第72話 引越し

「小鳥さん、おはよう!


リスさんは居るのかな〜」


半分泣きたいような気持で窓を開けると、

そこには、そう言いたい様な景色が目の前に広がっていた。


それでも、外の空気をいっぱいに吸うと、

心が落ち着く。


窓の外には薔薇の花をメインに、

色んな彩の花が咲き乱れ、

青々とした芝の先にはベンチがちょこんと置いてあった。


どうして僕がこの景色を目の前にしているのかというと、

それは矢野君が目覚めた病室から茉莉花さんと出た後で起こった。


僕達は、茉莉花さんが矢野君に渡した小瓶のことで

ワイワイと話をしていた時、急に茉莉花さんが、


「そうだ! 私、良い事思いついたわ!」


と言って手をパチーンと叩いた。


発情誘発剤を平気で自分の息子に渡した茉莉花さんだ。


彼女の


“良い事”


は少し疑わしい。


「ど、ど、どうしたんですか?!


そんな大きな声を出して!」


と驚いていると、


「陽向君、貴女、家に引っ越してきなさいよ!


一花叔母さんがガーデニングをするために建てた

コテージが開いてるのよ!


そうよ! 家に来なさい!」


と、また突拍子もない事を言い出した。

やっぱり茉莉花さんだ。


「え~ それって……

矢野君の家に引っ越すって事ですよね?!」


訝し気に尋ねると、


「いいの、いいの、家って言っても離れだし、

どうせいつかは光の嫁になるんだし、

今から花嫁修業と思えば……ね?」


と、茉莉花さんはちゃんと考えて物を言っているのか

僕にはさっぱり分からない。


「そんな…… ね?って言われても……急には……」


そう言って躊躇していると、


「陽向君のアパートは何処?

不動産は何処の会社?

契約は勿論終わってないわよね?

たっくんにコネクションがある所かしら……?


ねえ、何処何処?」


そう言って話はドンドン進んでいった。


「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ!?」


「ほら、ほら!

早く、早く! ついでだから、今から行っちゃいましょ!


で? アパートは何処?

不動産会社は?」


「え~~~っっっ!


え~っとぉ…… アパートは町田の方で……


不動屋さんは……確か太陽不動屋さんで……」


茉莉花さんの強引さにつられたようにそう言うと、


「あら、じゃあ、家の系列じゃない!

と言う事は…… 陽向君の住んでるアパートは家の所有不動産ね。

じゃあ、問題は無いわね。


今から不動産屋へ行って、解約するわよ!」


と、またまた矢野家の事業の大きさを目の当たりにして、

更にびっくりした。


茉莉花さんは見かけによらず……

いや?見かけ通りなのか?何とも強引だ。


“これは断っても無理やりひっぱられる奴だな”


そう思って、僕は茉莉花さんの言われるがままに

不動産屋さんについて行き、

あれよこれよという間に今のアパートを解約されてしまった。


そしてその足でアパートへ帰ると、

もう引っ越し屋さんが既に来ていて、

僕の荷物はドンドン運び出されていた。


そして茉莉花さんは先導を切って、

色々と指示を出している。


お花畑のような茉莉花さんは何処へ行ったやら、

やっぱり茉莉花さんは矢野グループの嫁だった。


携帯を片手に色んな事をテキパキと有無を言わさずやる姿は、

ビジネスウーマンそのものだ。


呆気に取られている間に、

僕は一花さんのコテージだったという離れに引っ越してきた。


そして一晩が経ち、僕は今この景色を見ながら

深呼吸しているのである。


でもいざ越してくると、とても住み心地が良い。


コテージは真っ白な外観に、

中は贅沢な広さがあり、

キッチン、トイレやシャワー、

それに大きなバスタブのお風呂もついていて、

おまえけにサンルームまでもついていた。


僕は部屋の中に目をやると、

茉莉花さんのセリフを思い出していた。


「ここに来ると、一花叔母さんを思い出すわ……


何時もそこでロッキングチェアーに腰かけて……

光と仁君が遊ぶのをよく見てたのよ……」


そのロッキングチェアーはいまだに此処にある。


アンティークっぽくなって来てはいるけど、

まだまだ使えそうだ。


僕は昨夜このロッキングチェアーに座り、

一花叔母さんの事を色々と瞑想した。


その間、凄く不思議な感覚がした。


今でも一花叔母さんがここにいる様な感じで、

僕を後ろから包み込んでいるような感覚さえ覚えた。


部屋の中を歩き回ると、

柱にはお決まりの背比べの傷が付いていた。


それは紛れもなく、

矢野君と佐々木君のものだった。


佐々木君はまだ僕はここに越して来た事を知らない。


怒って病院から出て行った佐々木君とは、

あの後まだ話をしていない。


ラインしても既読にはなるものの、

返事は来ず終いだった。


佐々木君の事を考えると何故だか胸が痛くなるけど、

明日はいよいよ矢野君が帰って来る日となった。


僕はキッチンに歩いて行くと、

段ボールの中からヤカンを取り出し水を少しだけ入れると、

インスタントコーヒーを入れるためのお湯を沸かし始めた。






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