第5話 / 【闇の細道 2】


「昼間は静かに食事できた?」

「……できたわけないじゃないですか。どうして染石に場所を教えたんです?」


 日もだいぶ傾き始め夜を迎えようとしている夕方。運動部の声が時折耳に入る中、僕と千鶴さんは明日使う書類の確認作業に取りかかっていた。偶然にもいまは職員室で二人っきりで、最もオフに近い形で彼女と話ができる。だから僕は密かにこの時間で距離を少しでも縮めたいと考えていた。


「あの子可愛いからつい甘やかしちゃのよね。もう一人の妹ってかんじで」

「千鶴さんは歳下に弱いんですね」

「そうみたい。誰でもいいってわけじゃないけど、一緒にいて面白い子は特に、ね」

「たしかにおもしろいですけど、千鶴さんには迷惑かけないからそう余裕でいられるんですよ。僕なんてなんど迷惑をかけられたものか……」

「でも琴音ちゃんって成績も上位だし他の先生からも好印象じゃない。担任として誇らしいと思うけど」

「そこがたち悪いところなんです。僕の前では悪魔のくせして他では天使を演じてるんですよ? 誰も僕が手を焼いてることを信じてくれないんです」


 クラスのまとめ役である染石はとにかく人気があり誰もが肩を持ってくれる生徒だ。

 だが、なんの因果か僕は彼女のターゲットにされている。ことあるごとにくっついてくるしいつも僕を困らせにくる。同級生だったら絶対に仲良くなっていないタイプだろう。


「でも、本気で怒ってるわけではないんでしょ? 琴音ちゃんといる時の西元くんはイキイキしてるんだもん」

「まぁ……本気で怒るようなことではないので。でもその塩梅が完璧なのも逆にムカついて」

「妬けちゃうなぁ」

「——え?」


 千鶴さんは書類から手を離し真っ直ぐ僕の方を見た。夕焼けに照らされる姿はいつも以上に綺麗で、僕はつい言葉を失ってしまう。

「私は同じ先生としてあまり近づくことはできないから、琴音ちゃんや若葉が羨ましくってね。人気者とは楽しくおしゃべりしたいって思うのは普通じゃない」

「僕は別に人気者じゃないですよ」

「本当にそうかな? 若葉までも一緒になったりして」

「……見てたんですか」

「琴音ちゃんと一緒に職員室来てたからね。そういうことかと。ところで——」


 千鶴さんは少しだけ席をこちらに近づける。昼間に若葉も同じ動きをしたが明らかにこっちは慣れている。一切の曇りなく、自分の魅力を存分に見せつけることに躊躇いがない。


「若葉、なにか変わってなかった?」

「——少し大人っぽくなってました。あ、メイクのことに関して怒ってますか?」

「違うちがう。むしろ妹がもっと可愛くなって嬉しい。西元くんには感謝ですね」

「え、僕に?」

「当たり前じゃない。あの子はキミに見てもらいたくて努力した。結果すっぴんでも可愛かったのにその何倍も可愛くなったの——ありがとね」

「僕はなにもしてませんよ。でも、もっと可愛くなったのは事実ですし男の子も放っておけなくなるでしょうね」

「そうね——ちなみに西元くんは、私と可愛い若葉のどっちが好みかな?」

「……それは」


 なんだこの人、なにもかも分かってやってないか?

 というか、ついさっき自分で先生同士だから気を使うって言ったばかりじゃないか!


「ノーコメントで」

「ふふ、そういうと思った」

「じゃあ聞かないでくださいよ!!」

「そういう反応が見たかったんだもーん。それじゃあ、私は先に上がらせてもらおっかな〜」


 千鶴さんはカバンを手に取り席を立つ。まだ微妙に書類の確認が残ってるはずなんだけど、もしかしてこれは僕にやれということなのか……?


「じゃあ西元くん、戸締りとか色々よろしくね〜」

「わ、わかりました」

「それと、優柔不断な男の子は嫌われちゃうから気をつけてね」

「はぁ——ってはぁ!?」

「ばいびー」


 彼女は僕の方には一切振り返らずに職員室を飛び出した。

 松下姉妹、ほんと意味わかんねぇ。


「あれ、お姉ちゃんもう帰っちゃいました?」


 千鶴さんに似た声が聞こえたので扉の方に視線を向ける。

 そこには今顔を思い浮かべていた松下姉妹の妹、若葉の姿があった。


「千鶴さんならちょうど今帰ったけど、なんか急用だったのか?」

「突然今日は外で食べてくるって言い出したので気になったんです。あの人友達いないくせに珍しいから」

「友達いないは言い過ぎじゃないかな……」

「でも先生もあの人から金曜夜は予定があるの——って聞いたことないでしょ?」


 そう言われてみれば確かに、ここ最近の金曜夜はずっと千鶴さんに連れ回されてるな。それにあの人の口から友達という単語を聞いたことがないかもしれない。あれ、千鶴さんってもしかして以外と寂しい人なのか?


「どうしよう。今から買い物だから荷物運び手伝って欲しかったのに」

「お母さんに頼むのは難しいのか?」

「お母さんは今日パートなので家にいないんです。帰ってくるのは九時ぐらいになっちゃうと思うし……あっ、なんかすみません。独り言をぐちぐち言っちゃって」


 お先に失礼します——そう言って若葉は扉を閉じようとする。

 ここまで聞いて、さすがにはいそうですかと帰すのは心が痛むな。


「若葉、少しだけ待ってもらえるか? もう少しで仕事片付くから」

「え、そんな良いですよ。これは私たちの問題ですし……」

「そう言われても困ってるんだろ。昼間迷惑かけたし手伝わせてくれ」

「昼間……あっ」


 若葉はフラッシュバックしたのか勢いよく胸を隠した。やっべ地雷踏んだ!

「いや、下心はないんだ! 信じてくれ!」

「ほんとですか?」

「ああ! もちろんだ! もう一生変な目で見ない!」

「……それはそれでショックなんですけど。私ってそんなに魅力ないですか?」

「いや、違う。若葉は充分魅力的だ! 同い年なら絶対好きになってる!」

「同い年なら? じゃあ今は好きにならないんですか」

「そ、そういう意味じゃなくて……」

「じゃあお姉ちゃんと私どっちが良いんですか」

「またそれ!?」


 どうすりゃいいんだよ! というかなんで松下姉妹は比べあうんだよどっちもめちゃくちゃ可愛いよ!


「ふふっ。やっぱり面白いひと」


 僕があたふたしていると彼女は小さく笑った。こういう姿を見ていると最近はよく笑うようになったなと思うけど、完全に千鶴さんの道を進んでるんだよな……頼むから若葉には見た目も性格も可愛いままでいてほしい。そして——


「よし、終わったぞ若葉! 行くか!」

「どうして先生がウキウキしてるんですか。まあ、手伝ってもらうのでなにも言いませんけど」

 急いで荷物を手に取り若葉の横に並ぶ。そして職員室の戸締り消灯を確認したのちスーパーへと足を運ぶ。これで昼間の件を白紙にできるかな。

「本当にありがとうございます。あとお姉ちゃんにはもっとそういうの早くいうように言っておきます」

「まあまあ、僕は若葉とゆっくり話できるから嬉しいよ」

「それは私もですよ」


 若葉はまっすぐ僕の目を見て微笑む。その無邪気さは、老いてしまった僕にはあまりにも眩しいものだった。

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