試しに入口脇の電気のスイッチを入れてみるも、やはり付かない。


「はあ……」


 大きな溜め息をこぼした後、手探りでキッチンへ向かい、買いだめしておいたパンをかじる。

 そうして腹を満たした後、寝室へ行きベッドに横たわった。


(それにしても異世界かぁ。まさか漫画やアニメの出来事が本当に起きるなんてな)

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