春の銀河

雨宮テウ

第1話

深夜02:00 

心地よく混濁した意識のまま

開放した網膜に映し出されたのは、

今までに見たこともない、艶やかに笑う虧月だった。

『月に雨が降ったのですよ』

ベランダで横になっていた私に、見知らぬ老人が言った。

『月に、雨が??』

『おっと、喋らないでくださいな。蝶たちが帰って来られなくなってしまいます。』

そう言うと老人は私の口元を指差した。ピントが合うにつれ徐々に見えてきたのは、

細い細い金の糸。それがどうやら私の上唇から月に向かって伸びているのだ。

(何だ、これは...)

『申し訳ないことです。

 私は降り立つ場所を誤ってしまったのです。

 本来ならば木蓮の先に降りるのですが、風に吹かれて目標をそれてしまいましてね、

 歳が歳なだけに負けてしまい、糸を切らずにやっとのことで着地した場所が

 あなた様の上唇だったわけです。』

色々とわからないことばかりではあったが、

唇を動かしてしまったらきっと繊細な金の糸は切れてしまうのだろう。

『本当にすみません。じきに蝶たちが戻ってまいりますから、

それまでその上唇をお貸しくださいませんか...??』

きっとこれは春の夢なのでしょう。

だったら最後まで見ないわけにはいきません。

私は老人に上唇を貸すことにしたのでした。

それにしてもなんて艶やかな月なのだろう。

動くことも話すこともできないので、相変わらず月を眺めていると、老人が教えてくれた。

『今日の月は特別なのですよ。』

『木蓮の香る晴れた地上と、年に一度銀色に輝く雨の降る月を金糸で結ぶことが私の役目なのです。

 その金糸を頼りに蝶たちは月の雫を飲みに舞うのです。

 あぁ、きっとあなたは蝶をよく知らないでしょう。

 蝶はさなぎの中で一度、体を失い魂になって時を過ごす期間がある生き物なのです。

 魂をもう一度形のあるものに宿らせるためには、

 この金糸を渡り、月へ行き、月の雫で清めなければならない、

 というのが美しい蝶たちが信じてきた決まり事だそうです。

 ご覧になっているあの月の艶めきは、月光や月の雫の光だけではなく、

 雫を口にした蝶たちの喜びなのです。

 だから今日この日のこの時間の月は特別艶やかなのです。』

老人は慈愛に満ちた深いしわのある目で、蝶の煌めく月を穏やかに眺めていた。

きっとこの金糸を張るごとに、そのしわを深めていったのだろう...

と思うとなんだか老人と蝶が羨ましくも思えた。


『どうしてうらやましいなどと??』

(おじいさんと蝶たちがお互いにしてきたことは、私にはまだ到底むずかしいからです。)

老人は少し考えるような顔をし、そうでございますか、と笑った。

『さぁ、みんなが帰ってきた』

月を見上げると銀とも青ともとれるような不思議な輝きの凛とした蝶たちが

金糸を渡って優雅に降りてくるところだった。

それはまるで穏やかに迫りくる銀河のようだ。

『お帰りみんな。もう私の事はいいから、早く体におかえりなさい。そして朝を迎えるのですよ。』

蝶たちは私の目の前を舞い、老人のもとを一回りも二回りも舞い、それぞれの体へと還って行った。

最後に老人は私の額に暖かい両方の手のひらをあて、言った。

『心優しいあなたに』

金糸を伝い、ひとしずく、月の雫が降りてくる。

(これはおじいさんが飲むものではないの??)

老人は私の額に置いた手のひらを私の瞼に持っていく。

月の雫は金糸から私の上唇に触れ、ゆっくりとこの体に染みて消えた。

目を開くと,宙には金色の粉が舞っていた。おそらくは役目を終えた金糸の残像だろう。

老人の姿はどこにもなく、私は一人、

いつもの美しい月を見ていた。

おしまい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春の銀河 雨宮テウ @teurain

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画